2022年6月21日火曜日

歴史の歩み方 あるいは、文明の可能性としての日本

明治維新後、近代において日本が富国強兵政策をとったのは当然だった。植民地経営にいそしんでいた欧米列強に敵わないのは軍事だけだったからだ。自国を守るために足りないのは軍事であり、軍事を賄うために従来より余分にかかる費用だけだった。富国強兵である。その他はすべて充分にあった。

戦国時代を経て武家政権を続けた日本だ、当然日本の軍事があった。しかし、山鹿流軍学を修めた吉田松陰が、山鹿流では西洋に勝てないと結論したように、精神的にはともかく、物質的、科学的には学ぶ以外なかった。海外に学ぶべく、日本は死力を尽くして優秀な人材を学徒として欧米に送った。留学した学徒たちも期待に応え、西欧文明を学び、富国強兵推進の知を持ち帰った。

毛沢東や金日成といった二流、三流の独裁者は富国をなおざりにし、無理な統制を敷きつつ強兵に走る。統制と監視を富国の代わりにする。その結果、社会は絞り取られるだけで細り、強兵もままならなくなるのは当然の帰結だ。もし、当時の日本のように緊急でないなら、強兵よりも富国を先にした方がはるかに良い。それが最初からわかっていたからこそ日本は戦後の復興が出来た。戦前の政策の中に戦後復興に必要な無形の力が作られていたと言っていい。

富国強兵政策の成功は、後にアメリカを相手に4年もの間、正規軍による戦争を単独で戦い得た事実に現れている。負けはしたが日本は強かった。

その強さ、富国強兵の背後にあったのは日本の文化であり文明だった。この国家のありようが近代日本の国体だった。そして、先回りして言うならば、国体の土台となったのが家族だった。

この精緻な文明は幾多の困難を克服して発展したが、欧米列強から追いつめられる形で戦争に突き進んだ。国民は開戦に歓喜した。当時の日本が、そして、アメリカ国民が知る由もなかったソビエト・ロシアのスターリンによる工作が背後にあった。