2019年1月24日木曜日

流行を追わなくていいから、人のためになる事をしよう

 例えば、流行を統計から見ると平均になる。ベルカーブと言われる山型のグラフの一番高いあたりの所だ。ゆえに、「最新流行」というのは、一番新しい平均という意味になる。あまり面白くない。
 流行から政治に目を転じると、政策は平均を目指すしかない。そうすると、ぴったり平均という人はおそらく存在しないから、誰もが少しずつ不満を持つ事になる。でも、偏った政策を行って、半分近くの人が大きく不満を持つと政変に結びつくから、統治論としては好ましくない。そこで、平均で行って、誰もが少しずつ不満を持っているが、我慢できないほどでもないというあたりが上策となる次第だ。
 これはどのような政体であっても同じで、誰もが大満足という統治形態などありえない。なぜなら、人には様々なばらつきがあるからだ。ばらつきというと雑に聞こえる人には「多様性」と言えば理解してもらえるかもしれない。
 平均に対する分散や偏差がこの多様性だ。
 共産主義などの全体主義はこれを認めず、全国民を平均に押し込め、外れ値(多様性)をシベリア送りにするか処刑してしまった。LGBTは資本主義の退廃であるとして存在を否定した。アメリカのゲイ活動家がキューバの海岸で抱き合うデモンストレーションをしたところ、人垣を作って見えないようにしたという。ロシア・東欧では、今でも多くの深刻な差別が残っている。少数派で共産主義者などという人は認識・思考・論理が分裂しているので再考をお薦めする。
 LGBTだけではない。外れ値はどこにでもある。学校もなじめない外れ値の子は一定に存在する。彼らに平均である事を強制するのは拷問と一緒だからやめるべきだ。
 学校や教育システムも平均に合わせるしかないから、外れ値が出る事を理解し、容認した方がいい。学校に向いてない子は自宅学習や、別のシステムで教育を受け、資格試験などで教育修了を認定すればいい。ほとんどの子は平均内だが、外れ値になってしまう子は必ず存在する。文科省、教員といった人たちが、いつまでも多様性を認めないで、平均から外れた子に平均を強制し続けるから、そういう子にとって学校が刑務所となってしまう。

 多様性というのは、朝鮮人をヨイショする事ではない。そういうのは裏返しの差別と言うのだ。