2021年7月31日土曜日

カーネマンはコロナ禍をどう過ごしているだろうか?

日本の人口を、だいたいのところで 1億2536万人 ぐらいだ。コロナの累積感染者数は、2021年7月30日現在で 91万4776人だ。1億2444万人以上が感染していない。人口に占めるコロナ感染者の割合は 0.73%ぐらいになる。

これはこの1年半少々コロナ感染を防ぐために国を挙げて努力して来た成果なのだが、99%以上の人が感染していないという事が、今、対策の足かせになりつつあるかもしれない。99%以上の人にとってコロナに感染しなかったという事実が経験則となって、意思決定に影響を及ぼしている可能性がある。この経験則による意思決定をヒューリスティックと呼ぶが、この意思決定が合理的とは限らない。たいていは間に合うから使っているのだけれど、正しくない場合も多い。特にこのコロナ禍における行動の意思決定としては間違っていると言っていい。

それでも、99%の中の何割かの人が昨日まで平気だったからという経験則によって、それ以外の根拠などまったくないのに、今日も明日も大丈夫だろうと判断する。しかも、コロナ禍の経験は誰でも同じ、たった1年半ちょっとでしかない。その上、コロナは途中でデルタ株に変わり、感染率が高まっている。つまり、去年の経験則は役に立たない。しかし、多くの人がそれに頼って意思決定をし、外出し、人と会っている。ヒューリスティックは心地よく、酒も飲めるし、楽しく集まって騒げるからだ。

そして、そんな事をしてても、大丈夫な人の方が圧倒的に多いだろう。でも、1%は125万人だ。1年半ちょっとで0.73%の感染でこんなに辛かった。一気に1%の感染者が発生したら、医療は崩壊するだろうし、私たちは耐えられないだろう。


人は不合理な生き物であり、経験則で意思決定する事から逃れられない。

私たちは、自分が不合理だと自覚するよう努めながら、平時ではないコロナ禍を過ごすようにしたい。




2021年7月26日月曜日

「良いこと」が全部「良い」なんてありえないんだから、今すぐとか言うなよ

共産主義も含めたファシズム=全体主義がどうして出て来て、現在でも時々顔を出す理由は「良いこと」にあると考えられる。

ユダヤ人の迫害、虐殺は、欧州において「良いこと」だった。神の子たるキリストに背き、裏切ったユダヤを殲滅するのは、悪事であるどころか、神の御心だというような、倒錯した心情が、ヒトラーの国家社会主義ドイツ労働者党を支持した当時のドイツ国民にあった。

第一次大戦の敗北の原因が後方でのユダヤ人の裏切りにあるとか、世界征服を陰謀する「シオンの議定書」とかの与太話を本気にしたというより、キリスト教の「良いこと」がヒトラーやムッソリーニを後押しした。

いい事をしようとして、いつの間にかそれが悪事に転じてしまう。良かれと願ってやったのに悪い結果をもたらす。ロミオとジュリエットのように大げさじゃなくてもそんなのは人生でよく体験する事だ。個人の事なら、苦い思いや喪失ですむが、国家規模の話だととんでもない事態になってしまう。これは国家というものの恐ろしさだし、権力の怖さだ。

つまり、事は「悪」指定して教室で、

「ファシズムはいけません」

と唱和して終わるような問題ではない。
もちろん、これに手を加えて、

「ファシズム、全体主義、共産主義はいけません」

としても、少し良くなるだけで本質的には同じだ。

また、この場合、違法であるかどうかは問題にならない。みんなが「良いこと」だと思い、議員もその気になり立法してしまえば合法だからだ。

また、国家権力が超法規的に君臨している現在の中国の例もある。中国には法の支配はないため、ウイグル人の人種隔離、奴隷化、民族浄化を行っている中国共産党が法に裁かれる事はない。彼らは彼らなりの「良いこと」のために虐殺を行い、嘘をつき、事実を隠蔽している。それが出来るのは「良いこと」をやっているからで、彼らは良心の呵責などほとんど感じないはずだ。

「良いこと」なのだから、誰もが賛同して当然だ。「良いこと」なのだから、一刻も早く社会に浸透させるすべきだ。「良いこと」なのだから、政治的強制力をもってしても推進していい__ こんな流れで「良いこと」は強制になり、国家権力によって強制されるものとなってしまう。全体主義一丁上がりだ。

全体主義は悪なのだからと、悪ばかりを警戒していても、ほぼ無意味という事だ。

共産主義=社会主義国家は、現状を見れば、もれなく失敗国家で、悲惨な専制国家でしかない。つまり、社会主義=共産主義を信奉する者は非論理的なばかりでなく、人々を不幸で悲惨な境遇に陥れようとしている人非人、非倫理的穀潰しと定義していい。それなのに、マルクス主義の「良いこと」感は強烈なのだろう。まだ何とかなるという妄想におぼれている知識人だか何だかが沢山いる。

