2017年5月30日火曜日

ホント?

え、山口、鳥越したの?

昭和のSF

 前に本屋さんで、外国人が「サイエンス・フィクションはどこでしょうか?」と店員さんに聞いた。
 店員さんが「???」に陥ってしまったので、おせっかいを焼いて、
「SFの事だよ」
 と口を出した。
 店員さんの表情が明るくなり、外人を棚に案内していた。
 おせっかいのせいで、私はその場に取り残されてしまった・・・

 SFというのが「サイエンス・フィクション」のアルファベット・スープで、日本語では「空想科学小説」と訳していた。その頃、小説は空想ではなかったようだ。
 昭和の昔、未来と言えばみんな体にピッタリのピカピカ光る服を着ていた。
 それに、人工知能と言えば、大きなコンピュータが人類を支配していた。

 でも、今、人工知能はスマホに2,3個は入ってる感じで、どこかで大きなマシンが人類を監視・支配しているというのとはかなり違っている。
 藤子不二雄の作品の中で一番好きな「海の王子」は、海中にある巨大人工知能をやっつけるため、海の王子が身を捨てて特攻を敢行して終わった。小学生の時の悲しい思い出だ。
 マイクロソフトが海の中にサーバーを沈めるなんてのより数十年前に藤子不二雄はそんな作品を描いていた。

 手塚治虫が「ゼロマン」で描いた監視社会も、共産主義の生み出すものだった。手塚は日共支持者だったから、そういう意識もなく、ただ才能だけで漫画にしたんだろうけど、手塚漫画の無意識は、共産主義の崩壊を何度も描いていた。

 中央集権的なこの支配のイメージの元は、ジョージ・オーウェルだと思う。「1984」という作品だ。
 スペイン戦争に従軍し、ソビエト・ロシアに指導された共産主義者の裏切りにあったオーウェルは、共産主義の社会を、そういう未来の形で描いた。かなり本質的で正確な作品だった。「動物農場」は、同じテーマの寓話版で、レーニンもトロツキーもスターリンも同じ穴のムジナだと、ちゃんと書いていた。
 オーウェルから何十年も経って、まだ、わかっていない連中は、頭が空っぽなんじゃないかと思う。両耳にレンズをつければ望遠鏡になるかもしれない。
「1984」を、一般的な監視社会批判だと、勝手な嘘の解釈をした進歩派のデマゴーグも沢山いた。作品を読みもしない連中は、それを真に受けた。馬鹿だ。あれは、ソビエト・ロシアの全体主義を批判した作品であって、それ以外のものではない。

 幸い、ソ連は崩壊した。そして、日本は平成になった。
 昭和のSFの舞台となった時代が過ぎている。空飛ぶ円盤(UFOの事です。フライング・ソーサーの訳語です)も現れてれていないし(公式にはね。おそらく、非公式にも)、体にピッタリの服は着ていない(特殊な趣味の人もいるけどね。ああ、汚れてしまった俺!)。
 人工知能による人類の支配なんて、そういう楽しい事はきっとこれからも起きない。そこらを歩いているオッサンを支配して、どこが面白い? 何になる?

 いまだに古いイメージで、つまり、想像力が欠けているため、どこかから借りてきている代用イメージで「監視社会」だとか、「治安維持法」だとか言っている人たちの脳みそは、昭和のSFの中で安楽な惰眠を貪っているだけだ。



スタップの呪い

 小池都政って、何だか小保方を思い出す。
 ちょっと目には気が利いてて面白そうで、とっつきはいいんだけど、中身が出てこないという感じかな。

 小保方騒動の頃、狩野英孝はどうして割烹着来て「スタップ〰!」とやらなかったのか、今でも残念だ。そういうお笑いのセンスがまったくない人なんだね。

 何の話かとうと、小池都政は、このままスタップ都政になるしかなさそうだという事だ。
 おやおや・・・困ったね・・・

2017年5月28日日曜日

共謀罪反対の嘘

 中核派や革マル派、社青同、共産主義者同盟をはじめとするテロ集団、あるいは過激派、そして、その元活動家、シンパ、様々な関係者たちは、「テロ等準備罪」に反対をしている。
 かつて、それら新左翼と敵対し、ゲバ民(ゲバルト民青の略。一番強かったのが彼ららしい)を使って暴力沙汰を仕掛けていた共産党も反対している。
 今や薄ら馬鹿の代名詞となった左翼はことごとく反対しているらしい。ン? 民進党は左翼に見えるけど、そうは言わないのかな?
  テロ集団が反対するのは当たり前だが、それ以外の政党はどうして反対するのかよくわからない。もう自分たちがテロをやるような事はないとわかっているだろうし、そういう連中が出てきたら粛清するに決まってるのに、反対のための反対以外に理由はない反対をしている。
 まあ、この反対は「テロ等準備罪」、左翼の言い方をするなら「共謀罪」が、左翼にとって、自分たちの左翼性を証明する、踏み絵イシューになっているというだけの事で、中身はない。

 左翼は「テロ等準備罪」によって、日本が監視社会とやらになると主張している。元々、監視社会は旧ソ連の事で、国家権力が社会を監視する事で統制を維持強化しているのを指していた。監視社会は共産主義・社会主義と同義だったので、人はここで彼らをせせら笑う事ができる。
 でも、その前に、ここでエピソードをひとつ紹介する。

 随分前に、先輩が、その先輩の革マルの人間に突然頼まれて、引っ越しを手伝った時の話をしてくれた。
 車に荷物を積み、引越し先に向かう途中、信号で止まると、先輩の先輩さんは、身をかがめて隠れたという。革マルだったから、襲って来るのは中核派か社青同だ。そういう危険な行動に、後輩というだけで、無関係な人を巻き込む神経が左翼だ。
 先輩の先輩さんは、先輩に、
「いつもは公安警察が身辺を監視している。それが警護になって安心なんだが、革命組織の者として引っ越しの予定や引越し先を伝えるわけにいかない。引越し先もすぐにつきとめられるから、監視されて安心なんだが、それまでが怖いんだ」
 と話したという。

 これを革マル派の軟弱さの話だと誤解してはならない。中核派も社青同も同じだ。

 今、反対しているテロ集団は、すでに監視されていて、それによって守られている。何が反対だ。彼らは監視されていないと困るのだ。彼らの反対など嘘だ。八百長だ。
 彼らは、反対をしているのではなく、反対を装っているだけだ。反対している事になっていれば、格好がつくと、足りない頭で思い込んでいるのだろう。

「テロ等準備罪」の問題は、アルカイダやイスラム国集団に対応できるのかという点だ。また、かつての欧州のテロの背後には、旧ソ連の情報部が関与していたが、今の日本ならば背後で北朝鮮や支那が糸を引いているテロへの対応も大丈夫なのか。

 本来、国会ではこうした点が議論されていなければならない。
 それを、テロ集団と一緒になった左翼政党の反対運動のおかげで、無意味な法律となってしまったら、喜ぶのはイスラム・テロリストと外国の破壊工作者だけだ。

