2018年2月28日水曜日

宴は終わった

 邦題「恐るべき子供たち」、原語だと Les Enfants Terrible (アンファン・テリブル)は、日本の倉橋由美子が好きだったんだろう、パクってた記憶がある。
 倉橋由美子はどうでもいいが、北朝鮮の金正恩と金与正、アンファン・テリブルだよな。ジャン・コクトーの作品では、機関銃で銃殺なんて事はなかったけど、現実は小説を越えて残酷で陰惨だ。

 北朝鮮は現在実在する奴隷国家だが、共産主義はどこであっても、あんなようなものしか生み出さなかった。金王朝など、一刻も早く消滅する事が人類の進歩に決まっている。








2018年2月23日金曜日

書を捨てよ、二度と拾うな

 本屋に行かなくなった。行ってもつまらないからだ。棚に並んでいる本のほとんどは内容もなく、文章もひどいシロモノだ。これで金を取ろうなんて、出版社というのはどういう了見なんだろう?
 若者が本を読まないなんてあたりまえだ。手に取るに値しないものなど無視されて当然だ。質の低い商品を出しておいて、売れないのは消費者のせいだなどと言っていられると思うのは大きな間違いだ。
 もう少し言うと、若者ばかりではなく、今の年寄りたちも、ほとんどは本など読んでいなかった。購入し、置いておくだけで、読んだとみなされる知人の話を聞いてすましていた。その知人が同じ事をしていた場合、間違った知識が流布されていた。
 団塊の世代など、ほとんど読書などせず、漫画ばかり読んでいた。粗製乱造された人たちだからしかたがないとも言える。哀れなものだ。あそこで、日本の知性も伝統も品格も、ほぼ断絶した。三島由紀夫が「断弦」と言ったのは、あの人たちの時代だ。
 彼らが、本当はほとんど本など読んでもいないのに、読んでいたつもりになって、若い人たちをけなしたり、脅したりするのは哀れではない。実に見下げ果てた振る舞いだ。
 大体、「本を読め」などと曖昧な事を口にする者は、問いただすと、10年も前に読んだ一冊の一節を後生大事に引用できたらいい方という程度で、実際は何も読んでいない場合が多い。その10年前の一冊も速読の本だったらいい方という体たらくだ。

 世界的に、読書などする人は極めて少ない。必要がある人だけだ。
 いや、今、量だけで言うなら、ネットで日々読んでいる文章はもの凄いものになっているはずだ。そして、メールやライン、SNSでの発信で、かつてないほどの文章を書いているだろう。内容も、表現も、おやおやと思うものも多いが、それだって新聞よりはマシだ。
 情報の発信や発言で、これまで特権的な位置にいた人の中には、この大衆化を嫌う人もいるようだが、それはその人が相手にされていない事のエビデンスでしかない。

 高木貞治の「解析概論」は名著だが、興味もない人は存在すら知らなくて当然だ。最近読んだ「データ・スマート」は面白かったが、これも読まない人の方が多いだろう。ロレッタ・ナポレオニの本は手当たり次第に読んでいて、今は新刊の「North Korea」にかかっているが、やはり知っている人しか読まないだろう。
 大学の先生などは、使いもしないのに、値段ばかり高い自著を学生に押しつけて、印税でセコい稼ぎをして来たが、そういうみかじめ料、もう田舎やくざでもやってないぜ。

 読書が趣味だから、邪魔だなと思いながら、いつまでも買っては読んでいるが、あまりお勧めはできない。本当に場所ふさぎだからだ。
 ここ数年、多くの本を読んできたに違いない知識人が、色んな所で馬鹿さらす姿を見るにつけ、知性と読書も関係がないと感じるようにもなった。間違って読書が趣味になってしまった人は、読み続ければいいが、それだけの事だ。





2018年2月20日火曜日

やっぱ整形は韓国かね

 金正恩の妹の金与正。アレで北朝鮮の整形の力一杯かな?

 金正恩の方は、段々と金日成に似て来てるけど・・・

2018年2月14日水曜日

北朝鮮工作員

 あの、東京だけど、2件知ってる。
 いっこは知り合いの親がやってたアパートに間借りしてた夫婦。北朝鮮のスパイだった。張り込みの警官が「怪しい者ではありません」と名刺をおいてったという。

 もういっこは、友達とかじゃないけど直接知ってる。

 自民党議員にも、官僚にも、スパイなんかいるだろ?

