2018年10月11日木曜日

これだけだと突っ込みどころ満載だけど、面倒だから相手にはならないのでよろしくね

 差別関係は面倒くさい。どうして面倒くさいかというと、差別はいけないと糾弾をする人たちの意に沿わなければならないようだからだ。差別を糾弾する人たちと同じ思考をせねばならず、同じ考えを持たなければ怒られてしまう感じがあるからだ。問題によっては同じ考え方をしなければ殴る蹴るの暴行を受けた人もいたと、耳にした事がある。

 そういう事だから、嫌な思いをしたくないので、たいていの人がそのあたりを避けるようになる。差別は嫌な事だからない方がいいし、差別はいけないと言っている人たちに反対はないのもあって、私はちょっと忙しいので、どうぞ存分におやりになってくださいという風にして、関わりを持たない。

 この対処は基本的に姑息だけれど、しかし、正しくもある。差別を必死に糾弾する人たちの真剣さ、深刻さは疑わないが、だからといっていい結果に結びつくかどうかはわからない。

 ひとつの思考を人に強要するのは、マルクス主義に顕著だが、これはすでに歴史にいくらでも事例を見られるように全体主義の思想だ。マルクス主義は入党しない者、同伴しない者、賛同しない者らに、「ブルジョア」「反動」「ファシスト」「権力」「軍国主義」「反人民」といったレッテルを貼り、自分たちが貼ったレッテルに合わせて人を批判というより、罵倒して来たし、今でも罵っている。
 でも「反動」と言われる人たちが、世の中を進歩させているし、自衛隊は中国や北朝鮮が日本に戦争をしかけて来ているのを、かろうじて防いでいる。
 そういう事実は、レッテルを貼る側には気にする必要はないのだろう。本当の反動は「進歩派」を自認する彼らの方であって、いたるところで進歩を邪魔しようとしている。徹底的に適応力に欠ける彼らは、良くなろうとどうしようと、とにかく変化を好まない。
 これはひとつの思考を受け入れた結果かもしれない。思考の効率が著しく低下したためだ。中央が変化を受け入れ、適応する事を決定しなければ、誰も適応などできないのだ。先に適応したりすれば査問され、スパイのレッテルを貼られて糾弾対象となり、場合によってはリンチまでされてしまう。もちろん除名だ。
 こうして、党や党派は遺物と化す。ソ連の崩壊や、北朝鮮の現状からその中身が無残なものだと明らかになったのだから、その遺物は嫌悪の対象でしかない。それを何かいいものであるかのように言っているのは、ツブしの効かない連中だけだろう。害毒でしかない。敵対の価値すらない人たちだ。

 日本は世界的に珍しく、先進国では唯一の仏教国だが、仏教はヒンズー教のカースト差別を否定して出て来た平等の信仰だ。
 社会主義諸国で差別がなくなった事はなく、それどころか、強化されていた事と、日本での差別撤廃への取り組みを比べる能力があれば、マルクス主義と仏教のレベルの違いは明らかだろう。マルクス主義は下等すぎる。

 幕末において、吉田松陰が師と仰いだ佐久間象山は、今でいう部落差別の撤廃を主張していた。「尊王攘夷」というスローガンの中に、こうした平等思想が貫かれていた事は明治維新の核心として繰り返し言及する価値がある。この底に仏教がある。
 日本は、古代において平等思想たる仏教を受け入れた。中世期にもそれを推進し、うち固めた。そして、明治維新においてそれを現実の射程に入れ、平等を推し進め、広めて来た。これは、とにかく日本を悪く見ようという共産教史観に惑わされず、素直に日本の歴史を見ればわかる事だ。
 このようにして、遅々とした歩みながら、日本はたゆまずに平等に向かって進んでいる。もしかしたら、差別反対関係が面倒くさい理由はここにあって、いいよ、もうやってるよ、という事かもしれない。