環境派もそういう全体主義を内包している「良いこと」の要素を持っていて、時々牙をむき出しにしてはいるが、まだまだ「良いこと」の立場を手放していない。

エコロジーは、スターリン主義の派生がかなり浸透してるから、まあ、その生命力だけは凄い。マルクス主義信奉者の多くが、おそらく死ぬまで解除されない「良いこと」感を環境運動も持っているのだろう。そこは「良いこと」教信仰だからね、どうしようもない。

そういう「良いこと」をどうすればいいかというと、その「良いこと」が「悪い事」になってしまう度合いといったものを知るために時間をかける事だと思う。「良いこと」も何割かは必ず「悪いこと」につながってしまうと考えて対処するわけだ。

ある「良いこと」を社会システム、政治システムに組み込む前に時間をおき、様子を見てから考え、判断するのは、性急な人にとって以外は有益で失敗を減らす現実的な方法だ。

小泉進次郎が推進しようとしているソーラー・ファシズムを防止するのにも、この判断する前に様子を見よう方式は有効だ。小泉がいくら馬鹿な異常者であっても、この方式が彼の無謀な国土破壊を阻止してくれる。



2021年7月24日土曜日

ええい、ケタクソ悪い。笑ってやらぁ

昔は門前市をなすというやつで、大きな寺や神社の参道は今で言う盛り場となっていた。寺や神社と言ったが、区別がやかましくなったのは明治になってからで、江戸時代などはあまりこだわらなかった。今でも寺の中に小さな社(やしろ)があったりするのはその名残で、神仏習合と言って、これこれの神はこれこれの仏の化身などと説明し、一体のものとして受け取っていた。神社が廃れると、寺が救いの手を差し出し、坊主が神社を守るなんてのも珍しくなかった。

盛り場と言えば女がつきもので、大きな寺社の近くに遊郭があるなんて所もあった。現代の価値観で、寺社の前で売春はおかしいじゃないかと、憤ったり、疑問を持ったりする人がいる。だが、それは明治になってから入って来た耶蘇の倫理だ。昔は売春が違法な悪い事ではなかった。昔の事は、そういうものだったと見ておいた方がいい。

また、信仰と性という見方で見る事もできる。諏訪神社から各地を回り、口寄せ、祈祷を通じた布教を行っていた歩き巫女が、同時に売春もやっていたのに見るように、信仰と性はそれほど領域を異とするものではなかった。

いや、南北朝まで遡れば、関東の立川で陰陽師と真言宗の習合から生まれた真言立川流が一斉を風靡した後、淫祠邪教とされ、転落、消滅したのに見るように、極めて近い関係にあった。ちなみに、乱交儀式をやって力を得ようとするのは、真言立川流に限った事ではなかったようだ。どっちか片方、片側だけを見て性急な判断をしてはいけないんだね。

ただし、遊郭は、江戸時代でも許可が必要な事業だった。吉原は許可されていたが、無許可の女郎は取り締まりの対象だった。でも、まあ、実際は、ほぼ目こぼしされていたと思われる。

吉原は元々は人形町にあった。江戸の初期、日本橋あたりは刑場もあったし、それほどいい場所ではなかった。吉原が開かれる前、北条家の残党・風魔小太郎が盗賊となり、一帯を荒らし回っていた。その手下が小太郎を裏切り、徳川に寝返った。おかげで風魔一味が掃討され、その功労として人形町に公認の売春街が許可されたというのは梅干し先生・樋口清之の受け売り。面白いいい先生だった。

神仏を中心に盛り場という俗世が繁栄する。そこには当然ヤクザ者もいたろうし、遊女もいた。聖と俗はこうして現世を作っていた。


この陰影を包括的に把握しないのは怠惰なのだけれど、おそらくそれを怠惰と感じる能力を持たないほど無能な者たちばかりなのだろう。その能力は文学的感覚を必要とするのだが、文学者を含めて、そうした感覚を持った資質は死に絶えてしまったかもしれない。そのうち、手がかりが消え尽くすから歴史も消えてしまう。無能な者たちは安心してお偉い先生でいられる事だろう。


2021年7月22日木曜日

一帯一路のユートピア=絶望

 もしも中国の野望が成功し、世界が中国になったとしよう。

すべての国、あらゆる地域は、いい面も悪い面も含めて、歴史からはじき出された様々な特色、文化を持っている。その多くは無形のもので、人々の意識というよりは無意識のひだの間に埋め込まれている。だが、中国政府にそんなものは見えない。形のないものは、彼らにとってないものでしかない。

