2017年6月27日火曜日

批判は、感情を表に出さないで行われる悪口だが、馬鹿は丸出しになる

 今井絵理子という自民党の参議院議員が「「批判なき選挙、批判なき政治」を目指して」と言っているのが話題になっているらしい。教えてくれた人がいる。
 今井がそんな政策とは言えないような政策を掲げている背景には、批判が悪い事だと思っている若い人が増えているという話になっているのだと言う。
 批判の何が良くないかというと、「批判は悪口や人格否定と同じ」だというわけだ。
 ええと、そこはまとめた方が良くて、「批判は批難と同じ」という風にしてみようか。そう感じる人が多いのだという。
 昔々、おじいさんがまだ子供だった頃、
「批判は批難と違う。君のは批難だ」
 と言って、相手をはねつける言い方があった。横で聞いていて、それはそうだけれども、その違いを言ってくれないかな、どこが批難なのか指摘してくれるないかな・・・などと思ったものだが、たいてい、その後は
「何だとこの野郎」
 となるか、あるいは、そのまま手が出るとかいう展開になってしまったので、疑問は解消されなかった。
 で、今、そこは矛盾していないかとか、飛躍があるようだねとか、説明が飛んでいるよとか、そういう指摘というか、疑問を表明する場合、半ば以上批難していると思う。

 例えば、社民党県連常任幹事も務める徳島市の小林雄樹市議が、徳島駅周辺で制服の女子生徒のスカート内を盗撮した容疑で事情聴取され、スマホにパンツが写った写真が2枚あったという話題で、社民党所属小林雄樹徳島市市議本人が駅前整備のための調査で写真撮影をしていたが、知らない間に写り込んでいたと釈明したのをテレビで見て、

「んなわけないやろ」
 と、画面に向かってなぜか上方言葉で言うのは、ほぼ批難の色で染まっている。
 そして、

 スマホを手に持った社民党所属の小林徳島市議の行動を目撃した人が不審に思い、近くの交番に届け出たという発覚の経緯を知り、さらに、社民党の小林市議が最初、以前に勤めていた職場の懇親会に出席するために駅前を歩いていたと言っていたのを知るにおよんで、


「んの野郎、嘘ばかり抜かしやがって、ただのエロ議員じゃねえか!」
 と言うのも批難だ。
 本当は、もっと豊富な語彙を駆使し、多くの点に触れたのだが、思い返すと公表するに耐えないので割愛する。つまり、99.99%ぐらいカットした事だけはお伝えしておく。とにかく、口を極めて悪く言った。

 さて、ここで批判と批難はどれだけ違うだろうか? 例えば、誰かの容姿を、
「コラ、このしゃくれ」
 とか言ったら、これはただの悪口だ。
 しかし、批判の中に皮肉を入れるという事はよくある。この皮肉というものは悪意の化身だから、つい口から出た悪口よりも良くないものだ。うまい皮肉は面白いけれど。

 批判も悪口も、暴力につながる可能性があるのは同じだ。
 批判されるのが嫌なのは、誰でも、洋の東西を問わず同じだし、感情的になるのも同じだ。ただ、抑制しているだけだ。
 じゃあ、ない方がいいのかというと、日常生活を円滑なものとするには、批判などない方がいい。選挙ではどうかというと、ネガティブ・キャンペーンは嫌なものだからやらない方がいい。批判なき政治は・・・どうだろうね?

 でも、アスリートの世界では、自分が自分を批判的に見ているだろうし、他の選手からも批判的に見られているだろう。
 ここがいい、あそこがだめだと、お互いに見ている。それはアスリートの世界、あるいは、プロの世界として当然の事だ。その冷徹な目がなければ自分をいじめ抜いて上に行く事はできない。

 だが、一般的には、人間は感情的で、批判と批難の区別などない。何もない時にはそんな区別があるつもりでいても、いざとなると区別など吹っ飛んでしまう。批判的に見る能力を持っている人も多くはない。ある人が批判能力がないとしても、それはしかたがない。その能力がないんだから無理だ。

 批判があるべき形で成立する特別な場所はあるだろう。でも、それは限られているという事だ。多くの空間では、批判と悪口の区別がなくなってしまう。だから争いの元となる批判は避ける方が賢明だろう。
 若者が批判を悪い事だとみなしたり、感じたりするのは、生活を営む上では正しいと考えられる。批判など避けて楽しくやるのがいい。

 今井絵理子参議の政治の世界に戻ろう。
 政治の世界では、立場の違い、争いが前提だから、批判も批難も悪口も人格否定も歪曲も嘘も何でもある。批判能力があろうとなかろうと、向かい合わなければならない。
 言い方を変えると、政治というのは争いというケガレを引き受けるものだから、そこで「批判なき」なんて言うのは、ケガレを引き受けないと言っているのと同じ事になってしまうと思う。あまり前向きではないしね。
 つまり、批判を問題にする事は政治的には間違っている。沖縄に早く基地を作ろうとか、原子力発電所を早く稼働させようとか、そういう前向きの中身を言うだけでいい。
「(何々)なき」というのが前向きではないのだ。中身がない感じになる。

 一応、付け加えておけば、英国あたりには、今井のように「批判なき政治」なんて考えてる政治家がいるかもしれないとは思う。英国人、上の階級に間抜けがいるしね。
 
 何か批判していると自分が頭がいいと感じられて気持ちがいいという人もいると思う。
 個人的には悪口は好きだが、批判は面倒臭い。
 悪口は感情だが、批判は首尾を整える必要があるからだ。
 で、首尾を整えただけ利口に見えるかというと、そうも思えない。努力が無駄になる感じがある。
 本当に頭のいい人は、無意味な批判はしないだろうし、批難もしないだろう。だから、批判などしていると、馬鹿にしか見えないと考えるべきだ。

 一番重要なのは、馬鹿丸出しではない批判というのは、とても難しいもので、とても少ないという事だ。
 おそらく、悪意のない批判は、指摘とか、評価とか、別の名称を持つものとなるだろう。