2021年10月9日土曜日

我らが嘘なる至高

  嘘には種類がある。他愛ない嘘から悪質な嘘、それから大切な嘘というものもある。

 例えば神話などは荒唐無稽で、嘘と言えば嘘なのだけれど、人にとってこの上なく大切な虚構だ。それは嘘でしか表せない、人の存在に関わる何かが語られていると共同的に感じとられているからだろう。こうした嘘は、それを守るために命をかけても惜しくないし、その精神と行動の真実は嘘の大切さとつりあうほどの重みがある。そこにあるのは美の原型だと言えるかもしれない。

 これを別の言い方で言えば形而上という事になるのだろう。ここは象徴主義や神秘主義に近い場所であり、また、当然、信仰とも深く関わっている。

 この虚構は自然発生し、時間をかけて磨かれて来たのだろう。日本でなら、国学や民俗学がここに関わって来た。あるいは、文学もまた、虚構であるがゆえにこの系譜を汚している。

 吉本隆明はこの虚構を共同幻想という言い方で語った。発表当初から、その意図が受け止められたとは言い難く、乱暴に曲解されたように感じるが、国家も、信仰も、民族も幻想だという吉本の指摘は的確だ。そして、吉本はその幻想=虚構を必要とする人間というものを、よく知っていたと思う。

 隣人は嫌いでも、愛国心を持つ事は出来る。隣人は身も蓋もない現実で、国家は幻想、ないし、虚構だからだ。次元が違うため矛盾が生じないのである。

 こうした虚構を、現在の上っ面の感覚で嘘=悪という、かなり幼稚な倫理で裁いてはいけない。方便といった軽口ではなく、虚構は人の精神に必要で、それは真剣で深刻な話である。虚構がなければ文化も文明もありえない。崇高さもない。この虚構がなければ、人もまた、そこらを這いずり回っている虫と大して変わるところはなくなってしまう。こんなふうに言っても大げさではない。

 虚構と言っても、中国共産党が「抗日戦争」などと言う嘘は邪悪な詐欺でしかない。毛沢東は国共合作後も国民党軍を背後から攻撃していただけで、日本軍とはまったく戦っていない。つまり、国共合作など、中国共産党が国民党を欺くための嘘でしかなかった。それを、後からとってつけて、さも日本と戦ったかのように振る舞い、恥晒しを隠蔽しようとしているだけだ。

 これは人間存在が希求する虚構ではなく、下心見え見えのデタラメでしかない。中国のような歴史はあっても伝統を破壊した国には、形而上的虚構など不可能で、人間精神は虚構を政治利用するところまで荒廃しきっている。

 現人神などというが、現実に人が神であろうはずはない。しかし、この虚構の文脈では、神は存在するし、現人神も須らくいる。この当たり前の二重性を生きる事は、善良な人々が神を敬い、誠実であろうとする事であり、世界中で、人はこうした正しい生活を続けて来た。これを文明と言うのであり、文化というのであり、豊かさというのである。このような自由で平等な国を作り上げて来た日本は、現人神という神性を国民の象徴とするにふさわしくあろうとして来た。それは、事さらに何かしたというのではない。ただ、働き、暮らしているだけだ。

 現人神が生涯をかけて象徴である事に向かい合う事が日本であり、庶民が、無言のうちに苦楽を生きる事が日本である。

 私たちは嘘を磨き、至高のものとした。