2017年8月27日日曜日

正義の毒

 良いことをするのはとても難しい。良いと思ってやった事が悪い結果となってしまう場合があるからだ。
 例えば、ナチス政権下のドイツで行われたユダヤ人とロマの虐殺だが、ドイツ人たちは、悪いことをしようと思ってあれをやったのではなかったはずだ。悪をなそうとしたのなら、あれほどひどい事はできなかったはずだ。良い事をしようとし、良い事をしていると思ったからこそ、あそこまで徹底した悪事を行えたと考えるべきなのだ。
 ドイツ人たちは、ユダヤ人やロマが悪いから、絶滅させた方がいいと考えたのだ。
 それは、革命後のロシアで「反革命」を絶滅させようとしたのと同じ思考だ。
 悪をなくせば、すべてが善になる。そういう考え方は自然なのだろうと思う。しかし、誰が悪を決定するのかという問題は解決されていない。
 悪も、そして、善も、定義されるにいたっていない。ある人にとっては疑問の余地なく正しい事が、別の人にとっては悪い事になる。別の人の正しさが違うからだ。だが、ふたつの正しさの甲乙をつける正しさは存在しない。
 こうして、正しさを巡って私利私欲を越えた争いが勃発する。その争いが一方的な攻撃であっても同じだ。これには妥協がない。徹底的な破壊が行われるしかない。
 それがドイツやロシアの収容所で起きた事だ。正しい事をしようとした結果があれだった。
 正しい事をしようとしたというのは、だから、弁明にはならない。自分が正しいと思い込み=信じ、強い信念を持っていたという事は、別の角度から見れば、自覚を持たずに狭い視野の中で思考を放棄していたというだけの話だからだ。
 正しさには、人の思考を占領してしまう毒がある。正しさの中にある人は、自分で思考していると思っていても、正しさの枠の中で、その正しさが発する思考の木霊を聞いているだけになる。
 思考を放棄せず、自覚を持ち続けるにはどうすればいいのか、つまり、正しさの毒を避けるにはどうすればいいのか。
 とりあえず正しさはほどほどにしなければいけない。そのためには、私利私欲を越えたりしない事も大切だろう。常に妥協できるようにしておくのもいい。
 つまり、優柔不断でみみっちい、あいまいな大人になる。少しくたびれているともっといいかもしれない。
 毅然とした態度で、明快に物事に取り組むなんてのは、あまりいただけない。
 正義は悪よりもはるかに残酷で容赦のないものだ。悪よりも、正義をこそ、人は警戒していい。