 情報はかなりモレモレじゃないかしらね。

 そういうのはある事で、どうってことないわけじゃないけど、許容というか、想定というか、その範囲内なら、普段は無視しといていい。

 現実は、ドラマとかよりもはるかにダラッとしてるんだよ。





2018年2月13日火曜日

『「反原発」異論』の吉本・長崎対談

 吉本隆明と長崎浩の対談は、長崎の

 巨大科学・技術がとめどなく「人間」を侵略していく現実に対しても、道徳的意味で抑制(節度)を利かせようとするくらいで・・・抑制になっていないのが現状であるわけです。抑制の方法論的追求が現在の課題のように思います。(長崎浩)

 という言葉で締めくくられる。これは長崎にとって切実な問題意識だろう。
 長崎は、吉本の「心的現象論」を

 人間身体に対するサイバネティックス。あるいは、いま認知心理学が「心」を機能主義的文法に置き換えることに熱中しています。広い意味で人間機械論の復興です。それにまた私の拡大解釈では、廣松歩さんのマルクス主義(社会理論)でも、自然主義=人間主義的な自然と人間の関係が「場の理論」に置き換えられるわけですね。
 そうしますと、吉本さんがなさっておられる心的領域のお仕事は、こういった機能主義的思考の出現の必然性を予感なさったうえで組み立てられているように思われ、そういう気持ちで読んできたのですが。(長崎浩)
と評価するが、これは、この問題意識から出ているのだろう。
 吉本はこの長崎の言葉を「過大評価」としつつ、

僕が〈心的現象〉に取り組むときに、漠然と想定していたのは、ソリッドな物質観があやふやになっていて、それと同時に人間とか主体という概念が危うくなっている。そういうときどうしたらそれを掴まえることができるかといったら、ある了解性の次元を排除して、ある次元を採用するという意味の選択を、いずれにしろ拒否するということが先ず最初にありました。それ以上には、現在についても将来の事象についても先取り的な意味を持っていたわけではないのです。(吉本隆明)
と答えている。また、この後で、

ぼく自身はマルクス主義はいかなる形をとっても生きられないだろう、しかしマルクスは生きられるという考え方をとってきました。それではマルクスの何が生きられるのか、といったとき、マルクスが哲学として生きられるのは自然哲学と自己疎外論である、それではどうしたらいいのかという問題意識で心的現象論を展開しました。そこで、どうしたら可能性をみつけることができるのか、どこで活体化できるのかを考えるとき、とにかく削らないことだと思ったのです。(吉本隆明)

  読んでいて、「心的現象論」のモチーフを再認識したり、「重層的な非決定」というのはそういう事かと納得したり、何度も立ち止まる。
 さすがに二人とも、いいことを沢山言っている。

人間が分子生物化学過程として、いくら解明されても、人間の総体には到達しない。マルクスの思想の場合でも、認識論的選択をした場合、同じことに陥ってしまうのではないかという気がするのです。(吉本隆明)

十九世紀の古典物理学が完成し、そこから方法論が抽出され、適用世界が必然的に人間的事象にまで拡大されていった。その結果、古い意味での人間主義や自然主義が否定されていき、物理学的な計算可能な概念への人間の再定義化がされるようになります。概念的整理がひとたびなされると、そのレベルで無限に方法を進めることができるわけですから、「人間」と「自然」に対する知的破壊作業が進んでいきます。そうみてくると機能主義は必然性をもった思考方法であるとは考えられます。しかし、同時に、再定義され消去された人間、自然の根拠に残るものに絶えず復讐される可能性をもった思考形態であるといえるように思います。(長崎浩)

 おそらく、反原発を主張している人たちには、この対談が「反原発」への異論として出されているという事が理解できないと思う。理解できるなら、反原発などに賛成したり、同調したり、運動に参加したりしないはずだからだ。
 そして、ここで話し合われている事の本質がわかる人の中で、しかるべき立場にいる人たちは、原発の制御、事故防止に向けての具体的な方策、つまり、技術的な裏付けのあるやり方に取り組んでいるだろう。
 恐怖に道徳を抱き合わせ、政治を盛って原発の再稼働を止める事が、巨大科学・技術に侵略された人間の衰弱した敗北主義だという事は言っておこう。
 彼らに理解はできないとは思うが。


: 敬称は、心が引き裂かれる思いで、あえて略した。




2018年2月11日日曜日

学校は社会の問題児なんだけど・・・

 後にスタンフォード監獄実験と呼ばれるようになった心理学の実験が行われた事がある。

 生徒を2つのグループに分け、それぞれ看守と受刑者の役を演じさせ、どうなって行くかを観察する実験だった。
 その結果、看守役の学生たちは、受刑者役の学生たちを虐待するようになって行った。
 実験を主催した教授までがその空気に支配され、暴走し、異常になって行くのを止めようとしなかったという。