「暴対法」には反対だったし、今でも反対だが、「テロ等準備罪」には反対しない。
「個人情報保護法」も、廃止して、ビッグデータの活用を推進した方がいいと考えているが、「テロ等準備罪」には反対しない。
 いや、反対しないでは弱い。賛成しよう。
 左翼が「共謀罪」に反対しているのは、格好だけの嘘だが、こちらの賛成は本当だ。


いない方がいいけど、いるなら遠くにいてくれよ

 民進党っていいなと思うのは、ああいう人たちが色々な所に散って、隠れていられると面倒な気がするからだ。固まっていてくれると、無視するのが簡単になる。
 反原発(今は、脱原発というのかな?)派も固まっていてくれた方が楽だ。やはりまとめて無視できるからだ。
 反原発とか、沖縄とか、テロ当準備罪反対とか・・・何だかみんな同じ人たちがやっている感じだけれど、突っ込みを入れるのも馬鹿馬鹿しいから無視する事にしている。時々、あの人たちの発信を目にすると、デマ、風評、歪曲、思い込みといった、あまりにも水準の低い言説を振りまいているので暗澹たる気持ちになる。
 本来重要で、議論を深めていい事であっても、彼らの水準が低すぎて話が出来そうもないからだ。
 それに苛立つ人は、突っ込みを入れる事になるのかもしれないが、あまりにも無駄なのでやる気にならない。
 あの人たちとは無関係に、重要と感じたり、必要と思った事は、一人で考えを深めるしかないようだ。彼らは、本質的な部分には興味がないようだし、興味を持つだけの知力もなさそうだ。
 彼らは何でも「反対」するが、その反対運動は反対ではなくて運動が主目的のようだ。つまり、勢力拡大が目的なのであって、「反対」の対象はそのための道具、チラシ広告で言えば、安売りの目玉商品だ。反原発でも、沖縄でも、あの人たちは感情を煽ろうとする。
 彼らは、危機感を煽って人々を刺激し、感情的になって錯乱したマスヒステリー状態の大衆を政治的な意図をもって、ひとつの方向に動員しようとしている。
 でも、実際は、彼らの煽りは通用しなくなっていて、運動も日々小さくなっている。惨めだ。
 あの人たちは、その進歩のなさと、進歩を邪魔しようとする行動から、「反動」そのものであり、民主主義は自分たちの事だから、人々は自分たちの命令を聞いていればいいという誇大妄想から、民主主義のみの字も理解できていない事があきらかな薄ら馬鹿どもだ。

 そういう迷惑な人たちは、遠くにいてくれた方がいいから。一箇所に固まっていてくれた方が助かる。
 それなのに、民進党は消滅しかかってたりして・・・嫌だ・・・次はファーストにとり憑くのかね・・・何てもいいから固まってておくれ。

 もう神仏に祈願しちゃってもいい。

 ウー、進歩派退散、進歩派退散・・・オンバサラ、民進固まれ、社民も固まれ、ソワカ・・・カシコミカシコミ、原発沖縄共謀忖度・・・


2017年5月27日土曜日

博士と詩人

 映画「カリガリ博士」は精神病医が患者を使って悪事を働くという物語だが、その話をするのが患者であるため、妄想か現実かわからない恐怖がある。(しかも、保存状態のせいで映像の状態が悪いのも怖い)
 チェスタトンの小説「詩人と狂人たち」も同じ着想で、詩人たる主人公は狂人たちを操る者と戦う。

 これは「洗脳」に結びついて行った。ただ狂人を利用するのではなく、意図的に狂わせてしまおうと言うわけだ。しかも、目的を定め、そこに向かって狂わせようというのである。
「洗脳」は、ソビエト・ロシアでレーニンがパブロフ博士に研究を命じて始まった。パブロフというのは、犬を使った実験で「条件反射」を研究した、あのパブロフだ。
 第一次大戦後から第二次大戦までの期間、精神医学はレーニンとは別個に、洗脳に結びつく領域に脚を踏み込んでいたようだ。後々、戦争でアメリカに亡命した研究者が、アメリカ軍に協力してアメリカの洗脳研究に関与して行く。
 アメリカで洗脳研究が始まるのは、朝鮮戦争で中国軍の捕虜になった国連軍兵士たちが虐待され、洗脳されたのがきっかけだった。捕虜となった兵士たちの「洗脳解除」が必要になったのである。「洗脳解除」というのは、治療に他ならない。これがPTSD治療につながって行く。
 朝鮮戦争の前には、ソビエト・ロシアが日本兵捕虜を虐待し、洗脳した上で帰国させた。それが戦後日本の武装共産党騒動になった。トラック部隊や山村工作隊は、洗脳の産物だったと考えられる。

 アメリカが治療から踏み込んで行くのは情報機関や軍隊が研究を始めたためだ。大学や研究機関が予算を得て、人体実験をやった。
 英国もこの研究に参加するが、情報が出なかったため、ほとんどの事がわからないままになっている。ソビエトや中国共産党の洗脳研究も、ほぼ何もわからない。

「洗脳」という言葉は、中ソの共産主義者がやった事を指す言葉で、英米は「行動コントロール」という名称で研究を行った。
 アメリカでは、この研究から出たノウハウが新興宗教や自己啓発セミナーに流れた。日本の地獄の特訓などの自己啓発セミナーも同じだ。日本の自己啓発セミナーは朝鮮戦争の頃に米軍で働いていた日本人などが、米軍のセミナーに触れたところから始まったらしい。

 カリガリ博士は多くの子を持った。彼の子孫は、おびただしい失敗を重ね、死屍累々の道を歩んだ。でも、もしかしたら、どこかで成果が出ているの可能性もある。研究が続いている可能性を示しているかもしれない小さな出来事が、時々ある。 

 医師や研究者とは別に、宗教家も洗脳と近い所にいる。オウム真理教は洗脳研究に血道を上げていたが、あいつらだけではない。洗脳の意識すらなく、若者を洗脳し、悪事に駆り立てている者がいる。
 そう、イスラム国集団(ISIL)は、若者の不満や不安を煽り、思考力を破壊し、自爆テロという犯罪に駆り立てている。あのグループの中枢は凶悪で悪辣な犯罪者であり、死刑のある場所で裁かれるべき者たちだが、末端は医療が対応すべき患者かもしれない。

 この話の始めに戻るとすれば、カリガリ博士やカリガリ教祖はもういるのだから、次に必要なのは詩人だ。現在の詩人は、爆弾を落とし、ドローンを飛ばす。馬鹿げた言い回しをひねるよりも、その方が詩である場合がある。
 


