ふうん、そうやって嘘言って、相手をいい気持ちにさせたりして、スキを突くんだね。で、相手を操作しようというわけだ。
コミュニケーション力とか、コミュニケーション術と言われるものって、相手から情報を引き出したり、こっちの売りたい物を買わせるにはどうすればいいかってだけの話だよね。
で、そのコミュニケーション・スキルとやらを身に着けた人同士が話すと、
「知らない」
「そうですか、私の方が知らない」
「はい、私の方がもっと知らない」
「私の方がもっともっと知らない」
「私の方がもっともっともっと知らない」
という会話になる。人数が増えても同じだが、ちゃんと数えておかないと、自分の時に何回「もっと」を言わなければならないかわからなくなる。
腹黒いのを隠しながらおためごかしの嘘を言い合って、中身のない関係の作る・・・アレ? いままでと変わらないような気もするぞ・・・違うのは、下の者が上の人間にゴマすってやってた事を、上も下もなくみんなしてやるって所なのかな?
ここで面倒くさがって、
「あ、それはわかってる」
とか言ってしまうヤツがいると、「もっと」の回数がリセットされてしまうので混乱する。
でも、気を取り直して、
「そうなんですか、凄いですね」
と、コミュニケーション・スキルを発揮するのだが、
「いや。凄くない。知ってても意味ない」
取り付く島もない態度をとり、興味を失った顔で離れて行く。
こうして、コミュニケーション・スキルのない人は去り、その場は、再びコミュニケーション・スキルに満ちた人たちだけの楽園になる。安心して「もっと」を数えられる。こうなったら「もっと」を通貨として採用してもいいかもしれない。ブロックチェーンを使えば「ビット・もっと」なんて弁当屋みたいな名前だが、デジタル化もできる。
ぶっきらぼうで、面倒くさがりで、正直な人がいかに迷惑な存在か、これでわかる。
偉そうにしたいだけの爺ィなんてのはまったくのカモだという事もよくわかる。
つまり、コミュニケーション・スキルというのは、粗製乱造で内容のないベビーブーマー世代を転がしてカモにするための接客ノウハウなのかもしれない。
本当に人と気持ちを通わせてつきあいたいなら、無駄で無意味な時間を沢山使うしかない。そこでは効率といった市場で求められる価値がまったく機能しない。私的領域という事だ。私的領域と社会的領域の区別がつかない混乱は失敗に結びつく。
コミュニケーション・スキルのない人は、ある人とは付き合わない方がいい中身がないからだ。
コミュニケーション・スキルのある人も、ある人と付き合わない方がいい。「もっと」の数を数える以外にやる事がないからだ。
コミュニケーション・スキルのない人は、孤独になり、寂しく老いさらばえ死んで行く。
コミュニケーション・スキルのある人も、孤独になり、寂しく老いさらばえ死んでゆく。
老いというのは、孤独で寂しく、しかも、もうすぐ死ぬものだからだ。