そうやって世界が中国になると、誰もが嘘をつき、隠し事をし、個性をなくし、不衛生になり、残酷になり、大声でがなるように・・・要するに中国になる。

中国は世界が中国とは異質であるからこそ、その差を利用して侵略し、盗み、脅し、利益と力を得ている。グローバリズムのインサイダーというか、闇取引というか、様々に形あるものを掠め盗っている。だが、世界が中国になってしまうと、同質になり、差を利用して富を得る事が出来なくなる。

世界がPM2.5を大量に排出し、黄砂で空が覆われ、すべての工業製品の品質が劣化し、文明は後退し、生活は貧しく、苦しくなる。世界は停滞し、中国共産党に理解できない科学、学問は禁止され・・・

そんなの、中国人にとっても面白くもないんじゃないかな。国外に出て息抜きをするなんて出来なくなる。不満と絶望がひろがるだけだ。

中国のユートピア=一帯一路って、何を目指してるんだろう?


習近平の文明破壊を許容する異常な国々、指導者は、中共とともに人類の敵だ。



2021年7月21日水曜日

「良くないこと」に転落する「良いこと」の傾向

かつて、ナチスはアウシュビッツに象徴される強制収容所でユダヤ人の大虐殺を行った。ドイツ人はそれを悪行として行ったのではなく、「良いこと」だと思ってやっていた。当時の価値観では、ユダヤ人の民族浄化は倫理的善行だった。恐ろしい事だ。
歴史的にはそのちょっと前の宗教戦争で、カトリックと、カトリックを批判し、分離したプロテスタント諸派は血で血を洗う戦争を行ったほどだ。
神=造物主の意志の前には、被造物である人間の生命など無価値であるため、神の代理人である教会は十字軍を招集したり、異端=プロテスタントを殲滅せんとしたり、いくら血を流しても問題とならなかった。
こうした事情はキリスト教と同じくユダヤ教から別れたイスラムでも同様で、今でも聖戦によっていくら殺人を犯そうと、讃えらる。聖戦の内実がクソくだらなく卑劣極まりないテロであっても、テロ組織はそれを「聖戦」と言いくるめる。今のテロ組織はテロのねずみ講で、詐欺でしかないが、参加者がそれをイスラムの純粋型と信じる事によって成立している。この根本原因は、智者であるはずの指導者たちの知的退廃だ。こいつらは、コロナ・ワクチンの嘘情報を撒き散らしている悪質な馬鹿文化人を百倍悪質にした者たちだ。
イスラム原理主義のテロリストなど、愚劣な盛り場にわく半グレとやらと変わりはない。
だが、彼らは「良いこと」だと思いこんで、日々、テロに打ち込んでいる。
ちょっと前なら、中核とか革マルとかの人殺しどもが、「良いこと」だと思いこんで殺し合っていた。みんなに嫌われながら、暴力で大学などにはびこっていた。あいつらのやっていた事は、敵対していたはずの日共=民青と同じだった。くだらなかったわけだ。

その時々の「良いこと」、その場ごとの「良いこと」は、実は恣意的なものでしかない前提が変わるだけで「悪」に転化してしまう。
マルクス主義が「良いこと」だった時代もあったし、今、ウイグルで民族浄化に従事している中国人は、それが「良いこと」だと思っているかもしれない。おそらくそうだろう。

今ある「良いこと」には環境派もある。地球温暖化が良いのか悪いのか、どちらでもないのかの意見は別れている。この段階で何か決定的な事はすべきではないと思うのだが、時間がないという事で物事が進んで行く。失敗プロジェクトと「時間がない」の関係は密接なのだが、誰も考慮しない。

温暖化対策として出てきたのが太陽光発電だ。だが、多くの指摘があるように、太陽光発電で必要な電力はまかなえない。
すでに太陽光発電の中国製ソーラーパネルは、かなり国土を蝕んでいるが、本当に必要な電力にはまだまだ足りない。いや、太陽光発電で必要な電力がまかなえる事はありえない。
原子力を止め、太陽光発電を維持するために、火力発電を稼働させている。何が温暖化対策だ。ちっとも良くねえじゃねえかとあきれる。

「良いこと」は「良い」のだからと、乱暴に推進してはならない。「良いこと」は牙を剥く。「良いこと」の変化は政治で立法化し、急速に作り出す事は出来ない。それはファシズムの手法であり、物事を台なしにしてしまう。