2017年5月26日金曜日

原始人とゾンビ

 ゾンビでロッキー・エリクソンを思い出した。
「昨夜ゾンビと歩いたんだ」という曲をやっている。歌詞はそれだけで、ほぼ馬鹿丸出しなのだが、見た目はとても馬鹿丸出しで、大好きだ。
 ロックの歴史に残る歌手で、13階のエレベータというバンドをやっていた。そのバンドは、耳障りの悪い、妙な音のする「楽器」(あんなものを楽器と呼べるならばという、かなり難しい前提を必要とするが)を必ず入れる事で、おそらくコマーシャリズムに反抗を表現していたのだろう(でなければ、まったくの馬鹿か、時流におもねた気取り屋だったか)と思うが、そういう音楽をやっていた。サイケデリックの始祖鳥のひとつという評価が出来るかもしれない。
 エリクソンは見た目の悪いサエない爺さんで、格好も良くないが、妙に元気なロックをやる。聞いていて、こんなんでもいいな、楽しいなと感じさせてくれる。
 始祖鳥というより、原点と言うべきかもしれない、そして、原点から動いた事がない。原点そのままだったら、原始人とも言えるだろう。サイケデリック・ロックの原始人だ。素晴らしい。
 おそらく麻薬漬けの人生だと思うが、生きているようだから丈夫なはずだ。末永く馬鹿ロックをやってもらいたい。手放しで応援している。

2017年5月25日木曜日

歩く美魔女

 美魔女と言う言葉がある。美容・ファッションのお得意様の婆さんたちを指す言葉だ。

 美容関係で、あの婆さんたちに使われるのは、豚の胎盤とか、カタツムリの粘液とか、そういうシロモノだ。初めて知った時にはおどろおどろしいものだと感じた。

 でも、魔女だったら、婆さんがヒキガエルだ蛇だの、おどろおどろしいものを鍋で煮るのはあたりまえだ。
 美魔女も婆さんなのだし、おどろおどろしいものとの違和感もない。そうすると・・・そうか、顔が鍋なのか!

 美魔女は、鍋の代わりに顔で凄いものを似る婆さんたちなんだ・・・

 ブードゥー教には、人をゾンビにしてしまうゾンビ・パウダーという粉があるけど、美魔女なら化粧で使う粉で対抗できる。
 ゾンビ対婆ァ・・・うーん、ゾンビごときに勝てるだろうか? ウォーキング・婆ァ・・・土日になると、丈夫そうなのが、その辺を集団で歩いている。

 やっぱ婆ァって、怖ええよな。

 

コミュニケーション・スキル・ブレイクダウン

 知っている事でも知らないと言った方がコミュニケーションは上手く行くそうだ。
 ふうん、そうやって嘘言って、相手をいい気持ちにさせたりして、スキを突くんだね。で、相手を操作しようというわけだ。
 コミュニケーション力とか、コミュニケーション術と言われるものって、相手から情報を引き出したり、こっちの売りたい物を買わせるにはどうすればいいかってだけの話だよね。

 で、そのコミュニケーション・スキルとやらを身に着けた人同士が話すと、
「知らない」
「そうですか、私の方が知らない」
「はい、私の方がもっと知らない」
「私の方がもっともっと知らない」
「私の方がもっともっともっと知らない」
という会話になる。人数が増えても同じだが、ちゃんと数えておかないと、自分の時に何回「もっと」を言わなければならないかわからなくなる。

 腹黒いのを隠しながらおためごかしの嘘を言い合って、中身のない関係の作る・・・アレ? いままでと変わらないような気もするぞ・・・違うのは、下の者が上の人間にゴマすってやってた事を、上も下もなくみんなしてやるって所なのかな?

 ここで面倒くさがって、
「あ、それはわかってる」
とか言ってしまうヤツがいると、「もっと」の回数がリセットされてしまうので混乱する。
 でも、気を取り直して、
「そうなんですか、凄いですね」
と、コミュニケーション・スキルを発揮するのだが、
「いや。凄くない。知ってても意味ない」
 取り付く島もない態度をとり、興味を失った顔で離れて行く。

 こうして、コミュニケーション・スキルのない人は去り、その場は、再びコミュニケーション・スキルに満ちた人たちだけの楽園になる。安心して「もっと」を数えられる。こうなったら「もっと」を通貨として採用してもいいかもしれない。ブロックチェーンを使えば「ビット・もっと」なんて弁当屋みたいな名前だが、デジタル化もできる。

 ぶっきらぼうで、面倒くさがりで、正直な人がいかに迷惑な存在か、これでわかる。
 偉そうにしたいだけの爺ィなんてのはまったくのカモだという事もよくわかる。

 つまり、コミュニケーション・スキルというのは、粗製乱造で内容のないベビーブーマー世代を転がしてカモにするための接客ノウハウなのかもしれない。

 本当に人と気持ちを通わせてつきあいたいなら、無駄で無意味な時間を沢山使うしかない。そこでは効率といった市場で求められる価値がまったく機能しない。私的領域という事だ。私的領域と社会的領域の区別がつかない混乱は失敗に結びつく。

 コミュニケーション・スキルのない人は、ある人とは付き合わない方がいい中身がないからだ。
 コミュニケーション・スキルのある人も、ある人と付き合わない方がいい。「もっと」の数を数える以外にやる事がないからだ。

 コミュニケーション・スキルのない人は、孤独になり、寂しく老いさらばえ死んで行く。
 コミュニケーション・スキルのある人も、孤独になり、寂しく老いさらばえ死んでゆく。

 老いというのは、孤独で寂しく、しかも、もうすぐ死ぬものだからだ。

チャーリー・ブラウン、俺を許してくれ!

 故チャールズ・シュルツの漫画シリーズ「ピーナツ・ブックス」(シュルツはこのタイトルを嫌っていたという。よくある話)は、少年時代に女の子にうんざりさせられた事があれば、つまり、男の子だったらほとんど誰でも理解し、共感できる作品だ。
 登場するどの女の子も凄い。
 でも、現実の男の子は、そんな話には飽きるし、戦って悪いヤツをやっつける話の方が好きなので、あまりピーナッツを読まないかもしれない。
 だから、この漫画の読者像としてあるべきなのは、少数の男が、苦い思いを噛み殺しながら読む姿のはずだ。
 しかし、世の中には、そんなひ弱で繊細な男ばかりで出来ているのではない。恐るべきことに女がいる。

「スヌーピー、可愛い〰い〰」

とか吠えながら突進し、シュルツの作った世界を踏み潰し、破壊しつくしてやまない存在だ。
 あの、影のある屈折した世界など、まったく理解できないのだ。動物の絵を見れば、条件反射で「可愛い」と感じる。あるいは、本当は感じていなくても、そう言う。
 それを別の言い方で表現すると鈍感という言葉になるのだが、鈍感で、理解力に乏しいのは多数派だ。
 だから、可哀想に、スヌーピーは可愛いくされてしまう。そんな事をするなんて、無神経の見本として表彰してもいいぐらいだ。

 ピーナツの登場キャラクターの商品化は、ひとつの表現世界の蹂躙と破壊に他ならない。

 でも、子供がそれを欲しいと言えば、黙って負け、ぬいぐるみを売っている店に行く。
 そして、買う前に正式ライセンスかを確かめたりもする。

 チャーリー、このどうしようもない大衆を許してくれ!
 