 これは有名な実験で、アイヒマン実験と呼ばれる実験の一種に分類されるものだという。
 アイヒマン実験は平凡な市民が、一定の条件の下において非人道的な行為を行うという事を示したものだ。

 で、何が言いたいかというと、学校って、こういうアイヒマン実験の空間になってしまっている場合があるんじゃないのかという事だ。
 イジメなんか、その可能性がある。
 これは、そこらの教員には想定外だろうし、対応するどころか、呑まれている場合も多いだろう。

 学校で心理実験をやっているわけではないし、ナチスのアイヒマンと同列に論じられる事が理解できない人もいるだろう。
 だが、悪い人間ではないのに、生徒に暴力をふるったり、いじめを放置したり(いじめがあるのを知らなかったというのは、完全な言い訳だ)、いじめを助長したり、率先していじめを始めたり、生徒を虐待するといった行動をとる教員がいる事の説明は、アイヒマン実験から説明できる可能性がある。

 生徒にしても同じだ。悪い子ではないはずなのにイジメをするとしたら、その理由はこうした人間の危うい部分を見るしかないかもしれない。

 まあ、そういう事を考慮しながら教育のシステム設計をするなんて芸当が出来る者が、文部省や学校関係者にどれだけいるかわからないし、まったくいないかもしれないとも思うが、教員が刑事犯罪である暴力をふるった場合など、個人の責任を厳しく追求すべきであるのは当然の事として、それとは別に、システム・デザインについても、点検する必要がある。

 学校関係者が、自分たちはいい事をしているんだから、これでいいんだ、などといった意識を持ち続けている限り、学校は社会の問題児である事をやめないだろう。



 


アルマーニ、サカゼンであったっけ?

東京・銀座の中央区立泰明小学校がアルマーニの制服を決めたとかで話題になってるね」
「標準服とか言うんだろ。昔はなかったよな。で8万円という価格が問題になってるらしいね」
「小学生に制服って、泰明小学校は北朝鮮みたいだな」
「いや、標準服のある小学校は多いよ」
「日本の中の北朝鮮か・・・」
「嫌な文化だな」
「教育関係者、左翼が多いからな」
「学校が北朝鮮ぽくなるのは、最後の左翼が同じ所に行ってしまうという事か」
「文部省の利権を解体したら、そういう人たちも力をなくすね」
「しかし、金のかかる北朝鮮か。嫌な感じが倍増するな。標準服じゃなくて『ヒョジュン服』とか言うんじゃないか」
「校長が1人で決めて、父兄から批判が出ても辞めないって頑張ってる」
「教育システムが生んだ歪んだ人間だな。そういう奴が校長になりやすいのかね。和田利次校長って、こんなので頑張って、くだらなさしか感じられない
「アルマーニ着て、和田バッチつけた生徒が上級小学生で、着てない子は掃除当番ばかりさせられる下級生徒になる。泰明小学校の和田王朝が続く限り下級生徒は給食が食えない」
「小学校で核ミサイル開発したりしてな」
「ヒョジュン服バブルの頃なら行けたかもね」
「バブリ~! なんてやるわけか」






