2017年5月19日金曜日

親分たちの近世と近代

 時代劇が好きなのだけれど、テレビ・ドラマが作られなくなったのでつまらない。時代劇を演れる役者がいなくなってしまったのかもしれない。嵐の松潤で「ご存知からす堂」でもやってくれないかなと、ゴホッゴホッ・・・すっかり年寄りになりきって思う・・・
 時代劇に岡っ引きが出て来るが、岡っ引きを「親分」と呼ぶ。どうしてかというと、親分が岡っ引きになるからだ。岡っ引きになると、自動的に親分と呼ばれるわけではない。親分だから子分もいる。捜査活動に人手は不可欠だから、親分子分セットの方が都合がいい。
 ここから「二足のわらじ」という言葉が出た。時代劇では、裏で賭場をやっていたり、ヤクザだったりする岡っ引きを悪者として表現する時に言う言葉だが、これは話が逆で、本当はヤクザと言えばみんなヤクザで、親分を岡っ引きにしたのだから、岡っ引きは地元の顔役とか、ヤクザとか、建築土木の組を構えているとか、そういう人たちだった。
 岡っ引き=親分は、縄張りを持っていた。縄張りが親分を持っていたと言ってもいい。さほど広くもない町を、親分が仕切っていた。町内を親分や子分が回って、病人や一人暮らしの年寄りに声をかけたりもしていた。御用聞きというのがこれだ。
 親分は、治安維持と福利厚生を担っていたわけだ。縄張りは、つまり、秩序維持の基盤だった。
 十手を預かると言っても、給金がついて来るわけではない。まったくの奉仕なのだが、縄張りが平和に保たれ、福利厚生もしっかりして、親分の評判がいいという事になると、本業が安定したと思う。賭場にいい客がつくとか、大きな仕事を受注するとか、そういう見返りがあっただろう。
 評判の悪い親分の賭場に、いい客が来るはずもなく、大事な仕事を頼もうと思う人はいない。
 アコギな高利貸の手先になって、病人の寝ている布団をはがして行くような真似をしていたら、相手にされなくなってしまう。縄張りをまたぐ捜査活動でも、他の親分に嫌われているのと、あいつは男だと思われているのとでは雲泥の差がつくに決まっている。
 親分たちは、出入りの寺の寺格などによって、暗黙の格付けがあった。吉原の花魁が足抜けし、三ノ輪に逃げるという出来事があったという。吉原から三ノ輪まで、散歩で歩いてしまう距離だ。
 こんなに近い距離なのに逃げ切ったというので、最初はどうしてかわからなかった。でも、縄張りと親分の力関係を考えてみれば、あたりまえの事だとわかった。花魁は、これを考えて逃亡に踏み切ったのだ。
 水戸街道につながる道、今で言う昭和通りが縄張りの境界線だったと思う。投込寺が通り沿いにある。投げ込み寺までが吉原の範囲と考えていい。
 足抜けされた方は、しかし、縄張りを超えて追うわけにはいかない。三ノ輪あたりの親分と話をつけてでなければ、人の縄張りに踏み込む事になる。しかも、親分の格としては、どうも吉原は下だったようだ。
「無情な真似もできねえな」
 とか言われたら、それで終わりだった。
 昭和通りの外側、今の荒川区に重なる地域は、東北に向かう、江戸の最も外側の防衛戦だった。仙台藩伊達家は、徳川家にとって北の大国として警戒しなければならない相手だった。
 神田川は仙台堀とも言うが、これは徳川が伊達家に作らせた堀だったからだ。徳川は、伊達家の戦費を削るために大規模工事をさせた。
 これに対する防衛線として、徳川は三河からつき従い、江戸建設に従事した土木業者を住まわせた。三河島というのは、三河にちなんだ名称だという。
 この土木業門右衛門は苗字帯刀を許され、松本を名乗ったという。
 松本門右衛門も、代々親分で、町内の世話役として苦労したという。

 親分たちは、犯人逮捕のためには逮捕術などを身に着けねばならなかっただろう。江戸時代、百姓町人たちも剣術をやる者は多かった。町道場というのは、この層に剣術を教えていた。幕末の新撰組はこういう場で剣術を身に着けた人たちだった。

 明治維新後、維新政府は、岡っ引きという秩序維持制度を継承せず、新たに警察を設置した。とりわけ江戸=東京といった、大都市要所には薩長の人材を導入した。
 親分たちは、わらじの一足を脱ぎ捨てた人もいれば、警察官になった者もいた。
 松本門右衛門は彰義隊に駆り出されてバリケード作りなどをし、結局逃亡しなければならない身の上となったという。

 親分たちは、土木、建築、港湾労働、運輸、炭鉱など、様々な仕事をしながら近代に対処し、様々な道に別れて行く。そして、自由民権運動や困民党運動に入って行く親分たちも多かった。
 この親分たちの縁の下の支えがなければ、民権運動が地に足をつける事はなかっただろう。武士崩れの壮士たちの大言壮語と仕込み杖だけで出来る事などなかった。彼らの話を聞き、人を組織し、金を工面し、場合によっては逃亡を助けたり、白刃をきらめかせたのは彼らだった。
 無闇な西洋かぶれが薩長国権派から派生した際に、目に余るとして国粋主義が出て来た。国権派と対峙したのだから、国粋主義は自由民権運動の思想だった。自由党が全国の親分たちを糾合した時に、これを国粋会としたのは自然な事だった。

追記: ご指摘をいただき、以下の記事で訂正をいたしました。

    訂正