 

 
 
 

2017年5月24日水曜日

ワイマールの教訓

 第一次大戦後、ドイツでワイーマール憲法が成立した。当時としては開明的で進歩的な内容の憲法とされているが、結果としてはナチス・ドイツの第三帝国を生み出した。

 良くしようと思い、良くしようとした結果、悪くなってしまった。
 ワイマールから引き出せる教訓はこれだ。
 実際、これは良くある話だ。悪くなるとまでは行かなくても、結果が思わしくないという程度なら、ほとんどの行為の帰結にあてはまる。人の意図は現実に移されると、ほぼこういう末路をたどる。 

 良くしようとしたのだから、良くなるとなどと期待してはいけない。
 良い意図と良い結果、悪い意図と悪い結果が対にはなっていない。どのように結びつくかまったくわからないものだ。
 ただ、時として、何かの間違いなのか、いい結果が出る事があるかもしれない。
 ローリング・ストーンズなら 'You can't always get what you want' と歌うところだ。

 人の行為は、理想と較べて何割ぐらい達成できたかを考えるものだ。半分ぐらいだったら大成功という時もあるだろうし、6割で良しとするという場合もあるだろう。本当は、もっと低いところで妥協しているかもしれない。
 でも、それでいいんだ。そう見れば、良くしようとして、良くなったと言える。それは大事な事だ。
 どんぱん節でも「なかなか思うようにゃ、いかねもんだ〰」と歌っている。
 教訓には従った方がいい時がある。
 
 

2017年5月22日月曜日

路上煙草は迷惑です

 店や建物の中での喫煙は、そこでのルールでやればいい。困るのは、建物が禁煙だからと、道で煙草を吸われる事だ。通りかかると道に煙が漂っている事がある。歩道はそんなに広くないんだよね。臭いし、気持ち悪い。
 煙草をくわえ、携帯を片手に持って自転車に乗っている人がいたりするが、携帯中毒者、喫煙者、自転車に乗る人って、意識の低い人が多いかもしれない。(この場合、みんながみんななどと言わない事がミソ)

 喫煙でガンになるリスクが高まる事について、例外を1つか2つ出しても意味がないのはあたりまえで、どこのおじいさんが煙草を吸ってても長生きしてるなんてエピソードは、喫煙のリスクをまったく下げない。
 煙草を吸うとその場で死ぬというなら、話は簡単で、出来るだけ邪魔にならない場所で死ねばいい。でも、非可逆的な害が少しずつ喫煙者と、そして、受動喫煙者の体を蝕むのだから、事は面倒になる。

 原子力発電は安全だが、煙草は危険だ。

 大げさに言えば、これが現在の人類の文明の安全に対する認識だ。

2017年5月21日日曜日

間抜けと希望

 女性と一緒にいると自分が間抜けに思えてしかたがない。
 理由のひとつは、私が間抜けだからなのは間違いないが、いつもより間抜けに思えてしかたがない。
 その理由として考えられるのは、

1.女性といる時には、良く見られたいのにうまく行かず、絶望的な気持ちになるため、自分が間抜けに見えてしかたがない。

2.本当は、女性といる時の方が本当の自分の間抜けさが出ているのだが、男同士だと、みんな間抜けなので感じ方が薄まるというか、緩和される。

3.両方。

4.本当の自分の間抜けさは、まだ自覚できていない。本当はもっともっと間抜けだ。

 なんてところだろうか。どれひとつとして面白い話はない。先に行こう。
 対処法として考えられるのは、
1.間抜けじゃなくなる。

2.女性に良く見られようと思わない事にする。

3.人間関係を男のつきあいに限定する。

 なんてところだろうか、そして、

 1は、理性的に考えて不可能なので、合理的選択として取り組まない事にする。
 2は、こっちは現実として、女性はまったく良く見てくれないので、後は自分の意識がそれを受け入れて前に進むかどうかだけだ。12段階を経る必要があるかもしれない。
 3は、これもすでにそうなっているので選択の問題ではない。

 つまり、何もせず、このまま人生を終わればいいだけだ。
 このようにして、問題は何も解決せず、何も改善されず、無駄に時間を費やすだけなのが生きるという事なのかもしれない。
 この結論は人間にとって、唯一かもしれない希望だと思うのだが、そう感じられない人もいるかもしれない。
 そういう人は、

1.珍しく間抜けではない。

2.自分の間抜けを自覚出来ていない。

 の、どちらかで、

 1の方の人については何も言うべき立場にない。
 2の方の人は最終的には仲間だから、そのうち希望を持ってもらえるだろう。

 もちろんこの話、どこか間が抜けているに決まっているのだが、残念ながらそれがわかるようなら間抜けではない事になるので、この話はこのまま、つまり、不完全なまま終わる。






2017年5月20日土曜日

本気なんて出さない方がいいんだろうね

 核武装し、物騒な実験を繰り返す隣国北朝鮮から国民を守る方法は、避難のしかたを考える事ではなくて、先制攻撃をして相手を無力化する以外にないんだけどな・・・
 良くてミサイル攻撃、悪くすれば核攻撃や毒ガス攻撃まで考えられるのに、政府にも、政治家にも、本気で考えてる人はいなさそうだ。
 そんな風にアテにならないから、子供を産む人も減るのかもしれない・・・

 しかるべき人が本気を出さないで、小さくお茶を濁しているのは、その方がいいからなんだろうね。

心のかけらと天城越え

 ジャニス・ジョプリンが歌った中でも代表曲のひとつという扱いなのが邦題「心のかけら」(Piece of My Heart) らしい。
 元々はアレサ・フランクシンのお姉さんの、エルマ・フランクリンが歌った曲で、これも素晴らしい歌唱だ。
 アメリカの女性歌手はこの曲が好きで、色々な人が歌っている。日本だと「天城越え」みたいな感じで女性のハートをキックしているみたいで、色々な女性歌手が熱唱している。
 男だと、エアロスミスのスティーブン・タイラーが歌っているが、バックにたむろしているコーラス隊と思われる女性たちが、タイラーそっちのけで歌っていたりする。

往年の大女優が集まって、「天城越え」を歌う会を開催しているという話を聞いて、

〰何があっても、もういいの♪

 と歌われても、もう何もありませんから、安心なさってくださいと、落ち着いていただきたくなるが、あまりの迫力に声が出ない・・・みたいな、背筋の寒くなる思いをした。

 バックバンドがあまり好みではないので、ジャニス・ジョプリンは時々しか聞かないが、今の整った演奏でジャニスの歌というのも厳しいかもしれない。キャロル・トンプソンのロック・ステディ風の演奏にのせた歌を聞くと、両者の違いにひたすら戸惑ってしまう。

ジャニスの音源から歌を抜き出して、バックを録音し直すなんて気味の悪い事をする人がいないのは、あの演奏と歌の結びつきは、もうどうしようもないからかもしれない。だとしたら、それがあの演奏で最も評価すべき点のような気がする。


