2021年11月28日日曜日

身も蓋もなさと幻想の写像としての歴史

人間の美男子・美女は、ひっつめて言うと生命力を感じさせる人だろう。

生物にとって子孫を残す事は至上命令だから、子孫を残す確率を高められる相手を求めるのは当然だ。生殖し、繁殖するための選択だ。だから繁殖力のありそうな個体が「美」となる。

陽気な人が好まれるのも、身体能力の高い人が好まれるのも、同じ理由だ。

繁殖力が強く、丈夫なメスは美女という事だ。繁殖させる力が強く、丈夫なオスは美男子となる。

これが基本で、この基本に色々と注文がつくというか、バリエーションが出来て美男美女も様々となって行く。これが文化文明の基本で、これにそって歴史が発展して来た。

で、それが行き過ぎると不健康になり、繁殖という主目的から外れてしまうのも出て来るようだが、生命力=美という基本は変わらないし、変わりようがない。

共同体にとっても、この基本は共通していて、繁殖し、個体数が増える事で共同体が大きく、強くなるのを志向する。そのために他の共同体と争いになる場合は、戦わなくてはならない。これは善悪の問題ではない。

戦えば死者が出る。女は繁殖のために必要で命が惜しいから、男を戦士にする。こちらの命はそれほど惜しくない。別に女が弱くて男が強いからではなくて、種の維持という最重要の主題に照らしての役割によってそこは分かれる。

共同体は成員の生命の維持=子孫繁栄のための器だが、個々の成員の子孫が残らなくても、全体として繁栄すればいいし、繁殖すれば補充も出来るので、男が多少死んでも問題はない。

原始時代から、古代、いや、かなり近い時代まで、そういう身も蓋もない事情は変わらなかっただろうから、その事情を無視していい悪いをあげつらってみても意味はない。それ以上に、一部の者たちが共有している、薄っぺらな思いつきの価値判断を無造作に振り回しても健全性が壊れるだけだ。

歴史は歴史自身の速度で進む。それを早める事にも、止める事にも、成功した者はいない。自分はそれをやってのけるなどと、思い上がってはいけない。不可能はある。

来たるべき未来に取り残されているのは、今、自分は新しいなどとのぼせている者たちだろう。それは繰り返されて来た。