2021年3月22日月曜日

ベルトップ・ブルース

 様々な事は平均に左右される。一番商品が売れるのは、平均に位置する商品だし、選挙で当選するのは平均値に近い候補者だし、流行は多くの人々の好みの平均だ。

ベルカーブの上の方が平均と、平均に近い部分だから、そのが最も多数になる。エリック・クラプトンのベルボトム・ブルースはベルカーブの裾の方に下降した恋を歌っている。恋の外れ値と題してもいい(良かねえ)。

政治政策も平均を中心に決まって行く。そりゃ、国民の多数に良い政策を決め、実施するのが優先されるから当然だ。見ていると、進歩派野党は、政府が

「このあたりが平均だろうという事で、こういう政策を決めたいと考えております

と言っているところで、かなりな外れ値を出してきて、

「こっちはどうするんだ!」

と食ってかかっている感じだ。

そこは、まず、平均のとり方が問題になっている所で、そこが落ち着いてから、外れ値の取りこぼしを減らすべく議論を深めるという流れにしかなりようがないが、野党は議論を深めようという気持ちはないようだから、どうせ言いっぱなしだという事で、喋っているうちに自分で激して感情を爆発させて終わっている。自慰を見せられても困るだけだ。


最近、衣服がつまらない。もう爺さんだから自分のは安ければいいが、若い人は、こんなに楽しくない、ワクワクしない服ばかりで可愛そうだと感じる。ファッションはオカマの思いつき・・・ではないだろう。ファッション・デザイナーは楽しい色形、ワクワクを感じ取る才能に恵まれた人たちだと思う。それが、面白くも何ともない衣類しか提供しないようになって久しい。楽しい、ワクワクする衣料は、もう外れ値でしかないのだろうか?

これは、立民や日共、左翼野党が馬鹿ばかりというよりも、はるかに重く、大きな問題だ。

若者が減ったとは言え、まだ衣料品のターゲットから外れるほど少なくはないはずだ。ファッションをつまらない方向に引っ張っている要因は何なのだろう?

まさか、中国の染色技術、加工技術のせいじゃないよね?



変な時代の終わり

地球環境が破壊されるという意見は、終末が来るという予言と一緒で、未来は悪くなるという気持ちの現れだ。悲観的なわけだ。それに対して未来は明るいというのが楽観的な見方だ。この2つは対になっている。

どちらものっぺらぼうな視野で、実際は明るくなる部分も、暗くなる部分もある。

良くなる部分と、悪くなる部分とがあって、差し引きはとんとんで、未来は、まあ、全体としてはバランスが取れるんじゃないかなと考えるのが、最も常識的で妥当な所だと思う。

また、これには変化も関係する。変わる部分と変わらない部分があり、そこに、変わった方がいい部分と、変わらない方がいい部分がある。

変化を好まない人は、変われば何でも悪くて、世の中はどんどん悪くなると感じる。一番良いのは、棍棒持って洞窟で暮らす原始時代なのだろう。いや、生命の海を漂うタンパク質ぐらいの時代が良いのかもしれない。

これと対になるのは、変われば何でもいいという人だ。現状は、とにかく悪いという考えだ。これは教育の賜物かもしれない。

変わった方が良くなるものもあれば、変わらない方が良いものもあるというのが、あたりまえの考えだと思う。

例えば、左翼の年寄りたちは、

「世の中が変わって、日本共産党(変数。ここに革共同でも、何でも、代入可能)が衰退の一途をたどっている。ああ、変化はいけない。未来は暗い」

といった感覚でいるかもしれない。

終戦後、占領政策で形成された暗黙の政治意識、社会意識が団塊の世代と言われる人々の規範だが、これは彼らが無意識に思っているほど普遍的なものではなく、一過的な時代意識だ。すでにかなり弊害が目立って来ているこの時代は、団塊の世代が死んで行き、少数派になる頃には終わっているだろう。残念ながら、その頃まで続くだろうという事だけれども、後から見れば、この時代は「変な時代」としか見られないと思う。

これが戦後で、団塊の世代は戦後そのものだ。変化を価値とし、無理な変化、無謀な変化に取り組んで来た彼らだが、今は、もう、変化を嫌っている人もいるだろう。

まあ、自分たちが過ぎ去ったものとなってしまう変化は嫌に決まっているが、過去に固着していてはそれもしかたがない。もちろん、全部が全部ではない。常に不満を抱えて生きる者はいるものだというだけだ。


一方、団塊がデタラメにやって来たために迷惑を被っている人たちは、変な時代が終わりに向かっているのを歓迎しているだろう。団塊は粗製乱造で無知蒙昧が蔓延っていた。品もなかった。要するに程度が低かった。例えば、一般的に言って学力は団塊の世代よりも、子供や孫の方が高い。団塊の知力では、もう今はやっていけないのだ。