2017年5月19日金曜日

親分たちの近世と近代

 時代劇が好きなのだけれど、テレビ・ドラマが作られなくなったのでつまらない。時代劇を演れる役者がいなくなってしまったのかもしれない。嵐の松潤で「ご存知からす堂」でもやってくれないかなと、ゴホッゴホッ・・・すっかり年寄りになりきって思う・・・
 時代劇に岡っ引きが出て来るが、岡っ引きを「親分」と呼ぶ。どうしてかというと、親分が岡っ引きになるからだ。岡っ引きになると、自動的に親分と呼ばれるわけではない。親分だから子分もいる。捜査活動に人手は不可欠だから、親分子分セットの方が都合がいい。
 ここから「二足のわらじ」という言葉が出た。時代劇では、裏で賭場をやっていたり、ヤクザだったりする岡っ引きを悪者として表現する時に言う言葉だが、これは話が逆で、本当はヤクザと言えばみんなヤクザで、親分を岡っ引きにしたのだから、岡っ引きは地元の顔役とか、ヤクザとか、建築土木の組を構えているとか、そういう人たちだった。
 岡っ引き=親分は、縄張りを持っていた。縄張りが親分を持っていたと言ってもいい。さほど広くもない町を、親分が仕切っていた。町内を親分や子分が回って、病人や一人暮らしの年寄りに声をかけたりもしていた。御用聞きというのがこれだ。
 親分は、治安維持と福利厚生を担っていたわけだ。縄張りは、つまり、秩序維持の基盤だった。
 十手を預かると言っても、給金がついて来るわけではない。まったくの奉仕なのだが、縄張りが平和に保たれ、福利厚生もしっかりして、親分の評判がいいという事になると、本業が安定したと思う。賭場にいい客がつくとか、大きな仕事を受注するとか、そういう見返りがあっただろう。
 評判の悪い親分の賭場に、いい客が来るはずもなく、大事な仕事を頼もうと思う人はいない。
 アコギな高利貸の手先になって、病人の寝ている布団をはがして行くような真似をしていたら、相手にされなくなってしまう。縄張りをまたぐ捜査活動でも、他の親分に嫌われているのと、あいつは男だと思われているのとでは雲泥の差がつくに決まっている。
 親分たちは、出入りの寺の寺格などによって、暗黙の格付けがあった。吉原の花魁が足抜けし、三ノ輪に逃げるという出来事があったという。吉原から三ノ輪まで、散歩で歩いてしまう距離だ。
 こんなに近い距離なのに逃げ切ったというので、最初はどうしてかわからなかった。でも、縄張りと親分の力関係を考えてみれば、あたりまえの事だとわかった。花魁は、これを考えて逃亡に踏み切ったのだ。
 水戸街道につながる道、今で言う昭和通りが縄張りの境界線だったと思う。投込寺が通り沿いにある。投げ込み寺までが吉原の範囲と考えていい。
 足抜けされた方は、しかし、縄張りを超えて追うわけにはいかない。三ノ輪あたりの親分と話をつけてでなければ、人の縄張りに踏み込む事になる。しかも、親分の格としては、どうも吉原は下だったようだ。
「無情な真似もできねえな」
 とか言われたら、それで終わりだった。
 昭和通りの外側、今の荒川区に重なる地域は、東北に向かう、江戸の最も外側の防衛戦だった。仙台藩伊達家は、徳川家にとって北の大国として警戒しなければならない相手だった。
 神田川は仙台堀とも言うが、これは徳川が伊達家に作らせた堀だったからだ。徳川は、伊達家の戦費を削るために大規模工事をさせた。
 これに対する防衛線として、徳川は三河からつき従い、江戸建設に従事した土木業者を住まわせた。三河島というのは、三河にちなんだ名称だという。
 この土木業門右衛門は苗字帯刀を許され、松本を名乗ったという。
 松本門右衛門も、代々親分で、町内の世話役として苦労したという。

 親分たちは、犯人逮捕のためには逮捕術などを身に着けねばならなかっただろう。江戸時代、百姓町人たちも剣術をやる者は多かった。町道場というのは、この層に剣術を教えていた。幕末の新撰組はこういう場で剣術を身に着けた人たちだった。

 明治維新後、維新政府は、岡っ引きという秩序維持制度を継承せず、新たに警察を設置した。とりわけ江戸=東京といった、大都市要所には薩長の人材を導入した。
 親分たちは、わらじの一足を脱ぎ捨てた人もいれば、警察官になった者もいた。
 松本門右衛門は彰義隊に駆り出されてバリケード作りなどをし、結局逃亡しなければならない身の上となったという。

 親分たちは、土木、建築、港湾労働、運輸、炭鉱など、様々な仕事をしながら近代に対処し、様々な道に別れて行く。そして、自由民権運動や困民党運動に入って行く親分たちも多かった。
 この親分たちの縁の下の支えがなければ、民権運動が地に足をつける事はなかっただろう。武士崩れの壮士たちの大言壮語と仕込み杖だけで出来る事などなかった。彼らの話を聞き、人を組織し、金を工面し、場合によっては逃亡を助けたり、白刃をきらめかせたのは彼らだった。
 無闇な西洋かぶれが薩長国権派から派生した際に、目に余るとして国粋主義が出て来た。国権派と対峙したのだから、国粋主義は自由民権運動の思想だった。自由党が全国の親分たちを糾合した時に、これを国粋会としたのは自然な事だった。

追記: ご指摘をいただき、以下の記事で訂正をいたしました。

    訂正
 

2017年5月18日木曜日

三河島の地名について

親分たちの近世と近代」について、ご指摘をいただきました。
三河島の地名の由来についてです。

荒川102」というサイトにある、

三河島の歴史


という記事の「地名の由来と三河島菜」にあるように、三河島の地名の由来が、

「徳川家康が三河から連れてきた家臣が住んだから」

とは言えないようです。

訂正いたします。

助かります。ありがとうございました。


カーペンターズ  カレンのハードロック

 カーペンターズを聞く。

 カレンは、あの素晴らしい歌唱力のせいで好きなハードロックをやらせてもらえず、本当はアリス・クーパーみたいなのがやりたかったかもしれないのに(違うだろうけど)、スクールズ・アウトではなく(だから、違うだろうけど)、スーパースターを歌うしかなかった。
 彼女にとって、音楽は自由などではなかった。そして、拒食症になり、自死と言っていい死への道を突き進んだ。
 もっと無神経だったら生き延びる事が出来ただろう。そうしておばちゃんになれば、みんなをうんざりさせたり、ガラガラ声になったり、人が止めるのなど耳に入らないほど身勝手になり、無駄に押しが強くなり(違うだろうけど)、やりたければ、ハードロックなどいくらでも出来ただろうにと思う。

 生きてて、そっちの方に行けば、メタルの可能性もあった。デスだってやったかもしれない。スラッシュ、いや、グラインド・コア(実はこの辺、まったく区別がつかないけど)・・・ジャンバラヤのメタルなんて、凄い事は凄いだろうな・・・

 だから、飯は食わなきゃいけないし、嫌でも何でも生きてた方がいい。

 カレンは死ななきゃ、カーペンターズを辞められなかったのだろうか・・・? 