馬鹿な大人ほど英語で子供を苦しめる。だが、その前に、あんた訛ってるよ

 英会話って、普段、日本語でも話をしない奴が外国語だと突然喋りだすなんてありえない。女はおしゃべりだから、沈黙に耐えきれずに何とかしゃべろうとする。男女差という事で言えば、どっちが上達するかはっきりしている。
 外国語だと母語よりも性能が低下する。だから、外国語習得においても母語が豊かな人が圧倒的に有利だ。
 母語で話す内容のない奴が、外国語で言うべき事などない。英会話を勉強するなら、何かそれなりの内容のある事を喋り、聞き、会話をするのが目的なはずだが、母語でやっている事の何割減かになるのだから、ゼロに近い奴は、もっとゼロに近くなるだけだ。そういう人は無駄だから英会話など辞めた方がいい。もっと好きな事や楽しい事があるはずだ。
 また、文法が必要だとか、不要だとか、無意味で馬鹿をさらけ出した議論があるようだが、必要な人はとことん必要だし、そんなに必要のない人は少しだけ必要だというだけだ。文法は植民地教育の簡単のために作られたものだから、きちんとやっておいて損はないが、下層民と認知されるので良ければ、文法から外れて喋っていても、たいていは理解してもらえる。
 自分はどのレベルのどんな事をしたいのかで学習は大きく変わる。最低限でいいなら、今の日本の教育よりも、もっとうんと簡単にして、中学で現在形の普通文だけをやるぐらいでいい。後、辞書の引き方は教えた方がいい。
 つまり、英語圏に違法移民になって、何とか最底辺の仕事にありつける程度という事だ。
 もっと上の仕事につきたいなら、文法もきちんと学び、難しい文献も読みこなし、正しい発音でしゃべりと、かなり堅苦しい世界に生きなければならない。
 目的、つまりゴールもはっきりさせないで、闇雲にどう学習するかを議論するというのは、まったく馬鹿丸出しだし、無駄だし、でも、強引に結論を出し、子供にわけのわからない負担を強いる事になるから、やめた方がいい。
 母語で「喋れる」だの、「お声がけをさせていただく」だの、デタラメな日本語を使って生活しているのは親だが、そこはもう手の施しようがない。子供が外国語習得で会話を重視したいのなら、本来なら、母語の発音、イントネーションから学ばせなければならない。
 でも、学校教員できちんと日本語が話せる人はなかなかいない。なまっている人も多いし、イントネーションは酷いものだ。また、時たま、間違った言葉を使う人もけっこういた。
 という事で、教員の質から言って、母語の習得に問題がある以上、外国語学習には大きな壁がある。
 だから、多くを求めるのはやめて、旅行で使える程度のものを中心に教え、もっとやりたい子を邪魔しないようにだけすればいいんじゃないだろうか。もっとやる子は学校なんかではなく、塾で勉強するから、その邪魔をするなという事だ。





 
 

2018年2月10日土曜日

政治家ってなあサービス業だぜ。葬式まわりは業務外だけどね

 例えば選挙で自分の(あるいは、自分が支持する)所に票が入るのが民主主義で、自民党に票が入るのは民主主義ではないと考えているのが左翼や進歩派だ。そういう得手勝手な連中と話し合いなんか出来るわけがない。相手にしないで、民主主義の手続きに添って、選挙で殲滅するしかない。
 民主党政権後、そういう流れになって来たが、これは民主主義の危機ではなく、健全な民主主義の姿だ。多数決を「強行採決」と言い張るのも無視した方がいいのだから、多数派が多数決で立法を進め、どんどん政策を実現して行くべきだ。
 ただ、自民党にその能力があるかどうかは知らない。
 立法府の議員たちの立法能力が未知数というのがつらい現実だが、依頼心を捨て、役人に任せるのをやめないと、国民に見捨てられる。
 国会で野党の顔色を見ていればいい時代は過ぎた。国民の顔色をうかがう能力を持たないと、自民党も見捨てられる。
 自民党は立法サービスの質を高める余地をとても多く持っている。これが出来なければ、将来、別の保守政党に取って代わられる事になる。
 知らないよ。
 




お前、ヤな奴のままでいいよ。人間、そんなにいいもんじゃないから

 悪人がいい結果をもたらす事もあれば、善人がすべてを台無しにしてしまう事もある。
 物事、意図した通りの結果が出るなんて、あまりない。
 そこを単純に考えると、最悪の抑圧を生み出す。





非人道的行為

 屁をこいてから人工呼吸。

2018年2月9日金曜日

不老不死なんていらない

 不老不死って理想のように言うけど、今、近づいているのは、老不死だ。モウロクしてワケわからないで、ただ生きてるというか、死なないだけで存在する。残骸だ。
 自分がそうなる事を考えると心底恐ろしいが、様々な衰えを鑑みるにつけ、その恐ろしいありさまに近づいている。そして、ある時、一気に距離をつめるのだと思う。出来るうちに自死をと思わないでもないが、変死は色々とはた迷惑だ。
 死ぬまで元気というのが理想だという感じもあるが、武道の達人がボケても、技だけはサエているので、家族や弟子が往生しているという話をチラホラ聞いたりすると、そういう元気も困りものだと思う。
 うーん、まだらボケが来たら脳死って事にして、始末しちゃう・・・なんてわけにはいかないよな。

 で、介護施設の職員て、給料は安いし、もの凄いストレスにさらされてるし、体力的にも厳しいと聞いた。せめて給料を上げ、心のケアをしていかないと、必要な介護を担う人がいなくなってしまう。これは緊急の課題だ。





