2017年6月14日水曜日

夜の向こうにたくさんのものが消えて行く

 埼玉県の浦和に住んでいた事がある。駅の東側だった。
ある夜、駅からの帰り道を歩いていると、声をかけて来た人がいる。
「東口は、元は色街で赤線だったんだよ」
そんな風に話は始まった。


「戦後、進駐軍は朝霞にいて、車で女を買いに来るんだ。凄いスピードでジープを飛ばしやがって、人がいてもブレーキなんかかけやしない。威張りくさってやがった」

「それでも、米軍だって言うから、さぞや立派な連中かと思って見てたら、何か食ってる。それが生の玉ねぎだ。ただの田舎者だ」

「その頃、何だか嫌になって、街で喧嘩ばかりしていた。それで目をつけられたんだろうな、ある時、ヤクザ者たちに囲まれ、赤線宿に連れ込まれた。これで終わりかな、ええい、構わねえやと思ってふてくされていたら、ヤキを入れられる寸前に、赤線の女が飛び込んで来た。その女が、この人は違う、堪忍してくれと、頼んでくれた。小学校の同級生だったらしい。俺の事を覚えていて、この人は上の学校に行ってるんだから、そこらの半端者と違うから助けてくれと、必死にかばってくれた。小学校の同級生だったというだけで、体を張ってくれた」

「助けられたけど、あそこには二度と近寄れない。礼ひとつ言えずにそのまんまだ」

この人のように終戦後、虚無感に陥って馬鹿の真似をした子供や若者は日本中にいた。阿久悠が「リンゴの唄」は終戦直後に流行ったのではなくて、少し後に出て来たのだと書き残した文章の中で言っている。
本物の愚連隊の方は、闇市を取り合って、元気に三国人と戦っていたし、盛り場で米兵と喧嘩していた。博徒は客商売の賭場が大事で専念し、喧嘩出入りは愚連隊に頼んでいた。愚連隊だった人が、ヤクザは弱かったと教えてくれた事があった。

この人は、悲しかったのだ。玉ねぎをかじりながらジープを飛ばし、日本人など跳ねても構わないと心得ているアメリカの田舎者に蹂躙される日本が悲しかった。そんな奴らに買われる同級生の女も悲しかったし、その女に助けられた自分が情けなかった・・・

あの人はその後、情けなく生きて行くのが一番誠実な生き方だったろうし、そうするしかなかった。本当の馬鹿だったら、くだらない意地を張って、喧嘩三昧を続け、早死しただろう。同級生が「この人は違う」と指摘したのは正しかった。しっかりと情けない生き方に耐えた。
たいていの男は、そういう風に女に見透かされるのに手も足も出ない感覚を持ち、嫌がるのだが、あの人は命がけでそのありがたさを体験した。死ぬまでそれを粗末にしない以外に生き方はなかっただろう。至上の幸福を手放さないだけの素直さはあった。

帰り道はずっと同じだったけれど、プラスチック工場をやっているというその人と、二度と会う事はなかった。