2017年5月17日水曜日

高浜原発が再稼働した。
良かった。

稼働可能なすべての原発の早期再稼働を

Crossing Muddy Waters

 ジョン・ハイアットの「クロッシング・マディー・ウォーター」をよく聞く。いいな、渋い声だな、男の歌だなとか、浸りきって聞く。

 最初にこの曲を聞いたのは、アオイフェ・オドノバン、サラ・ジャロスツ、サラ・ワトキンスの3人の歌だった。
 アオイフェ嬢、2人のサラ嬢(スペルは違う)、3人の歌姫たちはそれぞれソロの活動をしている。3人でもソロでも、どちらも素晴らしい。

 フォーク・ブルースやブルーグラス、フォークソングやケイジャン音楽、カントリー・・・アメリカでは伝統音楽というのだろうか、今でも若い人たちがいい音楽を作っている。伝統に則りながら、先進的な音を作っている人たちもいる。
 アオイフェ嬢たちも、ちゃんと自分の音楽をやっているようで嬉しい。みんな質の高い音楽を作っている。

 1960年代の終わり頃から、ロックの中で、ルーツに遡る傾向がひとつのメイン・ストリームになった。この傾向がワールド・ミュージックまで派生して行くんだと思うけれど、だいたい、ピーター・バラカンさんが好んでいるあたりが、その傾向かなと感じている。見当外れかもしれない。

 今になってみると、ロックは年寄りだけが頑張ってて、若い人が出てこない感じがある。ちゃんと追いかけているわけじゃないから断定はできないけど、本当のところどうなのだろうか?

 ビートルズが解散して穴の開いた市場を狙って、みんな大活躍したおかげで、ロック市場は大きなものになったけど、それも消えてしまった。ベビーブーマーがくたびれてしまったからだろうか。乱痴気騒ぎがもう終わったというなら、良かったかもしれない。
 市場に振り回されて色んなものが方向を失ってたけど、本来ある所に戻り、向かうべき所に向かうしかないのだろう。

 クロッシング・マディー・ウォーターだね。馬鹿げた泥水を渡ってね。
 
 
 

2017年5月16日火曜日

in to the dark

 メリッサ・エスリッジの「イン・トゥー・ザ・ダーク」をかけて、サビの所を一緒に口ずさみながら、エスリッジ、何かカッコイイと気持ち良くしてます。
 この曲、スティーブン・キングの「コロラド・キッド」が原作の「ヘイブン」というドラマの中で使われていたのが気に入りました。
「コロラド・キッド」は読んでないけど、「ヘイブン」は面白い。キングもとても力のある作家だけど、ドラマを作っている人、これも力がある。
 早く残りのシーズンをやってくれないかな。待ってるよ〰ォォォ・・・

2017年5月13日土曜日

何だかほっこりな夜

BDA 3 (こんな本、何だかわかる必要のある人はすでに知ってるし、わからない人にはまったく縁がないから説明しません)を読みながら猫をかまってたら、膝の上に乗ってきて、ナデナデしているうちに、すっかり フルホッコ

うーん、寝る事にしよう。

2017年5月11日木曜日

若きウェルテルはその後、まったく悩まなくなった

 昔、「若きウェルテルの悩み」を読んで憂鬱になってしまう若者が出てきたのを憂慮した人が、自ら筆を執り、続編を書いてしまったという。
 ウェルテルが結婚し、勤勉に仕事をするという筋書きらしい。むろん悩んだりはしないと推測する。
 昔の人は偉い。今、漫画やビデオに文句言う人たちで、ただの一人も続編を制作して倫理を問う人などいない。言いっぱなしだ。
 非倫理的な漫画の主人公が何とか母の会に賛同したり、新日本婦人の会に賛同したり、夫人民主新聞を購読したりして、真人間になり、慎ましく生きて行くなどという続編・・・ガツンとおばちゃんになり、野菜買っている場面で終わったりすると感動する人がいるかも。
 そういう神続編で世を啓蒙しようという事はなくて、こういう表現は禁止しろと騒ぐだけだ。

「若きウェルテルの悩み」の続編の話は、ハイネが散文で書いている。ハイネはかなり辛辣な散文の書き手で面白い。
 でも、今は絶版になっていて、再販もおそらくされないから、古本か図書館で読むしかないだろう。すぐに書名も出て来ないのは、昼なお暗い部屋の奥地に行ってしまっているからだ。
 今度、探し出して、それについて書いてみようと思う。

2017年5月10日水曜日

システムとしての早野凡平

ビートルズの「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のオーケストラは、費用の関係で、半分だけ雇い、半分ずつ録音されたそうだ。
それを知って、これは日本の著名なハイエンド・アーティスト早野凡平と同じだと思った。
あの有名な早野凡平の帽子作品だ、そう、ナポレオンや忍者のアレだ。海パンが「ア・デイ・インザ・ライフ」と同じだ。
これでわかる人はいいとして、わからない人もそのままでいい。
私は親切じゃない時もあるというだけの事で、つまり、話も半分だけにしておく。

2017年5月9日火曜日

昨日の補足

 一つ前の投稿は書きながら眠くなってしまったので面倒臭いものになったかもしれない。
 共産主義=マルクス主義は革命の寄生虫で、ロシア革命を食い物にしたが、その結果、宿主を殺してしまい、ついに寄生する事が出来なくなってしまったので崩壊してしまった。もう、マルクス主義に革命を期待するのも、恐れるのも根拠がないという話です。はい。


 

2017年5月8日月曜日

錯誤と停滞

 ロシア革命はケレンスキーが最終的に率いる事となった勢力が長年の苦闘の末にこぎつけた成果だった。多数派を名乗った少数派(つまりボルシェビキ)は列車強盗といった犯罪をやっていただけだった。
 その少数派の頭目レーニンは職業売国奴で、誰にでもロシアを売り、金にしようとした。それで日露戦争の時、日本はレーニンに金をくれてやった。
 革命が起きると、レーニンは反革命を宣言し、ドイツから資金をもらってロシア入りした。ドイツは第一次大戦でフランスとロシアを相手に二面作戦を展開しており、ロシアに手を引かせ、西部戦線に専念したかったのだ。
 ロシアに乗り込んだレーニンは、与太者を金で雇い、サンクトペテルブルクを拠点に革命派に襲いかかった。この暴力革命は成功し、ボルシェビキ派はロシア革命の横取りに成功した。
 レーニンはドイツのために「反戦」を唱えて戦争から手を引き、ドイツは西部戦線に集中した。

