2019年1月31日木曜日

SMAP以後、人気が持続するから、みんな息切れするのかね

 嵐が2年後に活動休止するという。大野というメンバーが辞めたくなったのが理由らしい。
 辞めさせて、残ったメンバーで活動するか、代わりのメンバーを入れるかすればいいだけの話だと思うのだけれど、とてもエモーショナルに、個人よりも集団をという方向になって、グループで活動休止するようだ。

 みんな、個人の自由って嫌いなんだね。


 しかし、辞めると意思表示してから2年も続けるなんて、精神的にかなりキツイ。芸人てのは大変な商売だ。



昔、上野あたりで悩んでると「仕事あるよ」と声をかけられるものだった

 銀のパッケージが印象的な「銀チョコ」菓子パン。あれに「W」がある。「W」じゃない方は「シングル」と、とりあえず呼ぶしかないが、「銀チョコ」と「銀チョコW」、ふうむ、この違いは???

「銀チョコ」は細長いパンをチョコレートでコーティングし、縦に切れ目を入れてクリームをサンドしたものだが、シングルはその切れ目が1本で、Wは2本入っている。

 おそらく、味にはまったく影響のない違いなのだが、「銀チョコ」と「銀チョコW」、名前は「W」の方がインパクトが強い。値段が一緒なら、「W」に手が出てしまうだろうけれど、シングルの方が安い場合はシングルを買うだろう。

「銀チョコ」か「銀チョコW」か、ハムレットですら悩まないと思う。



大事さで言ったら、政治は無視できるほど順位が低い

厚労省の統計問題、案の定、野党は脳足りんをさらけ出している。
これで選挙で投票してくれって、無理だよな。いくら何でも非常識な白痴に任せられないもんね。
ま、政治に興味なくしてるから、どうでもいいけどさ。




2019年1月28日月曜日

炭酸飲料っておいしい

 コーラに牛乳を入れるとおいしい。
 で、そのままだとコカ・コーラが好きなんだけど、ミルクコーラはペプシの方がおいしいと思う。

 コーラを強炭酸で割ると甘さが抑えられておいしい。コーラだけじゃなくて、スポーツドリンクも甘すぎるから割る。

 サイダーも甘すぎるから、甘くないのを出してくれるといいのに。




なあ、この意思決定、どうしようか?

 無意志動詞と分類される動詞がある。「育つ」なんてのは意志とは関係ないから無意志動詞だ。
 で、つらつら思うに、「俺」ってほとんど無意志名詞だ。



2019年1月26日土曜日

負けるが・・・やっぱり、負け

 帰り道、一緒に武道の稽古をしている人との会話。

その人「女房が怒るんですが、何でなのかわからないんですよ」
私  「謝っといた方がいいですよ」
その人「そうですね」

 これを無手負け流とでも言おうか・・・非常に情けない・・・

 江利チエミの「新妻に捧げる歌」(だったかな?)を聞くと、何とも言えない気持ちになる。

 関係ないけど、江利チエミの英語は弘田三枝子より上手いんじゃないかと思う。耳の良さだろう。



2019年1月25日金曜日

永遠のどうでもいい話

 男から見た馬鹿女と、女から見た馬鹿男。どちらが馬鹿だろう?
 おそらく男と女で意見が分かれ、感想は平行線をたどり、空間が歪んでも一致しないだろう。

 私は男だ。ゆえに、許容できるものもできないものも、一切合切含めて、女は馬鹿だ。

 あるいは、私が女だったら、男なんて馬鹿よ。決まってるじゃないの。

 繰り返す。私は男だ。




2019年1月24日木曜日

厚労省の役人、統計的な処理が必要だと思ってなかったんじゃないかな?

 厚生労働省の勤労統計問題、制度運営が出来ていないという問題だと思う。今の日本が一番弱い所だ。これを適切に改変できたら、日本にとってとてもいい事だろう。でも、そこには手をつけないで、目先をいじって終わるだろうと思う。
 政府や与党がいい加減だったら尻を叩くのが本来というか、期待される野党の仕事だけれど、そのように本格的にやると国益になってしまうから、今の野党は絶対にやらない。野党は、国益に反する事がリベラリズムだと心得違いをしている、頓珍漢で恥知らずな左翼上がりばかりだからね。いや、その前に、どんな問題なのかを考える知能がないだろう。
 結局、問題は政治的にもみくちゃにされ、処理は中途半端に終わるのだろう。統計処理だけの問題なら、サンプリング調査で近似できるから、しかるべき処理をすればいいだけだが、下手をすると全件調査という最も馬鹿げた結論で終わる可能性すらある。

 そういう解決の仕方ってニヒリズムなんだぜと、ニーチェなら言うかもしれないけど、役人にも議員にも理解されないだろうね。私たちがさらされているニヒリズムの最も通俗的な形の典型がこれなんだが・・・




ゼロカロリー経済

 経済の話って、サンドイッチマン・伊達ちゃんの「ゼロカロリー」理論みたいな話が多いけど、プロや学者じゃないから判断が出来ない。実際のところ、伊達ちゃん理論のように心温まるものではなく、有害なものが混じっているのだろうか・・・?




