2017年6月25日日曜日

西郷の遺産

 明治維新後、日本の軍隊は刀を捨て、装備の西洋化を図った。これに対し、西郷隆盛が決起する形となった西南の役において、西郷軍に参加したかつての武士たちは剣を携えていた。もちろん大砲も銃もあったが、刀を捨てる事はなかった。
 政府軍は銃のみを装備としたいたから、西南の役は銃対剣の戦いとして始まった。
 日本の戦史において、戦国時代でも、すでに主力兵器は剣ではなく銃だった。いや、それ以前も、弓矢、槍、薙刀といった武器の方が主流だった。政府軍は緒戦から勝利するはずだった。
 しかし、政府軍は西郷軍の刀に斬り伏せられて行った。
 西郷軍の薩摩勢は薩摩示現流の使い手もいただろうし、維新戦争の兵士たちが多く参加していた。何よりもそこで生まれ育った者たちであり、地の利を活かした柔軟な奇襲作戦を実行できた。
 政府は慌てて、かつて幕府の治安部隊として活動した抜刀隊の生き残りなどを集め、西南の役に投入した。
 これによって、やっと政府軍は西郷軍を制圧したという。
 この戦訓のおかげで剣術が再認識され、警察は剣道を作った。
 実に西郷軍の活躍によって、剣術は残り、剣道が作り出された。
 剣道は、警察剣道に始まる。意図せざるものではあるが、西南の役なくして、後の剣の歴史もない。

 薩摩人が多かった警察剣道が示現流にならなかったのは、示現流が御留流だったためかもしれないし、西郷軍の流派という印象になったためかもしれない。剣道のあの気合が示現流譲りに感じられる事から、西郷をはばかったのが警察剣道、つまり、剣道がまったく別のものとして作り出された理由と、勝手に思いたい。
 明治政府は、西郷の亡霊を恐怖し続けたのである。