とりあえず、環境派、人権派、多様性派が、無根拠で表面的で事実を無視し、詐欺的な言説を弄し、害悪を生み出している事は言っておこう。


スガさん、よくやってるよね

中国で始まったコロナの感染は、中国が情報を隠し、嘘をついた事で世界的な感染爆発に至り、未だ収束していない。

私たちは体験した事のない厄災に翻弄され、1年半以上が過ぎた。今は待望のワクチン接種が急ピッチで進んでいるところだ。

この間、政府は未経験の中、対策を手探りで進め、100点満点は不可能としても、及第点で来ている。様々な反感や手違い、混乱の中を、重点を見失わず、ほぼ一環した手を打てている。ワクチンに対する嘘、コロナに対する誤った認識を撒き散らす輩は論外として、ただ与党の脚を引っ張り、政局に結びつけようとして来た左派野党は醜悪極まりなかった。彼らはプライオリティの低い問題を大げさに取り上げ、対策を混乱させようとするだけだった。

「ああ、もし、この人たちが政権を取っていたら、年内のワクチン接種はありえなかったな。いや、いつになったかわからない。中国製を打たれていたかもしれないな」

といった事しか考えられない。

疑惑の段階であるのを承知で言えば、中国はコロナは作れても、ワクチンは作れない国だ。万が一、コロナを作っていなかったとしても、嘘ばっかりついている事に変わりはない。

最初の段階で、世界中が、コロナが中国のバイオ兵器であり、感染は中国が侵略を目論んでの軍事行動である可能性を暗黙のうちに睨んで対策を立てたと思う。そうでなければ怠慢のそしりを免れないだろう。ただ、日本はそれを考慮しただけでも左翼野党が大騒ぎをする国だ。

菅政権は先進国の中で一番厳しい手かせ足かせをはめられ、コロナ対策を実行して来た。

勘違いした自民党議員たちの失態も脚を引っ張った。田中角栄の時代も、経世会の時代も、二度と来ないという事が理解出来ない脳足りんが、金に目がくらんだか脱税してみたり、権力の何たるかを取り違えたり、軍事国家の独裁政党の100周年記念に祝意を表明したりしている。

何か、色々な意味で、日本の弱点、是正すべき所が随分と表に出たように思う。これは裏返して言えば、コロナのおかげで潜在していた問題点が表に出たという事かもしれない。

自民党は、LGBTだの多様性だの、社会分野の些末な事に首を突っ込んだりせず、公正で自由な政治という正統派としての道を邁進してもらわねばならない。八方美人に陥ったり、チラチラと他所に色目を使うべきではない。


菅政権の及第点に答えるべく、私たちは、コロナ収束に向けて、ワクチン接種と、最後の自粛を貫徹しよう。


2021年7月16日金曜日

レーニン=スターリン主義の現在:同じものは違わない

 左翼は「スターリン主義」という言葉を使う。自分たちではない左翼を非難する時の用語だ。この言葉の背景には、自分たちは「レーニン主義」=正しいマルクス主義だというアピールが込められている。「トロツキスト」を自認・自称する人たちもいるが、それは「トロツキー=レーニン」という認識をしているというアピールが込められており、純血性なり、正統性を主張している点に変わりはない。

しかし、レーニンとスターリン、スターリンとトロツキーの間に、どれほど違いがあるのかというと、ほとんど同じと言っていいのではないかと思う。あいつらに思想と言うべき何かがあるというかなり苦しい前提に立つとして、思想として同じだ。もちろん、毛沢東も加えねばならない。こちらは、これらの名前が出たら、共産主義と考えればいい。どれもひどい奴らだった。さらに、金日成の一族、習近平、キューバのカストロやゲバラも同じだ。この名簿を長くしても退屈なだけだから、このくらいにしておく。

その違いを声高に言うのは、結局、左翼内の派閥争いに他ならない。そんなくだらない事につきあう義理はないのだから、全部共産主義で十分だ。

さて、共産主義とファシズムが行き来可能なのは、同じものだからで、左翼の学者はこれが違うという前提でしか考えないから、ファシズム(右翼)と全体主義(左翼)を別けたが、これも無意味なので、両方ともファシズムないし、全体主義でいい。あるいは、包括的な名称を別途作り出すべきだ。ここでは、とりあえずファシズムとしておく。

こうした前提の上で、1960年代あたりから1980年代の半ばぐらいまでだろうか(1950年代からとする説もあるけど)、西欧は「鉛の時代」と呼ばれる、左右のテロと暗殺、暴力の横行する暗い時期を過ごす。背景はソビエト・ロシアが侵攻を考えていたためだろうと思う。ソ連はパレスチナを経由した地中海ルートで大量の武器を極左テロ・グループに流していた。