 ロシア共産党(ボルシェビキ)はこうして政権を取った。その後に続く惨状は気持ちが暗くなるので割愛する。興味のある方は「共産主義黒書」などをどうぞ。

 ロシア共産党は各国の共産党を指導する事となった。ロシア方式という成功体験が金科玉条とされた。

 スペインではアナーキストが主導した勢力が政権を取ったが、フランコ将軍が自軍を率いて内乱を開始した。共産党は権力を奪うためにアナーキストに襲いかかり、みんな死刑にしてしまった。戦線はズタズタになり、フランコは勝利した。共産党が勝利したら、スペイン人は情熱的にスペインをキリングフィールドにしただろうから、それよりはフランコの方が良かった可能性が高い。
 ともかく、スペインでは共産党による横取りは失敗した。

 支那では、国民党が清を倒し、漢民族の国家を樹立したが、紆余曲折があり、中共が日本軍を戦争に引きずり込む謀略もあり、日本軍も好戦的だったので日中戦争となってしまった。
 共産軍は弱体で逃げてばかりいたが、蒋介石は馬鹿だったのか、国共合作で共産党と共同戦線を張ってしまった。しかし、日本軍と戦うのは国民党ばかりで、共産党は国民党軍を後ろから攻撃していた。結局、国共合作は破綻するが、蒋介石は何を考えていたのか、二度も同じ轍を踏んだ。
 アメリカがうかうかしていた事や、共産主義勢力がアメリカに浸透していた事など、色々あったのだろう、ロシアを背景にした共産党軍は、大戦後、国共内戦で勝利してしまい、支那を支配する事となった。
 清の打倒には無関係で、日本軍とも戦わずにいた毛沢東の中共だが、支那の横取りには成功した。

 共産主義者は「革命」などと口にするが、それは自己申告にすぎない。マルクス主義はただの一度も自力で革命に成功した試しはない。だから、共産主義革命を恐れる人はまったくの過大評価をしているだけだ。彼らは、人が成し遂げようとしている革命を横取りし、薄汚く貶めるだけだ。
 もし革命を恐れるなら、理想を持ち、地道に努力し、人望がある、本当の(つまり、共産主義者ではない)革命家を恐れるべきだ。
 でも、本当はそんな必要もない。ロシア革命によって共産党が革命の家元となってしまったため、本物の革命家は共産党によって異端とされ、排除されるのでいなくなってしまった。
 共産党は、こうして横取りが出来なくなった。
 ロシアを始めとして共産党が権力を取った国々は不幸にしかならなかったし、経済的に行き詰ってしまい、崩壊して行った。
 支那はアメリカのおかげで中共は崩壊せず、一党独裁を続けているが、漏れ伝わる内容が悪すぎて、とても評価は出来ない状態のようだ。

 マルクス主義は失敗した。革命思想として、横取りは出来るが、革命は出来ないのだから無価値だ。これはレーニンが悪いのだと言いたがる人がいるかもしれないが、レーニンがいなければロシア革命すらなかっただろう。
 社会建設の理論としても、現実を見ればはっきりと無残な失敗しかない。
 ロシア人が馬鹿ばかりそろっていたから、マルクス思想が理解できなかったと言いたい人がいるかもしれないが、無根拠の見本になるからよした方がいい。

 マルクス主義は馬鹿馬鹿しいから、もう省みる必要がない。まったく気にしなくていい。私たちの歴史がやっとの思いでその現実認識にたどり着いたのがつい最近だ。
 この事の意味をきちんと整理した人はいない。ある人は苦い思いで、別の人は安堵して、その時をやり過ごしただけだ。だから、何かあると、ズルズルと過去に戻ってしまう人々が出て来る。
 ショックから立ち直れないのだろう。古い言い方をすれば「革命ボケ」だ。「進歩ボケ」でもあるかもしれない。「革命」や「進歩」だと思っていたものが、まったくの偽物だった事をどこにも持っていけなくなっているのだ。 
 つまり、そんなのを信奉して「知識人」のつもりでいたら、全くの馬鹿だった事を処理しきれなくなってしまったのだ。ま、廃人だわな。
 20世紀という、それ以前と比べると格段につまらない時代の錯誤を整理し、つまらない時代であっても、取り柄はあるという事を取り出す人はそのうち出て来るだろう。通り一遍の頭では出来ない事だから大変だろうが、いつまでもここが止まっているのは良くない。
 そう、停滞は良くない。



 

2017年5月6日土曜日

安全と安心

ちょっと「安心」を考えてみた。
「安全」はいくつかの条件を置いた上での確率の話で、100%なんて事はありえない。100%じゃなきゃだめだという人がいたら、話がわからないだけだから、無視できれば無視し、できないならその案件はなくなる。
自動車は整備がきちんとできていて、運転者が速度を出しすぎないようにし、集中力を維持して・・・といったいくつかの条件を満たせば、かなり高い確率で安全だけれども、100%という事はない。
でも、100%安全でなければ、自動車を走らせてはいけないというなら、そこでは自動車は走らせられない。それだけの話だ。そこで100%を約束させられてはいけない。嘘になるからだ。
自転車だって、その意味では安全ではない。歩きよりも安全確率はかなり低い。乗っている人の意識のばらつきの大きさがかなり脚を引っ張っている。
世の中、その程度の安全で動いていて、そこそこ成り立っている。もちろん、安全確率を高める努力は良いことなのだからやって行くべき事だけれども、100%安全にならなきゃ、それを認めないというのは、意識が低すぎるというしかない。
例えばひとつの技術があり、危険性も含めたリスクと、それから得られるメリットを比較して、メリットが一定以上上回れば、その技術を採用し、安全向上を含めて努力をして行くという事でいい。それを進歩という。特に現在の日本の基準で言うなら、科学技術に求められる安全性はかなり高い。
でも、もちろん、100%というありえない安全確率には達していない。
100%というのは無限と考えてもいい。数学では無限を扱う理論があるし、神学は神の無限を考えるけれども、技術は無限など扱わない。
科学技術に100%を求めるのは、神学と科学、技術と呪術を取り違えているのだ。
もっとも、一神教の神の前で人の生命など無に等しいから、宗教戦争でいくら人が死んでも神学は意にかえさないという危険性がある。かつてのカトリック対プロテスタントの戦争、十字軍、そして、現在のISISの蛮行は神学として間違っていない事になるんじゃないかと思う。そのあたり、いくら危険であっても、神は無限だから、100%を求める向きにはフィットしているはずだ。つまり、100%というのは、もう安全では対処しきれないものだ。
安全ではとりあつかわない100%をとりあつかうのは、神学とか呪術以外には、つまり、とりあえず危険じゃなさそうなのは「安心」だろう。
でも、安心はその人の心の持ちようとか、感じ方とか、そういうものだから、原則として他人が口出し出来ないし、すべきでもない領域だ。例えば行政が国民・住民に安心してもらおうとしたら、それは信頼されるしかない。で、信頼されるにはちゃんと仕事をする以外にない。でも、いくらちゃんとしてても信頼しない人がいたとして、これはどうしようもない。信頼する人が極端に少ない場合は、その行政に何か問題がある可能性もあるが、いくらちゃんとしてても信頼しない人は一定にいる。それは想定内としておくしかない。