2018年2月6日火曜日

文春砲って、粗砲じゃねえか

 週刊誌なんて、元々、凄いゲスで下品で汚くて、商業主義のもので、読者の劣情を刺激して商売して来たんだから、音楽屋さんが1人引退したって、それは個人の問題だ。
 週刊誌そのものが売れなくなって消滅しても、同じような劣情商売は人間が下劣な面を持っているかぎりなくならない。
 文春の記事で小室氏が引退しようがどうしようが、文春は、はい下品です。おっしゃる通りの商売ですと開き直ったらそこでおしまいだ。そして、元々そういうものとして始まったものなのだから、問題は、その原点をきちんと守れているかどうか、ちゃんと下品かどうかしかない。
 で、何お上品ぶってんだよ、馬鹿。だから売れねえんじゃねえか。





2018年2月2日金曜日

ううっ、今日も寒い

 文在寅政権の韓国を見てて、民主党(民進・立民)政権が続かなくて良かったとつくづく思う。
 国会の中ではなく、外で運動でもやってればいい人たちだね。
 いや、それじゃ沖縄に行ったりするから、沖縄へのしわ寄せになってしまう。置き場所のない人たちだね。

民主党政権は国民の大失敗だった。小池百合子都政が都民の大失敗なのも同じだ。
 ふたつとも小沢一郎が絡んでいる。小沢一郎、いいかなと思った時期もあったけど、あれも疫病神だね。



低生産性の日々

 雪だというので気持ちも寒くなってしまい、つい、早寝をしてしまった。その結果、妙な時間に目が冷めてしまい、布団から出たらやはり寒く、外を見たら、雪は降ってないが、だからといって温かいわけではなく、お茶を呑み、グズグズと夜が更けて行くのを感じつつ、アガサ・クリスティーが朦朧とした感じを出すために、冒頭にダラダラした文を書いたのはどの作品だったか思い出せず、でも、あの雰囲気は少しチェスタトンぽいな、意図的なんだろうなとか余計な事を考えている。
 チェスタトンのブラウン神父シリーズ、最初の作品の冒頭は、リボンがかかった一枚の絵のリボンが解けて動き始めるイメージで、それは昔のハリウッド映画の始まりを想起するとわかりやすい・・・おっと、もうそんなの見たこともない人のが多いのかな・・・のだけれど、ともかく、とても美しいイメージが描かれている。
 チェスタトンの文章力でサラッと面白いイメージをえがかれて始まるなんて、やはりブラウン神父はいいな。




2018年2月1日木曜日

タンパ・レッドの言葉

自分にできることをやれ。できないことは、考えるな」

 タンパ・レッドが、アーサー・クルーダップに言った言葉。(ウィキペディアのアーサー・クルーダップの項参照)

 タンパ・レッドはボトル・ネック・ギター奏法の名手として名を馳せたブルース・マン。アーサー・クルーダップ(あだ名はビッグ・ボーイで、アーサー・ビッグ・ボーイ・クルーダップ(Arthur "Big Boy" Crudup)なんて呼ばれたりする)はエルビス・プレスリーが憧れたブルース・マンで、エルビスのデビュー曲の「ザッツ・オールライト」はクルーダップの曲だ。「ロックン・ロールの父」とも呼ばれたが、不遇で、農業労働者として働きながら音楽活動を続けた。
 エルビスは、自分がクルーダップの境地に達したら、誰も聞いた事もない音楽が作れるのにと言っていた。エルビスはクルーダップの曲を3曲もとりあげている。

 プレスリーのバックボーンはゴスペルとブルースで、プレスリーが出現しなかったら、アメリカ音楽はカントリー一色になっていて、ブルースなんて知られる事もなく消え去っていたかもしれない。人種差別団体のKKK団(クー・クラックス・クラン)が、黒人音楽を広めているプレスリーを狙った事もある。

 出来ない事をなくそうなんて考えずに、出来る事だけに集中しろというのは、とても現実的でいい教えだ。何でも出来るなんてのに意味はない。リソースをどこに振り向けるかの決断はとても重要だ。
 昔、学校で抱負をと聞かれたから、得意な学科をもっと伸ばしたいと言ったら、これとこれが成績悪いから、先にそれを何とかしろとダメ出しをされた。罠だった。言わせといてそりゃないだろ。中学生はうんざりした。人の気持ちを台無しにする教師はとても多かった。どうも、教員というと軽蔑してしまうのはそんな体験からだと思う。あいつら、きっとみんな日教組だな。

 タンパ・レッドはいい。出来る事に取り組むだけだって大変だ。出来ない事になんてかまっている余裕はない。苦労人の言葉だ。