2021年10月16日土曜日

再転向論

 日本から言えば大東亜戦争、世界史的には第二次世界大戦、日米戦としては太平洋戦争の前、左翼知識人はほぼ全員がマルクス主義を放棄した。これを転向と言った。転向しなかったのは、吉本隆明の言によれば3人だったという。

戦後、転向した知識人のほとんどが再転向し、こぞって共産党になだれ込んだらしい。

この「転向」を問題視し、責め立てる風潮が一時期あったらしい。転向論というのがそれで、頑固一徹とか、この道一筋とか、人はそういうの好きだというのもあって、転向した人はひどく責め立てられたのではないかと察する。

今となっては奇妙で醜悪な感じがするが、戦後の始まりの時期、知識人たちは、こうした一種の踏み絵を課された。

まあ、知識人の事だから、処世術として転向と再転向を済ませた人たちも多かったと思う。今風に言えば、ほぼほぼそういう人たちだっただろう。

戦後、日共に入った人たちの多くは、敗戦のショックで錯乱し、共産主義が正義だと思い込んでしまったのだろうと推測できる。マルクス主義がいいだなんて思えるのは錯乱以外の何ものでもない。

それとは別にソ連に抑留された日本兵も、帰国後、かなりの数の人が日共勢力に合流したようだが、これは収容所で洗脳された人々だった。後に、この洗脳方法が、朝鮮戦争の時に中国によって米兵に行われた。洗脳され、暗殺者になった者を ”manchurian candidate” と言うが、あらかたの英語辞書からこの言葉はもう削除されてしまったようだ。

錯乱や洗脳は悲惨な話だが、これらは転向論の問題領域から外れる。

いまさら転向論なんか持ち出したのは、戦前、マルクス主義を捨てて、普通の国民になったのが、そんなに問題視されるような悪行だろうかという疑問があるからだ。疑問に思うのだから、悪行だなどと見なしていないし、共産主義が正義だなどとは当然考えていない。

今だから言える事だけれど、マルクス主義、共産主義、あるいは社会主義の国はどこもひどいありさまで、例えば北朝鮮がとりわけひどいという事もなく、マルクス主義を奉じた国としてみれば、平均的なひどさでしかない。社会主義国家などというのが失敗国家の道だというのは、もう、今になってみれば明々白々だと言っていい。

よく間違えている人がいるが、どの国も腐敗した者たちに牛耳られている事をあげつらって、真の社会主義ではないなどと言い抜けできるものではない。そうではなく、真面目で実直で清廉潔白で能力のある人々が誠心誠意やったとしても、社会主義国家は失敗する。これはもう議論の余地などない。マルクス主義はいかなる政治的選択肢からもすでに外れている。

特に言っておくけど、中国が失敗国家ではないとアテにしているとしたら、ひどい間違いだ。国内で格差を作り出し、富を集中させ、虚飾の豊かさを演出しているだけで、中身は典型的な失敗国家だ。

ここから見れば、戦前の転向が正しい選択だった事は疑いない。それを後になって、やっぱこっちが正しいかな? と、再転向したのは、知識人などと言っても、実はロクにものなど考えていない軽薄才子だったからだろう。再転向が軽々しかったのは、転向が軽々しかったからだ。

ということで、軽薄才子の後輩たちである、現在の「進歩的知識人」は、転向などせず、ずっとそのままでいるのがいい。敵に回してもどうって事ないけど、味方にしてもどうって事ないか、面倒なだけだからだ。



2021年10月9日土曜日

我らが嘘なる至高

  嘘には種類がある。他愛ない嘘から悪質な嘘、それから大切な嘘というものもある。

 例えば神話などは荒唐無稽で、嘘と言えば嘘なのだけれど、人にとってこの上なく大切な虚構だ。それは嘘でしか表せない、人の存在に関わる何かが語られていると共同的に感じとられているからだろう。こうした嘘は、それを守るために命をかけても惜しくないし、その精神と行動の真実は嘘の大切さとつりあうほどの重みがある。そこにあるのは美の原型だと言えるかもしれない。

 これを別の言い方で言えば形而上という事になるのだろう。ここは象徴主義や神秘主義に近い場所であり、また、当然、信仰とも深く関わっている。

 この虚構は自然発生し、時間をかけて磨かれて来たのだろう。日本でなら、国学や民俗学がここに関わって来た。あるいは、文学もまた、虚構であるがゆえにこの系譜を汚している。

 吉本隆明はこの虚構を共同幻想という言い方で語った。発表当初から、その意図が受け止められたとは言い難く、乱暴に曲解されたように感じるが、国家も、信仰も、民族も幻想だという吉本の指摘は的確だ。そして、吉本はその幻想=虚構を必要とする人間というものを、よく知っていたと思う。

 隣人は嫌いでも、愛国心を持つ事は出来る。隣人は身も蓋もない現実で、国家は幻想、ないし、虚構だからだ。次元が違うため矛盾が生じないのである。

 こうした虚構を、現在の上っ面の感覚で嘘=悪という、かなり幼稚な倫理で裁いてはいけない。方便といった軽口ではなく、虚構は人の精神に必要で、それは真剣で深刻な話である。虚構がなければ文化も文明もありえない。崇高さもない。この虚構がなければ、人もまた、そこらを這いずり回っている虫と大して変わるところはなくなってしまう。こんなふうに言っても大げさではない。

 虚構と言っても、中国共産党が「抗日戦争」などと言う嘘は邪悪な詐欺でしかない。毛沢東は国共合作後も国民党軍を背後から攻撃していただけで、日本軍とはまったく戦っていない。つまり、国共合作など、中国共産党が国民党を欺くための嘘でしかなかった。それを、後からとってつけて、さも日本と戦ったかのように振る舞い、恥晒しを隠蔽しようとしているだけだ。

 これは人間存在が希求する虚構ではなく、下心見え見えのデタラメでしかない。中国のような歴史はあっても伝統を破壊した国には、形而上的虚構など不可能で、人間精神は虚構を政治利用するところまで荒廃しきっている。

 現人神などというが、現実に人が神であろうはずはない。しかし、この虚構の文脈では、神は存在するし、現人神も須らくいる。この当たり前の二重性を生きる事は、善良な人々が神を敬い、誠実であろうとする事であり、世界中で、人はこうした正しい生活を続けて来た。これを文明と言うのであり、文化というのであり、豊かさというのである。このような自由で平等な国を作り上げて来た日本は、現人神という神性を国民の象徴とするにふさわしくあろうとして来た。それは、事さらに何かしたというのではない。ただ、働き、暮らしているだけだ。

 現人神が生涯をかけて象徴である事に向かい合う事が日本であり、庶民が、無言のうちに苦楽を生きる事が日本である。

 私たちは嘘を磨き、至高のものとした。