2019年6月25日火曜日

無限の居候

共産主義が人類に有害なだけだったのは、無限を想定していたからかもしれない。
人類の理想郷を作ろうとして、労働者を至上の地位に持ち上げ、その至上の存在からの委託で独裁体制を敷いた。
ここで至上という所で無限が入って来る。だから、至上(無限)の存在からの委託で敷いた独裁体制も無限の権限を持つ事になる。
現実は有限だが、これを無限の権限(権力)が支配する。共産主義社会という約束は無限の理想郷だが、現実には、凄まじい不平等と差別、貧困、矛盾が暴力によって強いられる。そして、国際共産主義というのは戦争の別名だから、公然非公然の戦争がほぼ絶え間なく続けられる。「反戦」というのは、ドイツの指示を受けたレーニンの時点から、戦争相手国に対する戦時工作を意味した。

「いい事だから無限に」というのは人の耳に心地良い。でも、少しだけ考えてみてもそれが危ういというのはわかると思う。
いくらいい事でも、現実は有限だから、ひとつの事にリソースを使い切ってしまうわけにはいかない。それはどう考えようとも、無限に使いたくても無理なのだ。無限にはないからである。

ただひとつ、無限なのは神様である。ヨーロッパの中世は神様=無限が支配した。
今でもイスラム圏は神様が支配している。イスラムが人命を軽視し、自爆テロをやるのは、造物主の前で人命などホコリ以下の重みしかないからだ。そのあたりの事情は中世キリスト教でも同じだった。キリスト教もイスラムも、ユダヤ教起源の一神教であり、教義としてそこは同じになる。
神のためには、世俗の一切を投げ打ち、犠牲にして当然というのは、間違った考えではない。無限の方が有限よりも大きいと言っているのと同じだからだ。

限りあるものと、限りないものを比べるのがそもそもの間違いじゃないのかな? というのが世俗の側からの弱々しい反論だが、人の心情には無限の方がはるかに強力に訴えるらしく、イスラム過激派は自爆テロをやるし、共産主義国家は人民を弾圧しつつ核開発を続けたり、他国を併合しようとするし、原子力発電を止めたりする。

無限は宗教の他、数学という居心地の良さそうな場所があるので、そこに留めておくべきで、政治などの世俗にまみれさせてはいけない。世俗の事は、セコくみみっちく、限りある中で何とかやりくりする以外にない。

理想を口にするより、問題に対処する事が有益だし、それ以外にない。理想を口にする者は理想の危険性に鈍感なのだ。限られた現実の中で、飛びぬけて良い事などありえない。色々あるどうしようもない中で、少しだけでもマシならそれでありがたいとしなければならないのが、私たち人類の現在だと思う。