2018年6月2日土曜日

黙って時代の重荷を背負い続けている男たちもいる

 秦野章が警視総監になったのは1967年、1970年まで勤めた。初の私大出身の警視総監と言われたが、東大閥の指定席だった椅子に日大出身警官が座ったのは、ただ、東大卒の連中が逃げたからだった。警察が開明的になったからではない。東大がみんな逃げ、一歩退いたので、日大が出る格好になった。
 左翼運動が激化していた時期、とりわけ、三派全学連が各大学を占拠し、活動の拠点としていた。この学生運動を制圧し、左翼を封じ込める役割に、東大は尻込みし、悪評にさらされるに決っている損な役回りを日大に押し付けたのである。秦野章は火中の栗を拾わねばならなかった。
 この時、学生運動が最も激しかったのは日大だった。日大全共闘は全共闘を象徴する存在となっていた。日大らしく肉体派で喧嘩が強く、外人部隊として他の大学の応援にも駆けつけていた。
 東大の安田講堂占拠も、全共闘運動を象徴していたが、東大生はいざとなると歌を歌うだけの腑抜けで、東大闘争で体を張ったのは他大学の学生ばかりだった。日大生も多く、参加していた。
 秦野は、安田講堂の制圧という最も損な役目を、東大卒に押し付けられた。その安田講堂を守るも日大、攻めるも日大と言うと一面的に過ぎるが、一面的で良ければそう表現する事も出来た。機動隊員にも日大出身者が多数いた。

 日大内で日大全共闘と正面から対峙したのは、日大の運動関係、応援団だった。この激闘も、当時の関係者は何時間話しても話しつきないという。現在、アメフト問題から取りざたされる田中理事長は、相撲部だった事から、この時、最前線に立った人だろう。彼らは、暴れまわった日大全共闘から日大を守ったのは俺たちだと思っているだろう。

 当時も、マスコミは日共を支持していた。そして、新左翼や全共闘もまあまあ支持していた。そして、日大の「右翼」と言われた学生たちは支持されていなかった。いや、反感を持たれていた。

 日大を守った彼らは誇り高き沈黙を守り、社会に出て今に至る。年齢的にも彼らがOBの頂点にいるだろう。アメフト問題で世間から何を言われても、つまり、元から味方ではなかった連中が敵になっても痛くも痒くもない。彼らには釈明の必要などない。
 それに、スポーツ関係で各方面に尽力して来ただろう田中理事長に偉そうな事が言える者はそうそういないのではないかと思う。田中理事長が、あんた損な事言えた義理か? とでも質問したら、ほとんどが引っ込んでしまうだろう。
 文部省も、マスコミも、まず無理だ。

 あの日大チームの許しがたい卑劣なプレーに対して、処罰も含めて、それなりの結果が出た。現在、警察が捜査もしている。
 この程度で幕引きかと物足りない人もいるだろうし、まあまあ納得かなという人もいるだろう。ただ、これ以上、外から結果を押し付けて、こうしろと言っても反発があるだけだかもしれないと思う。

 田中理事長が沈黙しているのは、自分の責任を考えているからだろう。引くべきだと考えたら、潔く引くだけの腹はある人物ではないかと思う。東京オリンピックまではやらねばならない役目があると判断すれば、黙って、理事長を続けるだろう。
 あそこまで行った男が、自らの出処進退を始末できないはずもない。
 そのあたりの事情や判断については、こちらのあずかり知らぬ話だ。