ドイツのバーダー・マインホフ・グループ(いわゆるドイツ赤軍)、イタリアの赤い旅団、パレスチナのPFLP、これらの左翼用語で言えばスターリニスト・テロ集団は、爆破、暗殺、銃撃を繰り返し、右翼、公安機関などと暗闘を繰り広げた。

(パレスチナのPFLPは、ハイジャックを発明した事で世界中の航空会社から金を支払われていた。PLOの中で飛び抜けて資金を持っているグループだったため、アラファトのファタハと並んで、ソ連製兵器の卸問屋の地位を得ていた。PFLPには、KGB直轄のグループもいたらしい)

右翼の背後には、英国が第二次大戦前からヨーロッパに構築したステイ・ビハインド・ネットワークがあり、戦後、それを継承したアメリカの存在があった。ソ連圏のファシストは共産党になり、西欧ではステイ・ビハインドに吸収された。

フランスのステイ・ビハインドの存在が興味深い。戦前からステイ・ビハインドだったフランスの暗黒街(フランスのレジスタンスはギャングによって担われた。戦後のノワール映画はゴダールの『勝手にしやがれ』などもその歴史を前提にしている)に加え、ベトナムやアルジェリアの植民者たちがフレンチ・ステイ・ビハインドとなった。アメリカがベトナム戦争に関わるようになったのは、戦前、仏領インドシナを植民地としていたフランス人を支援するためだった。ド・ゴールはベトナムにそれほど興味を示さなかったらしい。これが、後の植民者たちによる暗殺計画につながる。

ベトナムにはアルジェリアからの派兵もあった。アルジェリアがフランス領だったからだ。ベトナム植民者は、敗北後、アルジェリアに行く。そして、ド・ゴールがアルジェリアの独立を認めた事に激怒し、暗殺を決意する。ド・ゴールはその背後に英米ありとして、敵対的姿勢を取る。ソ連はそこにつけこみ、フランスでの共産主勢力の拡大に力を入れた。

ベトナム戦争で、アメリカはソ連の政治宣伝、政治工作に散々にやられた。ケネディが介入を決め、ジョンソンが継続と拡大を結構した民主党の戦争を終わらせたのは、共和党のニクソン大統領だった。

ニクソンは民主党の盗聴がバレて辞任に追い込まれたが、歴代大統領は様々な盗聴をして来ており、どうしてニクソンだけが問題視されたのかはアメリカ政治の謎だ。第一次大戦、第二次大戦、ベトナム戦争と、大きな戦争を決めて来た民主党と産軍複合体はいい関係だろうから、そっちの方からニクソンがやられたのかもしれない。

ニクソンは中国がベトナムを支援しないよう国交を樹立した上で、ベトナムから軍を退いた。北ベトナム軍は南ベトナムに進軍し、その後、略奪を行った。少しすると、ベトナム人はベトナムから逃げ出し始めた。ベトナム難民はしばらく続いた。北ベトナムに味方した「反戦」運動の人々は、それについて何もしなかったし、何も言わなかった。

ベトナム戦争の終わりとともに、世界の若者が憧れたアメリカで大流行した反戦運動が終わり、ベトナムのろくでもない内情が知られるようになった。ソ連の工作で作られた反戦運動と革命運動を取り違えた馬鹿どもが行うテロ活動も嫌われるようになった。中国の事などよくわからなかったから人気の出た文化大革命も、徐々に化けの皮が剥がれ、色あせて行った。

イランでホメイニ革命が発生したが、ただ反米というだけのイスラムの反動革命で、情報がないのにつけこんで左翼がいくら嘘を吹きまくっても、人気は出なかった。

そうこうするうちにエコロが流行し始めた。60年代末からあったのだが、注目が集まったのは80年代になってからだった。運動に行き詰まった左翼がエコロに転じ、ドイツのゴルツだったかが『エコロジスト宣言』なんて本を出し、日本でも一部で話題になった。

何か気色悪いと感じる繊細な人は多数派にはならないので、良い事してる感のあるエコロは広まりやすい。中身などなくても大事なのは良い事してる感なので、実は共産主義の隠れ蓑にすぎないのだけれど、何だか広まった。ソ連のチェルノブイリ原発事故もエコロの求心力になったかもしれない。恐怖は人を支配する。

エコロの薄皮を被った共産主義者は、環境にも、人権にも、まったく興味がないくせに、宗教関係者、宗教的な人々、良心的な人々をその気にさせ、根拠の薄弱な環境問題に人々を動員している。優れた発電システムである原子力発電を危険だと言い募って、効率が悪く、環境負荷が少ないわけでもないソーラーパネルを普及させようとしてみたり、電気自動車を推進している。だが、日本ではソーラーパネルは環境破壊の元凶のひとつでしかなく、その事が徐々にだが認識されはじめている。