変な時代に始まった事は、ほぼ継承しない方がいい。未来を、少しは明るい、いい方に近づけたいならば。



2021年3月11日木曜日

遠く深い闇 もう一度

 前に「遠く深い闇」と第して、フランスで18歳のチェチェン人移民が教員の首を切断し、殺害した事件について書いた。

 当時は報じられていなかったため、誤認していた事実があり、また、新たにわかった事もある。

 報道をまとめてみると、47歳の地理と歴史の教師サミュエル・パティが2020年10月、表現の自由の授業でイスラム教の預言者マホメット(今はムハンマドと呼ぶようになったらしい、イスラム教の教祖となったユダヤ人)の風刺画を生徒らに見せた。その後、ロシア・チェチェン(Chechnya)共和国出身の18歳の男(警察はアブドゥラフAとのみ発表)に殺害された。

 中学校の教員だったパティは、表現の自由の授業でマホメットを風刺したポンチ絵を教材とした。その後、パティが風刺画を見せる間、イスラム教徒の生徒らを教室から退出させたと、13歳の女生徒が言い出した。女生徒の父親は、盲目的で感情的な人物だったのだろう、娘の言葉を真に受けて扇動的な動画をフェイスブックに投稿した。(フェイスブックのコードには引っかからなかったらしい)

 ところが、この女生徒はパティのその授業に出席などしていなかった。嘘をついていたのである。この女生徒は、自分は他の生徒らの代弁者なのだと思い込んでいたらしい。また、みんなの代表である事で父親に良いところを見せたいという気持ちがあったようだ。迷惑で痛い子だ。それに、その軽率な嘘は無残な殺人の引き金にもなった。

 そして、ここはまったく誤解していたのだが、アブドゥラフAはパティやパティが勤務していた中学校とはまったく関係のない人物で、殺害現場となったコンフラン・サント・ノリーヌから約100キロ離れたノルマンディーに住んでいた。それが、フェイスブックでの嘘の拡散や、フランス内のイスラムのネットワークといったフィルタを通じて、また、祖父、両親、弟といった家族に背中を押されて犯行に至っていた。

 アブドゥラフAは、事件当日の金曜日、ノルマンディーからコンフラン・サント・ノリーヌにやって来て、学校前で生徒たちにパティについて尋ねた。4人の生徒が金をもらい、手伝ったという。

 アブドゥラフAは徒歩で帰宅するパティを追いかけて襲いかかり、ナイフで頭に何度も切りつけた後、首を切り落とした。

 通りがかった人々は、アブドゥラフAが「アッラー・アクバル」と叫ぶ声を耳にしたという。

 アブドゥラフAはパティの遺体を写真に撮り、ソーシャル・メディアに投稿した。その後、駆けつけた警官に空気銃を撃ったが、警官たちの銃撃で死亡した。

 この事件で、アブドゥラフAにパティの事を教えた生徒4人も含めて、現在まで16人が逮捕されている。


 こういう次第で、これはまったくのテロ事件だ。そして、アブドゥラフAにテロを教唆した宗教指導者などは政治が扱うべき範疇だ。そして、犯人に協力した4人の生徒、嘘つきの女生徒とその父親などは社会問題の範疇だろう。

 どちらも解決がつくものかどうか、途方に暮れる問題だ。もしかしたら、誰も取り組まないかもしれない問題でもある。例えば、嘘つき女生徒がサイコパスだった場合、とりあえず治療不可能だ。

 政治的には、イスラム過激派とされる団体を取り締まって行く方向に向かうだろうけれども、イスラム系移民たちは居続けるし、最も軽率な激しさである「過激」を正しさと誤解する傾向を持つ、まあ馬鹿と形容してさしつかえないたぐいの者も、これはイスラムに限らず多数存在する。

 過激派に走る馬鹿者どもは手に負えないとして、移民は理解が深まり、生活が向上すれば落ち着く。それは一般的な移民政策だが、時間のかかる過程を経なければならない。ただ、受け入れ側としては、他にやりようはないので、後は移民自身が頑張る以外にない。そこに失敗事例が発生し、過激派の温床となってしまう。さて・・・


 日本は、かつてイランの宗教指導者ホメイニ(シーア派はマホメットの子孫でなければ指導者になれないから、血統はユダヤ系だろう。イランに反イスラエル派ユダヤ人の大コミュニティがあるのと関係していると思う。イスラム教徒となったユダヤ人は、中世カトリックにとって大問題で、これをカトリックに改宗させようとする取り組みがルネサンスの動機のひとつのはずだ)について書かれた「悪魔の詩」という本を翻訳した大学教授が刺客によって暗殺されたが、曖昧にした。つまり、日本は誰も取り組まないという処理をした。

 おそらく、今後は、そうした緩いやり方は出来なくなる。どうするんだろうね?