2021年3月22日月曜日

変な時代の終わり

地球環境が破壊されるという意見は、終末が来るという予言と一緒で、未来は悪くなるという気持ちの現れだ。悲観的なわけだ。それに対して未来は明るいというのが楽観的な見方だ。この2つは対になっている。

どちらものっぺらぼうな視野で、実際は明るくなる部分も、暗くなる部分もある。

良くなる部分と、悪くなる部分とがあって、差し引きはとんとんで、未来は、まあ、全体としてはバランスが取れるんじゃないかなと考えるのが、最も常識的で妥当な所だと思う。

また、これには変化も関係する。変わる部分と変わらない部分があり、そこに、変わった方がいい部分と、変わらない方がいい部分がある。

変化を好まない人は、変われば何でも悪くて、世の中はどんどん悪くなると感じる。一番良いのは、棍棒持って洞窟で暮らす原始時代なのだろう。いや、生命の海を漂うタンパク質ぐらいの時代が良いのかもしれない。

これと対になるのは、変われば何でもいいという人だ。現状は、とにかく悪いという考えだ。これは教育の賜物かもしれない。

変わった方が良くなるものもあれば、変わらない方が良いものもあるというのが、あたりまえの考えだと思う。

例えば、左翼の年寄りたちは、

「世の中が変わって、日本共産党(変数。ここに革共同でも、何でも、代入可能)が衰退の一途をたどっている。ああ、変化はいけない。未来は暗い」

といった感覚でいるかもしれない。

終戦後、占領政策で形成された暗黙の政治意識、社会意識が団塊の世代と言われる人々の規範だが、これは彼らが無意識に思っているほど普遍的なものではなく、一過的な時代意識だ。すでにかなり弊害が目立って来ているこの時代は、団塊の世代が死んで行き、少数派になる頃には終わっているだろう。残念ながら、その頃まで続くだろうという事だけれども、後から見れば、この時代は「変な時代」としか見られないと思う。

これが戦後で、団塊の世代は戦後そのものだ。変化を価値とし、無理な変化、無謀な変化に取り組んで来た彼らだが、今は、もう、変化を嫌っている人もいるだろう。

まあ、自分たちが過ぎ去ったものとなってしまう変化は嫌に決まっているが、過去に固着していてはそれもしかたがない。もちろん、全部が全部ではない。常に不満を抱えて生きる者はいるものだというだけだ。


一方、団塊がデタラメにやって来たために迷惑を被っている人たちは、変な時代が終わりに向かっているのを歓迎しているだろう。団塊は粗製乱造で無知蒙昧が蔓延っていた。品もなかった。要するに程度が低かった。例えば、一般的に言って学力は団塊の世代よりも、子供や孫の方が高い。団塊の知力では、もう今はやっていけないのだ。


変な時代に始まった事は、ほぼ継承しない方がいい。未来を、少しは明るい、いい方に近づけたいならば。