それでの、エコロ=共産主義者には、ソーラーパネルが、中国で製造されている事の方が大きいのだろう。ウイグルでの奴隷労働で作られているにも関わらず、中国共産党のためになるよう、ソーラーパネルを推進する。

共産主義の「革命」は人類に厄災しかもたらさなかった。革命は失敗国家を作り出しただけだった。革命に先などない。未来などなかった。持続可能だ何だと、甘ったるい事を言って、環境派の好むやり方を飲み込ませようとしているが、それは革命と同じだ。ありもしない理想の未来の幻影を語っているだけだ。未来は、今までのやり方を良くして行く事でしか作れない。歴史や経験の積み重ねは、合理性の積み重ねであり、磨かれているものだからだ。技術をあなどるな。中国の都合や、欧州の夢想は有害なだけだ。


ベトナム反戦と同じくエコロジーも嘘だが、エコロの方が金にまみれている。


2021年7月14日水曜日

あのお、民主主義って、共産主義の事じゃないからね

ロシア革命がレーニン派によって乗っ取られた後、外にはそのあたりの事情がわからなかったため、ボルシェビキ支持者が西欧に発生した。大量発生した共産主義者は、よくわからないままロシアを支持し、自分も共産主義者なんだという意識に酔った。

この共産主義者は、第二次大戦直前、ファシストやナチスが物凄い勢いで台頭する中、ほぼ転向し、自国のファシスト党員になった。日本に潜入していたロシアのスパイ、ドイツ人のゾルゲは一味の同志たちが、みなナチスに傾いて行くのを知り、焦燥にかられていたという。

イタリアのファシスト党は、元々、左翼のオルグ活動家だったムッソリーニが左翼運動に限界を感じて作った党だった。左右の激しい抗争があり、右翼のファシストたちが勝利したなどというのは虚妄の言説であって、実際は、共産主義者の多くがファシストになり、権力を手にしただけだ。

アメリカではドイツ移民が多数派という事もあり、戦前は親ドイツ=親ナチス運動が大きなうねりとなった。アウシュビッツなどは、戦後まで知られなかったため、ナチスを悪魔視する事はなかった。

ロシア革命は、第一次大戦中にドイツが、敵国だったロシアでの工作として支援したもので、レーニンの「反戦」は、ドイツへの利敵行為を言い繕っただけのものだった。そんな調子だったから、ドイツとソビエト・ロシアの関係は良好で、第二次大戦前、ドイツ軍がベルサイユ条約破りの軍事演習をソ連領内で行っていたという話もある。革命後にボルシェビキ政権の樹立を支援したドイツとソビエト・ロシアの関係は、軍事も含めて良好だったと見ていい。

独ソ不可侵条約を締結したりして、仲が良かったにも不思議ではない。それなのに、戦局も厳しい時に、ドイツがソ連に攻め込んだりした。ヒトラーが血迷ったとか、色々言われているが、スターリンが英米に寝返りを決めたのを、革命時から関係の深かったドイツが察知したのかもしれない。共産党と各国のファシスト党は元々一緒だから、人的なつながりで情報が漏れた可能性もあり、また、ドイツがスターリン周辺に工作員を埋め込んでいた可能性もある。

また、ソ連参戦後、スターリンはソ連軍の粛清をしているが、それはソ連軍内のドイツ派の粛清だったかもしれない。ソルジェニツインはとばっちりでシベリア送りにされた可能性もある。

戦後、イタリアとドイツの敗北で、西欧のファシストは雪崩を打って再転向し、共産党に戻った。イスラエルは、元々、ユダヤ人の共産主義者が多かった事から、そういう人物の情報を入手し、告発するぞを脅し、ユダヤ人の大量出国を助けさせたという。


日本で、共産主義から転向した人々は、戦時中は国策に乗って戦争協力していたが、やはり戦後に再転向し、共産党に入党した。彼らは本当は「一党独裁」信者だったが、占領軍の意向に同調して「民主」の皮を被った。もっとも、共産主義者、左翼リベラル派の「民主」は自分たちが気に入ったものという意味で、正しい定義に基づく「民主主義」ではない。

自分たちと考えが違うと「非民主的」だと非難するのがその証拠だ。「民主」=「共産」だと思っているわけだ。凄い独自性だな。

でも、社会主義国=共産主義国は、どこも失敗国家であり、独裁国家であり、軍国主義だから、今後、共産主義国になるのは、共産主義国に侵攻され、占領された国だけに決まっている。その意味では、共産党も、共産党と共闘とかできる、疑似リベラル=左翼リベラル政党も、カケラほども未来のない集団でしかない。

