2017年6月25日日曜日

国粋主義試論 日本国粋主義の近代 2

 国権派――欧米派と、民権派――国粋派というのが日本近代の政治的対立の形です。
 国権派と民権派は相互に影響しあい、交差しながら近代の政治的動向を形成しました。
 国権派、民権派と言っても、互いに一枚岩というのでもなく、内部の対立や反目もありましたし、野合もありました。さらに、当時の人々の意識や自覚がどのようなものであったかという問題もあり、さほどすっきりと別れてもいません。様々な機微、思惑、感情、そして人間関係が絡まり合う事でもあり、複雑かつ曖昧です。
 民権派で言えば、目立つ所だけでも、民権運動と困民党運動の対立、国粋会と大和民労会の対立、国粋会と水平社の対立などがある他、国粋会そのものも、全国と東京、そして、東京も三多摩は別個に独立した国粋会を作っていました。
 それでも、国権派=西欧派と民権派=国粋派を別けて見る事は、日本近代を理解する上で役に立つと思えます。

 北一輝は民権派ですし、北が革命運動に挺身すべく支那に渡った時、宮崎滔天のつながりを頼りましたが、滔天も民権派でした。滔天は孫文と深くつながっていましたが、北が行動を共にした宋教仁は北の説によれば孫文に暗殺されました(本当にそうだとすれば、実行したのは孫文の懐刀だった蒋介石のコマンドでしょう)。そして、おそらく北が一緒に殺されなかったのは、滔天の存在があったからでしょう。その後、日本に引き揚げた北は、宮中某重大事件の怪文書で山県有朋を失脚させます。
 山県は国権派の中心人物として自由民権運動を徹底的に弾圧しました。秩父事件では寄居に乗り込んで陣頭に立ち、また、大逆事件を策動しました。
 北一輝は、山県への復讐として宮中某重大事件を仕掛けました。そして、おそらく、2・26事件に連座したとして北が処刑されたのは、国権派による報復です。

 国権派と民権派が合同したのが大政翼賛会でした。これが戦後に、多少の紆余曲折を経て自由民主党になります。ですから、自民党には山県有朋の子分の人脈もいれば、宮中某重大事件の怪文書で山県を失脚させた北一輝の弟子だった岸信介の系譜もいるのです。
 戦後の昭和30年代ぐらいまでは、民権運動出身の自民党議員もいました。

 国粋主義が国家主義による社会統制を目指したもの(つまり、ファシズム)であるというのは、日本の近代史に対する重大な誤解です。
 日本国粋主義は、西洋にかぶれ、日本を見下すような病的精神を排するというだけで、排外主義ではありません。健全な愛国主義です。
 国権派の愛国主義が文明開化を焦るあまり、病的な歪みをもたらした事に対する批判から出た、民権派の愛国主義が国粋主義と言っていいでしょう。
 国権派から生じた病的精神のひとつが左翼運動の輸入でした。左翼からは国粋主義が右翼に見えたのは、こうした事情でしょう。左翼からは、自生の民権運動など雑草としてしか見えなかったのです。
 国権派と民権派は共に尊皇攘夷から出た潮流であり、どちらも明治維新の完成という主題を持っていました。「大正維新」「昭和維新」という言葉は、明治維新を完成させる第二維新という文脈で言われたのです。
 それが日本近代を貫く精神でした。