2021年11月12日金曜日

トゥーンベリのスタイル

 グレタ・トゥーンベリを見ていて、その行動の背後にある文化スタイルを思い起こす。

その文化スタイルは1968年頃の馬鹿げた時代を思い起こさせる。あれは、他の人が何と呼ぼうとも馬鹿げたとしか言えない時代だったが、トゥーンベリにはその馬鹿げた時代の薄っぺらで愚劣な文化スタイルから飛び出してきた印象がある。

今はそんな薄ら馬鹿はほとんど見かけなくなったが、あの時代、団塊の世代から、少し下まで、男女ともそういう奴らは沢山いた。

さて、これは何なのだろうかと考えてみた。今の欧州の指導者たちが、若い頃、この文化に触れていただろう事に思い至った。そう、トゥーンベリは、今は年寄りとなった指導者たちの若かりし頃の下位文化の空気を感じさせる。だから、指導者たちにわかりやすい。いや、わかりやすいと言うよりも、年寄りたちが、勝手に自分の青春を思い起こし、わかったつもりになりやすいのである。

トゥーンベリがそうであるのは、親たちが、あの時代の下位文化にどっぷりと浸かった親に育てられ、子供もそのように育てたからなのか、もっと別の誰かがデザインしているからなのかわからない。

年寄りは、トゥーンベリが若い世代の代表のようにとらえるが、若い人たちは、大人が注目するから、大人の目を通してトゥーンベリを見る。

そういう妙な形になっているから、トゥーンベリを何かの代表とか、象徴とか、そういうものだとするのは大間違いだ。


あの頃の文化が、今の時代に影響を残している部分もあるのかもしれない。片田舎には、妙なものが取り残されている事はままある。

欧州の指導者たちは、青春の思い出に浸りつつ、さて、それはさておきと、現在の現実に向き合い、欧州の影響力を強化するために環境問題を利用するだろう。環境問題を盾にとり、欧州による世界支配の強化といった、まったく別の課題を成し遂げようとするかもしれない。だが、姑息で陰険で横柄なだけの欧州に、世界を担うだけの力など残っていない。

トゥーンベリの、今ひとつの迫力のなさ、刺激の足りなさは、欧州の力のなさに由来しているかもしれない。

とりあえず、トゥーンベリについて、今の所これ以上考える事はなさそうだ。その主張は取るに足りないし、何より、退屈な人だからだ。


日本だと、環境派は左翼の中ですらはみ出したカルト的な部分の最後の居場所でしかなかったのだが、左翼が相手にされなくなって行く中で全体的にカルト化し、環境問題で合流してしまった観がある。実際はどうかわからないが、独善的な知能の低さは、おしなべて彼らの性質だ。