まだ、共産主義の虚妄、左翼の妄想にしがみついている者たちもいるが、一顧の価値もない。もう終わった問題であり、通り過ぎていい。


当面の主要な政治問題は、共産中国の横暴と冒険主義、軍事的拡大をどう打ち破るかであり、自民党に浸透した中国派勢力をいかに駆逐するかだろう。





2021年7月10日土曜日

嫌がる人がいるだろうから、言っておく事にした

 江戸時代は藩が国を統治していた。ただし、藩意識は希薄で仕える対象は「家」だった。「お家の大事」、「お家騒動」という言葉の通りだ。

この家は個人の家であると同時に、共同体に拡大されていた。ある共同体を支配する家は、自らの家族だけでなく、共同体に属する人々も擬似家族として支配し、同時に、守った。これは、ほぼ、世界各地で共同体はそのようにしてあったと考えられる。ただし、植民者がすべてを破壊したアメリカ大陸は例外となる。南米はカトリック、北米はプロテスタントによる先住民の虐殺、文明の破壊が行われた(北米はちょっと複雑で、最初はスペインが侵略の中心だったけど、フランスもいた。その後かな、英国が入り、それから独立という過程をたどる。けど、ここではこれ以上細かくしない)。まあ、革命そのものだね。恐ろしい。

一族郎党と言うが、ひとつの家を共同体の支配一族とし、その家の長を共同体の長として、共同体の維持、そして、強化を図るのはわかりやすいあり方だ。共同体だから、いくつもの家があるのだが、中で最も勢いの旺盛な家が上になり、他を束ねる形で安定を求めた。そういう共同体の長=棟梁の頭がよく、強ければ、共同体は周辺の共同体を併合し、強く、大きくなる。共同体が大きく、強くなれば、より安定し、頭領の面倒見も良くなるから下につく郎党も励み甲斐がある。天変地異にあっても生存確率が上がることになる。

この「家」が時代とともに大きくなり、支配する区域を広げたものが大名だったと、文化的には考えていいと思う。

その大名の頂点に立ったのが徳川家で、これがまあ300年続く。

大名から肩のこらない方にグーッと下がって、やくざの家、何とか一家というやつも同じで、家にみたてた共同体構造だ。ヤクザの生業としては、口入れ(人材派遣業)、土木、火消し等々があったようだ。何とか組という名称は、元の生業が建築土木などだったためだと考えられる。

時代劇ドラマに出てくる岡っ引きもヤクザだった。町の顔役で「親分」と言われる人たちが、お上から十手捕縄を預かり、犯罪捜査に従事していた。けっして岡っ引きだから「親分」だったのではなく、親分が十手を持っていた。こうした岡っ引きを「二足の草鞋」とも言うが、岡っ引きは誰もが二足の草鞋だったはずだ。

また、彼らを「御用聞き」などとも言うが、町内を回って、何くれとなく一人暮らしの年寄りの面倒を見るといった事も「御用聞き」に含まれていた。親分の間には格があり、出入りする寺社の格がそのまま親分の格となっていた。

親分が所轄する範囲が縄張りであり、隣接する所轄の親分がこれを侵害する事はありえなかった。吉原の女郎が逃亡し、三ノ輪に入って逃げおおせたという話が残っているが、これは縄張りを超えたため、もう吉原を仕切る親分の手には負えなくなったという事だろう。もちろん、こんな事でお上の手をわずらわすわけにはいかない。足抜けは成功した。

明治になって、全国の警察にヤクザの手を借りるなという通達がなされる。徳川時代の残滓を消そうという努力だったが、今でもそのつながりが残ってはいる。

江戸時代までは、家という私権の拡大した枠組みが統治機構として機能した。日本といっても、各地方の藩の単位をお家が統治し、その上に幕府として徳川家が君臨する方式だった。

明治維新は尊皇攘夷の徳川家と、尊皇攘夷の薩長土肥の戦いだった。それで尊皇攘夷の薩長土肥が勝利した(幕末に誰もが尊皇攘夷だった事が、それなのに血で血を洗う抗争を繰り広げた事が後の理解を難しくした)。そこで廃藩置県が行われた。これは国ごとに夫々の大名家が統治者として存在するのをやめさせ、天皇家を頂点に日本をひとつの家の下の共同体にするという改革だった。国民は「天皇の赤子」として、共同体成員だった。

季節ごとの災害があり、地震も多く発生する日本では、共同体の成員が協力しあっていなければ生きて行けない。身勝手な者がいれば、全体の死活に関わってしまう。そういう事情がある国民性だから、個人主義などは合っていない。何が何でも個人主義が進んでいて、上で、良いと思う人は別の国に移住した方がいい、日本社会はそういう文化だ。本当は、そんな事に上も下も、良いも悪いも、進んでるも遅れてるもない。違いと良し悪しの区別がつかない外国かぶれにはわからないだろうけれども。