流行を追わなくていいから、人のためになる事をしよう

 例えば、流行を統計から見ると平均になる。ベルカーブと言われる山型のグラフの一番高いあたりの所だ。ゆえに、「最新流行」というのは、一番新しい平均という意味になる。あまり面白くない。
 流行から政治に目を転じると、政策は平均を目指すしかない。そうすると、ぴったり平均という人はおそらく存在しないから、誰もが少しずつ不満を持つ事になる。でも、偏った政策を行って、半分近くの人が大きく不満を持つと政変に結びつくから、統治論としては好ましくない。そこで、平均で行って、誰もが少しずつ不満を持っているが、我慢できないほどでもないというあたりが上策となる次第だ。
 これはどのような政体であっても同じで、誰もが大満足という統治形態などありえない。なぜなら、人には様々なばらつきがあるからだ。ばらつきというと雑に聞こえる人には「多様性」と言えば理解してもらえるかもしれない。
 平均に対する分散や偏差がこの多様性だ。
 共産主義などの全体主義はこれを認めず、全国民を平均に押し込め、外れ値(多様性)をシベリア送りにするか処刑してしまった。LGBTは資本主義の退廃であるとして存在を否定した。アメリカのゲイ活動家がキューバの海岸で抱き合うデモンストレーションをしたところ、人垣を作って見えないようにしたという。ロシア・東欧では、今でも多くの深刻な差別が残っている。少数派で共産主義者などという人は認識・思考・論理が分裂しているので再考をお薦めする。
 LGBTだけではない。外れ値はどこにでもある。学校もなじめない外れ値の子は一定に存在する。彼らに平均である事を強制するのは拷問と一緒だからやめるべきだ。
 学校や教育システムも平均に合わせるしかないから、外れ値が出る事を理解し、容認した方がいい。学校に向いてない子は自宅学習や、別のシステムで教育を受け、資格試験などで教育修了を認定すればいい。ほとんどの子は平均内だが、外れ値になってしまう子は必ず存在する。文科省、教員といった人たちが、いつまでも多様性を認めないで、平均から外れた子に平均を強制し続けるから、そういう子にとって学校が刑務所となってしまう。

 多様性というのは、朝鮮人をヨイショする事ではない。そういうのは裏返しの差別と言うのだ。




2019年1月5日土曜日

捜査は国策に決まってるのだよ

前から時々目にしていたけど、ゴーン事件でより多く言われるようになったのは「国策捜査」という言葉だ。
でも、待ってよ。警察の捜査も、検察は裁判所の司法手続きも、みんな法律の上で行われる事であり、法律は立法府の国会で決めている。
つまり、法律というのは「国策」によって決められているもので、「国策」そのものと言っていい。
この国策は国民の代表の議員たちによって決められたものだから、国策は民意でもある。
法治というのは、国策による統治を、国策=法とする事で、そこに民意を反映している。
「国策捜査」というのは、民意捜査とか、法治捜査(馬鹿のようなあたりまえさだな)という趣旨ではないだろうから、意味から言えば「陰謀捜査」とか、「謀略捜査」とかいうものに近いのだろうが、陰謀というと「共産党の反日的陰謀」みたいな臭いがつきまとうし、謀略というと「北朝鮮の謀略」という使い方がぴったりしたりするので、使いたくない人もいるのだろう・・・困ったね。

でも、ま、ともかく、いい大人が「国策捜査」といった意味不明の言葉遣いをするのはやめるべきだと思う。捜査は法律に基づいてなされるから、国策に決まってるのだ。国策じゃなくて捜査が行われたら、それこそ大問題だ。国策=法律を超えて捜査が行われたとしたら、それは非合法捜査になるからだ。これは国策捜査ではなくて、国策外捜査とか、そういう言い方をすべきだ。

この国策外の例としては、民主党政権で菅直人がやらかした原発の停止がある。これは違法だけれど、まだ続いている。この法意識の低さは、政治家や官僚にも蔓延している。このあたりの人々のレベルの低さが日本の問題だから、この人々のレベルを上げる事は日本の国家としての課題になる。

ともかく、日本では捜査は国策として行われるのです。そして、それが法治を担保しているのです。ご理解を。





2019年1月4日金曜日

内弁慶の立ち往生

ゴーン事件(というのかな?)で、日本の検察が云々、司法制度が云々というご意見を多く見受けるけれど、検察はずっと同じ事をやって来ている。いや、今回はかなり緩くやっている方だ。それなのに、今になって、ゴーンさんの事件だからという理由だろうか、検察を批判する声が多い。
検察批判はもっと批判されてもいいと思う。でも、今になってというところがひっかかる。
とりわけ、元検事で、今検察批判している人には、てめえ、現役の時は同じ事やってただろうがと思ってしまう。検察官として邁進していたところから、批判するところまでの途中経過がまったく見えないからだ。頭がよく変わり身の早い人のポジション・トークとしか受け取れないのだ。

で、とりあえず感じるのは、

結局、みんな内弁慶なんだね。検察も、検察を批判する人たちも。

という事なのであった。

続かず。