2017年6月24日土曜日

国粋主義試論 日本国粋主義の近代 1

 国粋主義は自由民権運動から出た考え方です。自由民権運動の起源は普通土佐に求められます。狭義の民権の起源としては土佐でいいでしょうが、ここでは維新を国粋主義の起源として見て行きます。
 その理由は、明治維新にあります。
 幕末時代、徳川幕府も倒幕派もともに思想的には尊皇攘夷でした。京都の治安維持の一翼を担った新選組の「誠」も尊皇攘夷から来ています。
 維新後、明治時代になって天皇を国家主権者とする事で尊王は果たしました。しかし、攘夷はどうするのか。日本近代の問題はそこから発して来ます。
 攘夷論は国学によって支持されていました。明治時代までは国学は平田篤胤派が主流でしたが、平田学派はしきりに攘夷論を唱えたのです。
 しかし、国家権力を掌握した薩長明治政権は開国開化に向かいます。
 明治政権は日本の欧化を急ぎ、人材を留学させ、欧米の文化を積極的に取り入れます。欧化は軍隊の強化に直結したからです。強国のためには富国が必要です。商売には交通交流が欠かせません。語学、それも欧米列強の言葉が重要な位置を占めました。かつての支那語と同じく、これは否応の余地のないものでした。
 欧米列強がアジア、アフリカ、アメリカ大陸を植民地化し、支配している時代でした。軍事力を持っていなければ蹂躙されてしまいます。ロシアも虎視眈々と日本を狙い、勝手に上陸し、英国に追い出してもらわねばならないなどといった事も起きてる時代でした。
 武器兵器の取り扱い方法を知り、戦略戦術を始め、様々な技術を取り入れるのにも語学は不可欠でした。また、列強に肩を並べる文明国の体裁を整えるためには、文学芸術も立派に国家目標の役に立つものでした。
 ただし、その欧化には副作用がともないました。急激な欧化は何から何まで欧米が優れているという認識を生み出し、そこから日本を見下す風潮が生まれました。人は違いと優劣を混同しがちですから、何でもかんでも西欧がいいんだとして、自分が留学した事を威張りたがる輩が目に余ったのでしょう。
 そうした動向を象徴するのが鹿鳴館でしょう。行き過ぎた西欧かぶれと見なされ、反発する風潮が生まれます。
 政治的に、薩長に権力が集中した事に反発する土佐派など、薩摩の西郷派、西郷シンパの生き残り、様々な人々が薩長明治政権に異を唱えていました。土佐に始まった民権運動に、こうした諸潮流が合流して行きます。
 土佐派は、西郷決起の時、合流を目論見ながらも利害にこだわった挙句、期を逸してしまいましたが、おかげで生き残っていたのでした。
 こうして攘夷派の民権派が明治の大きな潮流となりました。この民権派に対して、国家権力中枢を掌握した薩長を中心とする藩閥を国権派と言います。
 近代日本の政治の基底に横たわるのは、この国権派と民権派の対立軸でした。
 国権派の欧化政策のありようが、日本人のくせに日本を見下す西洋かぶれを生み出しました。この鼻持ちならない西洋かぶれに対する異議として唱えられたのが国粋主義でした。
 国粋主義の内容は、日本にも当然いい所は沢山あるのだし、日本が卑下する事はないという考えでした。
 国粋主義は排外主義ではありません。馬鹿げた西洋かぶれは排しますが、自ら誇りを持つが故に西洋も尊重すべきところは尊重し、植民地における横暴といった点はこれを排するという、とても常識的なものです。
 西欧かぶれの元凶が国権派の欧化政策であった事から、民権派は国粋主義でした。
 民権派は自由党を作っていましたが、その自由党の呼びかけで結成された院外団が大日本国粋会でした。
 第一回、第二回の選挙で、警察や国権派右翼が阻止線で包囲する投票所に抜刀で突入し、投票の血路を開いたのは民権派壮士ですが、この人々が自由党や大日本国粋会に参加して行きます。日本の民主主義の選挙は、後に国粋会に集まる民権派壮士の白刃によって切り開かれたのでした。