2017年7月8日土曜日

神の普遍と歴史の遷移、あるいはその逆 権力の吐息 3

 ローマが君臨した時代を古代と呼び、ローマの支配域をヨーロッパと呼ぶ。そして、ローマを継承する格好になったカトリック教会がヨーロッパに君臨した時代を中世と呼ぶ。
 ヨーロッパ各地の領主、王たちは領土の確保と拡大のために戦争をしなければならず、その費用を作るために借金に追われた。
 王侯に金を貸すのは教会で、欧州全域で徴税権を持っていたため、金があった。
 カトリックは強欲だったのか、欧州全域に総取りを要求し、かなり成功していた。
 カトリックの支配域を世界とも呼ぶ。これもローマから継承している。世界と言う時のモデルは、今でもこれだ。この世界で教会は大きな権力を築き上げていた。

 ローマは文明としては、エジプト経由でギリシアを模倣したものだから、多神教だった。色々な神を各々の集団が信仰していた。拝火教系のミトラ教が大きな力を持っていたともいう。キリスト教徒は嫌われており、競技場でキリスト教徒の処刑ショーが行われた時期もあった。格闘見世物よりも、キリスト教徒処刑の方が安上がりに市民を興奮させ、喜ばせたのだという。キリスト教は嫌われていたから、ローマ市民たちはそれが処刑される爽快感を満喫した。残虐で恐ろしい話だが、歴史にはこうした人間性の暗黒面が時々噴出する。
 そのキリスト教が市民権を得て勢力を拡大し、他の宗教を駆逐して行った。そしてローマを掌中に収めると、ローマ教区が他の教区から独立してしまった。そして、カトリックと名乗った。他の教区はオーソドクスを名乗る事になる。

 随分と後になるいが、近世に興るプロテスタントは、カトリックからの枝分かれだ。プロテスタントの諸派は、教会1つにその教会のあった町という小さな分派まであったようだ。教会の司祭の人柄と考え方でプロテスタントと見なされる事となり、運が悪ければ宗教戦争で町ぐるみ皆殺しにされた。この頃には、もう、カトリックは殺す側となっていた。その災難を避け、町ぐるみアメリカに移住する例もあった。
 アメリカの田舎で教会が1つ、住民のつながりが深い町は、そんなプロテスタントの落人村の歴史が秘められているなんて事がある。

 中世に戻って、アジア(中東)で、ユダヤ教から破門されたマホメットが興したイスラムが広がり、大きな勢力となると、ヨーロッパ・カトリック世界を外側から脅かすようになる。
 摩擦のきっかけは、王侯がイスラム商人から買った物の代金を踏み倒したからだとか、教会が異教徒にひどい通行税をかけたためとも言われる。ありうる話だが、もっともらしすぎるかもしれない。
 また、正教勢力がイスラムの後押しをしたという説もある。
 イスラムは、時期や場所にもよるが、キリスト教徒やユダヤ教徒(ユダヤ人)とうまくやっている事も多かったので、様々な勢力が味方についた可能性はある。

 イスラムが強大になり、カトリック教会は十字軍の派遣を号令するが、理由は現在でもわかっていない。わけがわからなくても歴史は大きく動くというだけだ。そして、曖昧に終わった。

 十字軍戦争のカトリック側の大きな収穫はリベリア半島だったろう。イスラム勢力からここを失地回復した教会は、スペインとポルトガルという新しい2つの国を作った。そして、子午線で世界を2つに分割し、2つの国に分け与えた(後に、大帝国を形成した英国は、ポルトガルから支配権を買ったかもしれない)。

 このスペイン、ポルトガルの建国によって、イスラム支配時代に住んでいたユダヤ人が困った立場に追いやられた。キリスト教徒はユダヤ人を嫌い、弾圧した。この時、ユダヤ人はイスラムと一緒に退いたユダヤ人を追ってアフリカに行く者、イタリアなど、ヨーロッパ圏内に移る者、そして、キリスト教に改宗する者とに別れた(後に宗教改革に対抗してプロテスタントと果敢に戦ったイエズス会は、この改宗ユダヤ人によって設立された)。

 後に、マルタ騎士団が、スペインにユダヤ人の奴隷市場を作ったのも、スペインがカトリックの独裁帝国だった事が理由かもしれない。ユダヤ人は、スペインにユダヤ人奴隷の買い取り機関を設置し、マルタ騎士団から買い取っていたという。もちろん、奴隷市場はカトリックの許認可がなければ作れなかった。

 イベリア半島からヨーロッパに難を逃れたユダヤ人の中で科学知識のある者は、当時の科学者の別名である魔術師になった。天文学者は占星術が出来たし、化学者は錬金術師だった。医師には有名なパラケルススがいるが、これも占星術を医術に応用していた。科学と魔術が別れるのは、20世紀に入ってからの話になる。

 その結果、カトリックが魔術に熱中して行く。新しい技術は魔法であり、その技術を裏付ける知識は高等魔術だった。神学研究者である上位の修道士たちは、修道会の中でそうした知識に触れる権限を得て魔術に没頭しはじめた。
 後に恐怖の異端審問で名を馳せる事になるドミニコ会などは、一時期、魔術に浸りきってしまった。
 こうした傾向が顕著になり、見逃せなくなったのだろう、カトリック教会は魔術を異端とする。火刑に処される修道士もいたし、生涯、牢獄につながれる修道士もいた。ただし、牢獄の生活が修道院生活とどれほど違っていたかわからない。
 この結果、異端を出したドミニコ会は急転回し、異端審問を担うようになる。同会は今でも、カトリックの憲兵のように言われる事のある存在となった。

 ハインリヒ・ハイネがある地方の異端審問で名を馳せる修道院が、実はギリシアの異神を信仰する教団に乗っ取られていたという短編を書いているが、ギリシアからローマを経て、カトリックに流れ込んだそのようなカルトがあっても不思議ではない。ハイネは誰かからその伝承を聞いたのかもしれない。

 カトリックの内部粛清だった異端審問が始まった後も、魔術はカトリック内にはびこり続けた。これを徹底的に批判し、糾弾したのがマルティン・ルターだった。
 バチカン内では、ルターの占星術を行ったという。もしかしたら呪いの魔術をかけたりしたかもしれない。その結果がプロテスタントであり、宗教戦争だった。