2017年5月30日火曜日

昭和のSF

 前に本屋さんで、外国人が「サイエンス・フィクションはどこでしょうか?」と店員さんに聞いた。
 店員さんが「???」に陥ってしまったので、おせっかいを焼いて、
「SFの事だよ」
 と口を出した。
 店員さんの表情が明るくなり、外人を棚に案内していた。
 おせっかいのせいで、私はその場に取り残されてしまった・・・

 SFというのが「サイエンス・フィクション」のアルファベット・スープで、日本語では「空想科学小説」と訳していた。その頃、小説は空想ではなかったようだ。
 昭和の昔、未来と言えばみんな体にピッタリのピカピカ光る服を着ていた。
 それに、人工知能と言えば、大きなコンピュータが人類を支配していた。

 でも、今、人工知能はスマホに2,3個は入ってる感じで、どこかで大きなマシンが人類を監視・支配しているというのとはかなり違っている。
 藤子不二雄の作品の中で一番好きな「海の王子」は、海中にある巨大人工知能をやっつけるため、海の王子が身を捨てて特攻を敢行して終わった。小学生の時の悲しい思い出だ。
 マイクロソフトが海の中にサーバーを沈めるなんてのより数十年前に藤子不二雄はそんな作品を描いていた。

 手塚治虫が「ゼロマン」で描いた監視社会も、共産主義の生み出すものだった。手塚は日共支持者だったから、そういう意識もなく、ただ才能だけで漫画にしたんだろうけど、手塚漫画の無意識は、共産主義の崩壊を何度も描いていた。

 中央集権的なこの支配のイメージの元は、ジョージ・オーウェルだと思う。「1984」という作品だ。
 スペイン戦争に従軍し、ソビエト・ロシアに指導された共産主義者の裏切りにあったオーウェルは、共産主義の社会を、そういう未来の形で描いた。かなり本質的で正確な作品だった。「動物農場」は、同じテーマの寓話版で、レーニンもトロツキーもスターリンも同じ穴のムジナだと、ちゃんと書いていた。
 オーウェルから何十年も経って、まだ、わかっていない連中は、頭が空っぽなんじゃないかと思う。両耳にレンズをつければ望遠鏡になるかもしれない。
「1984」を、一般的な監視社会批判だと、勝手な嘘の解釈をした進歩派のデマゴーグも沢山いた。作品を読みもしない連中は、それを真に受けた。馬鹿だ。あれは、ソビエト・ロシアの全体主義を批判した作品であって、それ以外のものではない。

 幸い、ソ連は崩壊した。そして、日本は平成になった。
 昭和のSFの舞台となった時代が過ぎている。空飛ぶ円盤(UFOの事です。フライング・ソーサーの訳語です)も現れてれていないし(公式にはね。おそらく、非公式にも)、体にピッタリの服は着ていない(特殊な趣味の人もいるけどね。ああ、汚れてしまった俺!)。
 人工知能による人類の支配なんて、そういう楽しい事はきっとこれからも起きない。そこらを歩いているオッサンを支配して、どこが面白い? 何になる?

 いまだに古いイメージで、つまり、想像力が欠けているため、どこかから借りてきている代用イメージで「監視社会」だとか、「治安維持法」だとか言っている人たちの脳みそは、昭和のSFの中で安楽な惰眠を貪っているだけだ。