科学技術と安心というと、東日本大震災からこっち、原子力発電の問題になるけれど、反(脱)原発派は「安心」じゃないからダメだと主張している人たちだ。
恐怖心にかられる心理はある程度理解できないでもないが、それ以上ではない。停止途中に海水をかぶって停止できない状態になった福島以外、すべてきちんと止まった。
あの地震であそこだけで、あの程度ですんだのは大したものだと感じた。実はもうちょっとダメかもしれないと疑っていたのだけれど、見直して、心の中でゴメンした。
でも、共産党とか、進歩派がここぞとばかりに反原発の旗を振り始めた。民主党(現・民進党:面倒なので、この後消滅しても訂正しないのでご了承ください)の菅直人が自分の震災への対応がなってなかったのを誤魔化そうと、原発の恐怖を煽ったもの大きな要因だった(さすが全共闘、頭の悪さ、腹の悪さは大したもんだ)。
どうやら、そこにカルト宗教やら何やら有象無象が流れ込んだ。
その理由は、無知、妄想、悪意、無神経といった禍々しいものが吹き出しているからだ。
彼らは絶対に安心しないぞと思い定めた上で、政府や東京電力に安心を強要している。そしてその事で、日本、日本国民、被災地の復興、被災地の人々を踏みにじっている。
原子力発電は安全だ(安全確率がかなり高い)。火力発電よりも安全だ。この安全は、現在の人類に文明が達成している最高度の安全だ。文明が進歩すれば、安全も高まるだろう。でも、ないものはない。
政治も世の中も感情で動く面があるから、反原発の呪術が効果を発揮し続ける可能性もある。彼らは安全を作り出す事に興味はなく、不安を煽ってるだけだから、簡単なんだよね。

最近、妙なデマが拡散された。福島で森林火災があり、放射性物質が飛び散っているとかいう話だ。で、味噌汁を飲むといいとかいう話までくっついていた。これを言い出した人、信じる人とは理解しあえないと思う。もし、反原発派の中にマシな人がいたとしたら、こういうのは止めるべきだよ。福島の人が迷惑する。

以下、福島の人が迷惑し、困って発信したツイートを引用します。



「10年間、福島に住んでみろ」キタコレ。 あと4年も非科学デマに対して黙って我慢しろだそうですよ、福島県民の皆さん。

変な世の中 @2522nakano返信先: @ichii_tadafumiさん、@demekin_desuyoさん 「デマになったとしても」と言う言葉は、謙虚な気持ちから発しているのに、言葉尻を捉えて批判する。内部被曝は危険です。放射能が危険じゃないと言うなら、福島に10年住んでから言いなさい。


謙虚な気持ち、だと? 脳味噌わいてんのか。



「デマに なったとしても」じゃない。初めからデマなんだよ。原発事故時に放出されたセシウムは植物の葉や幹にも付着したが、落葉や雨雪で殆ど下に落ちて土壌の有機物や鉱物等に吸着している。そこから植物に吸収される量だってたかが知れてる。




実際に震災以降、今回の火災の前にも森林火災は発生しているが、各地の空間線量等のデータに異常値は確認されていない。火災によって放射性物質が拡散されていないことはわかっているんだ。 初めからデマなだよ。午後0:52 · 2017年5月2日


「火災で放射能が飛んで内部被ばくが~」とか言う人は、自分の体の中に自然核種のカリウム40が存在してること、知らないのか? 火災があった後でも、普通に露地栽培された福島の農作物の放射性セシウム量に有意な変化は見られていない。

また、コープふくしまの調査では、福島県に住んでいる人達の食事にも殆ど放射性セシウムは含まれていないか、含まれていてもカリウムと比較して完全に無視出来るレベルであることがわかっている。何も対策などとる必要はない。

呼吸については、食事によるよりもケタ違いに内部被ばくが小さいことが始めから分かっている。 また、ホールボディカウンタによる調査だって、一部の特殊な食生活を送っていた人達を除いて、異常なデータは出ていない。

ホントに放射能が怖いならキチンと勉強して下さい。 福島県民は反原発や反東電や反自民のために準備された道具じゃないし、怖がって楽しむ娯楽のネタでもない。


2017年5月4日木曜日

半島情勢はこわいけど


北朝鮮が核爆弾だ、ミサイルだと、軍事独裁国家丸出しで韓国と日本に脅しをかけている。
これはおっかない事だけれど、私たちには何も出来ない。そもそも北朝鮮が戦争を始めるつもりになっているのか、始めるとしたらいつなのか・・・何もわからないのだからどうしようもない。
こういう時、普段から役に立たないマスコミは、一段と役立たずだろうから、政府が発表しない限り、情報はない。
それに対処しなければならない人以外には、何もわからないままで事態は進み、何も起きなければそのままだし、戦争になるとわかった時には、もう始まっているかもしれない。
日本には北朝鮮を止めるのは無理だし、アメリカや支那の言う事を聞くかどうかわからないし、それはロシアも同じだろうし、どうしようもない。
で、私たちは心配するにしても材料が少なくて十分な心配ができそうもない。恥ずかしいからにわか専門家にはならないようにして、しかたない、普段通り、くだらなく生活してるしかない。
あ、屁が出た・・・

石原都知事は良かったな


都知事選、かなり前になるけど、小池百合子、選挙の後、面白くなるかなと期待してたんだけど、オリンピックで何やってんのかわからなくなり、築地の豊洲移転で急激につまらなくなった。
今は都民ファーストとか言って、都知事の仕事しないで選挙対策やってる・・・おいおい。
欲が深そうで、図々しい感じもあって、抜け目もなさそうで、知り合いにはなりたくないけど、政治なんて、多かれ少なかれアクの強い人の世界だろうから別にいいかなと思ってたんだけど、仕事しないんじゃ・・・
豊洲移転を止めてるのは、「安全」と「安心」を混線させて話を複雑にしてるだけで、安全だったら都知事が安全宣言すりゃ、安心になる。それもしないんじゃ仕事してる事にならない。
政治家の中には、政治家になって仕事をするんじゃなくて、政治家になる事が仕事だと思ってる人がいる。絶滅が期待され、生存する事が困る生存危惧種だ。
仕事しないで選挙対策やってる選挙ファーストじゃ、小池百合子も生存危惧種だったかもしれない。ファーストに集まってるのも、ミンシン崩れじゃ、生存危惧種感は高まる。
小池の面白さってのは、結局毒々しさだったんだなと思う。化け物が毒を撒き散らすのを見て、面白いには面白かったけど、ちょっと木戸銭が高すぎた。
引き際を知らないし、柔軟性にも欠けてる。とりあえず何年か、黙って仕事をしておく知恵がなかったというのは、自分で思ってるほど頭が良くないという事だね。
自民党が弱すぎたし、選挙のセンスもなかったからここまで来たけど、これからどうなるかね。自民党の世代交代の促進剤で終わってくれれば都民には一番いいかも。