2017年12月6日水曜日

不可能は誰に対しても平等であって、努力する人にもしない人にも同じく不可能だ

 例えば、政治がうまく行っていれば、誰でもがフーリエ解析を理解できるようになるといった事は起きない。まったく別の系に属する事柄だからだ。
 ならば、どうして政治に、例えば幸せを求めるのだろうか、幸福という主観的な価値観は個人的であり、政治がそれをどうこうできるなどありえない。
 政治的な問題があって、国民が政治的不平等下に置かれているといった不幸に陥っているのならば、例えば北朝鮮や、ソビエト崩壊前のロシア、東欧諸国、あるいは、大躍進や文化大革命時代、毛沢東指導下の支那などを想起すればいいと思うが、その場合はソビエト崩壊に匹敵する変化が必要だが、ソビエト崩壊がKGB(現FSB)という巨大政府秘密機関が計画立案実行した行動だったように、政治的不幸に陥った国家において、その不幸を解決する方法は、必ずしも民主的な方法、つまり選挙によって解決できるものではない。いや、政治的不幸の状態にもよるが、最もその解消を必要とする状態であればあるほど解決方法も解決能力も、国家内のどこにも存在しない可能性すらある。

 肥大化した社会保障制度、産業の国有化による不効率、既得権確保にのみ走る組合といった問題で「病人」と呼ばれたかつての英国は、民主的な選挙でマーガレット・サッチャーが政権についた事で解決の方向を見出したが、あれは西側先進国だから出来た事であって、そのまま世界に広げて一般化できるものではないだろう。せいぜい、日本にあてはめる事が出来るくらいかもしれない。
 英国病は、北海油田の成功で英国が産油国に転じた事で解決したとされるが、今の日本でなら、稼働していない原発を再稼働させる事で経済に大きなはずみをつけられる可能性が高い。

 まあ、政治に出来るのはせいぜいそこまでだ。政治は政治・経済問題に対処する以外の事は出来ない。利害の政治的調整だ。これがひとつの考え方。

 これとは別に、政治は理想を実現する手段だという考え方がある。
 社会問題をはじめ、様々な問題を政治的に解決しようという考え方だ。これは立法によって法規制を行うという方向になるだろう。

 政治を利害の調整サービスと考えるか、理想追求の手段と考えるかは大きな違いがある。小さな政府を目指す立場は利害の調整サービスの側になるだろうし、理想追求の側は大きな政府になる傾向がある。
 政治に理想追求など無理だから、政府は小さい方がいい。これは原則だと思える。例えば、社会的な問題を政治的に解決しようとするのは、例え目的が良かったとしても、あまりいいやり方とは考えられない。
 何故かと言うと、良い目的であっても、それを法律で社会に強制する事になるからだ。権力で社会を統制するという事だ。目的が良くても、そのやり方では目的の良さを損なってしまう可能性が高い。しかも、目的の達成は不十分な水準にとどまるだろう。

 大きな政府が国民を丸抱えして、何でもかんでも面倒見ますなんて、うまくいくわけがない。いや、それ以前に出来るわけがない。それは社会主義が失敗するのと同じ理由だ。
 そういう次第で、政府は小さくして、法規制は少なくし、何から何まで行政が面倒を見るなんてことは考えない方がいいんだけれど、ここで戦う気はないから、大きな政府が好きな人たちが失敗して行くのを止める事はしない。

 お互いに、死にそうでも、助けないでいようね。