徳川幕府の家を戴く統治から、宮家を戴くようになり、家が全国規模に大きくなっただけだから、江戸時代から明治時代への転換は比較的なだらかに行った。ご一新と言っても、徳川という家から、天皇という家になっただけとも言えたからだ。

もちろん、武家身分はなくなり、たてまえだけでも平等性が高くなった。社会的にはまだまだでも、法的には平等が推進されたのも大きな違いだった。それでも、家という統治の前提はゆるぎなく継承された。

戦前の国権派と民権派の対立も、昭和戦前軍部の統制派と皇道派の争いも、家=尊皇攘夷を前提としたものだった。

家による統治は戦前、とてもうまく行ったが、アメリカがソ連と手を組む事にしたため、戦争に負けてしまった。第二次大戦は、欧州方面では第一次大戦の流れで必然という面があり、日本にとっては攘夷という大義があったから、まあしかたがない話だったから愚痴を言う事はないし、負けたのも、あそこまでやれば当然としか言いようがなく、攘夷=アジアの解放の目的もまあまあ達成したのだし、今風に言えば、受け入れて、前に進めばいいだけだった。

でも、日本軍に手を焼いたアメリカに民主主義を押し付けられ、家を捨てさせられそうになった。戦争に負けて国民的ショック状態だった時に、妙な罪悪感を植え付けられた(今風に言うとマインド・コントロール、それより前風に言うと洗脳)上での話だった。

まあ、それも何とかしのいだんだからいいとして、やっと先に行けるかもしれない。

民主主義の方は、図らずも明治維新の完成に与する形になった部分もあるから、これはこれで良いとしよう。政治的に、日本はこれほど平等な国家はないと言えるまでになっている。社会も、どんどん良くなっているし、粗製乱造の団塊の世代が死に絶えれば大きく前進するだろう。それは自然に任せておけばいい。

だが、敗戦により家ではなくなった国家をどうして行くのか、どうして行きたいのか、ほとんど手つかずのまま放置されているのはいけない。そこがちゃんとしないから、自民党は圧倒的支持を得ていた安倍政権ですら憲法改正が出来なかった。

明治維新では「徳川ではない。天皇だ」としたが、敗戦時に「天皇ではない」と言わなかったのはあたりまえの話だ。そこでもう答えは出ている。

政治は民主主義を旨とする。国家は天皇=家を共同性の要とする。

誤解を恐れずに言うならば、日本国民は天皇の赤子となる事でどれほど解放される事だろうか。



2021年7月2日金曜日

「安心」なんて社会に持ち出すな

「安全」と「安心」をくっつけて使っている人がいる。元は百合子さんかもしれない。あの人らしくデタラメだ。

「安全」というのは、「これこれこういう定義域において、こういう所がこれだけの確率で危険性を免れているとみなされます」という事だ。もちろん根拠がある。

だが、こういう風に説明したら、理解できない人、理解しない人、誤解する人、曲解しようとする人たちが発生するだろう。だから「安全」と一言で言う。

それでも、「安全」というのは、あくまでも有限が前提で、有限なものだというのは変わらない。それ以上は出来ないんですよ。

そういう「安全」は不安だと感じる人がいるかもしれない。それは理解できないでもない。でも、どうにかしてあげる事は出来ない。それは不誠実だからではない。不可能だからだ。

「安全」をものすごくひっつめて言うと、ルールの問題になる。そして、「安心」は感情の問題になる。だから、人は「安全」ではなくても「安心」している事もあるし、「安全」なのに「安心」できない時もある。まったく別次元の事なので、どのような並べ方も可能なのだ。

「安全」なだけでは「安心」を提供できない。不安など、誰でもいくらでも拡大して感じ続ける事が出来るから、感情の前では「安全」という理性は無力なのだ。

だから、「安心」を盾にとって「不安」を煽り、「安全」=理性を退ける者は極めて悪質と断言していい。原発を止めてしまった民主党(あいつらの中でも菅直人という最低の野郎が、また、首相だった)や、今、中共コロナのワクチンが危険だなどと無根拠なデマを撒き散らしている連中は本当にタチが悪い。


「安心」は無限を要求するのと一緒だ。政治に無限を持ち込んではいけないというのは鉄則だ。いや、この宇宙は有限なのだから無限はありえない。万が一、宇宙が無限であったとしても、人類は当分無限を手に入れる事は出来ないだろう。今、無限を要求するのは、迷惑以外のなにものでもない。


という事で、中共ウイルス(コロナ)のワクチンは「安全」だ。さっさと打って、オリンピックを楽しもう。