2019年8月8日木曜日

反日と西欧崇拝

明治以降、脱亜入欧で頑張った日本は、しかし、西欧崇拝に陥り、日本を下に見る風潮がはびこった。それがあまり酷いだろうという所から、自国の歴史・文化を大切にしようという考えが興った。これを国粋主義という。別に日本刀を持っていきり立ち、走り回るような奇矯なものではない。

西欧崇拝は留学組が中心だったから知識人のもので、庶民は関係なかった。
官僚には留学組も多かったから、西欧崇拝者も多かった。彼らのほとんどは国権派であり、国権派と西欧派は重なった。
国権派と対立したのは民権派で、土佐が民権派のひとつの中心をなしたように、明治維新にその根を持つ。国権派も民権派も明治維新の中でさしたる違いを持たなかったと言える。さらに言えば、薩長土肥も徳川幕府も「尊王攘夷」という点では一致しており、双方に大した違いはなかった。勤王対佐幕などというのは鞍馬天狗の話でしかない。

維新後の第二世代官僚は「革新官僚」と呼ばれる人々だが、彼らは明治維新の完成を標榜した。「大正維新」「昭和維新」といった言葉は、最初、革新官僚たちから出て来たという。国権派と民権派はその力の入れどころこそ違っても、維新の継承完成という点では志を同じくしていた。
国権派と民権派の力の入れどころの違いとしては、国権派=西欧崇拝、民権派=国粋主義と、一応、分けて考えられる。
民権運動の自由党が全国の土建業者を糾合して作った団体が、大日本国粋会だったのも当然の話だった。
また、三多摩の民権派壮士団が独自の国粋会を名乗るのも自然だったのだろう。
大日本国粋会は下からの第二維新の動きだったと見る事も可能だろう。
国粋会に参加したものの、肌合いが合わず、別途「大和民労会」といった団体を結成する者もあった。
ここではそうした別団体もふくめて、この動向を広義の国粋会運動とする。
これを下からの第二維新と見るのは、「尊王攘夷」の内容のひとつに部落差別の解消があったからだ。

初期の民権運動は士族の運動だった。民権運動には、参加しようとする下層民を認めない風があった。山県有朋の手先によるスパイ活動への警戒も大きな理由だったが、民権運動が士族のものだった事も大きな原因だと思う。その結果、民権運動に対抗する動きとして困民党が各地で成立した。
秩父事件は秩父困民党の起こした決起だった。秩父困民党は博徒を党首とする集団だったが、秩父の農民らがその困民党を中心に決起した。秩父事件は、それまで民権派の起こした諸事件を凌駕する規模のものだった。

国粋会は、自由党にとって困民党の力を自らの物とする枠組みだったかもしれない。国粋会を招集したのが、自由党の床次竹次郎で、この元革新官僚は相当無知で鈍感な人物だった上に、人のふんどしで相撲を取るたぐいだった。
後に院外団として力を持つ国粋会だったが、あくまでも表の自由党にとって日陰の存在だった。
困民党、そして、国粋会には被差別部落民が参加していたと考えられる。(これは調べていない事なので、印象でしかない。後に京都で水平社と国粋会が銃撃戦まで展開して争ったのは、近親的な関係にあったからではないかと感じた次第だ)。

国権派=西欧派と民権派=国粋主義は、アジア浪人にも違いをもたらしていた。宮崎滔天、北一輝などは民権派だ。

散漫な素描だが、これが戦前の政治運動の空間だった。国権派=西欧派から出たマルクス主義、アナーキズムなどは、わが国では中心的な位置にはいなかった。だが、そのおかげで、戦後の占領政策の中で位置を与えられ、米ソによって舞台の中心に上げられる事となった。日共も親米親ソで、米軍の進駐を歓迎した。
しかし、米ソが対立した事で、共産党は親米を翻し、親ソ側となった。

反日は最初、親米、親ソだったが、米ソの対立でソ連を取ったわけだ。これは日共がソ連の作ったコミンテルンの日本支部だったから当然だった。

近代日本にとって本質的な主題だったはずの「尊王攘夷」は、戦後、反日か否かというつまらない対立に押しのけられてしまった。
同時に、明治維新の継承完成を目指す国粋主義も、立ち往生の状態にある。
「尊王攘夷」も維新も未完のままだ。この先も暗い。残念な話だ。

現在の反日は西欧崇拝の流れから来ている。西欧のいい所を見るのはいいが、そこで日本を貶める事はない。国粋主義だからと言って、西欧のいい所を認めないわけではないのだ。

反日の人々は、ソ連崩壊後の今なら、日本を中国のものにする手助けをしているだけだ。それを、何か考えがあってやっているのではなく、何となくそれがいい事だろうと思っているだけなのだ。本気度は薄いのに、とてつもなく悪どい事をしでかす。こういう連中はまともに相手に出来ない。

尊王攘夷の方がマルクス主義なんかより、はるかに上等なんだけどな・・・