2017年6月24日土曜日

社会的まだらボケ現象としての文書

 役所の人間は、政治家の名前を勝手に使って、他の政治家に
「○○先生がこうおっしゃってましたんで、お願いします」
 なんてやる。すると、言われた先生は、
「何、○○先生が、そうか、じゃあしかたないな。了承する」
 となって、誰も支持していなかった法案が支持されるようになったりする。もちろん、その役所が出した法案だ。
 これは自民党だけの話ではない。民主党時代もそうだったし、別に政権とは関係なく行われて来た事だ。
 官僚は政治家が馬鹿ばかりなので、いちいち説明するのが面倒になり、こういうやり方を編み出したのだろう。
 福田康夫が、首相時代にこれを注意した事があったと、どこかで読んだ。

 自民党の議員も馬鹿が多いようだが、社民党が社会党だった頃の村山富市(元首相)は心底馬鹿だったので、法案を作った役人に反対意見を作らせようとした事があったという。
法案を作ったのだから、ダメな所もよくわかるだろうという理屈だったらしい。自分で法案を読み、研究し、国民のためにならないと判断するという知性はなく、手間をかける根気もなく、ないないづくしだったから、自民党がこいつが手頃だと見て、与党に返り咲くべく首相にしたんだね。

 このやり方が、対政治家だけでなく、役所内でもやられていたのだとわかったのが加計学園問題だった。

 政治家個人ではなく、役所という組織には文書で伝達したというだけだ。文書といっても話を早くするための潤滑剤みたいなもので、言葉に例えれば、省内だけで通用する業界用語だ。つまり、正式のものではない。
 だから、これを表に出したら、その瞬間に怪文書になる。


 これをルールの話として考えると、役所が政府案として作成した法案を政治家に説明する手間を省いてしまう手法が常態化し、一種のローカルルールとなっていた。
 役所に限らず、会社などでも、組織は、組織のローカルルールに適応する事を求めるものだが、どうしてもローカルルール至上になりがちで、ジェネラルルールが無視されてしまう。
 左翼やカルトなどはこの傾向が強く。ローカルルールはジェネラルルールだと思いこんでいる。こうなるとソシオパスとされる症状だ。
 ソシオパスは良心を備え、共感、罪の意識、忠誠心を持つ能力を持っているが、善悪の判断が、帰属グループや帰属グループのサブカルチャーの規範、期待に基づいている人格。
ローカルルールはおそらく、適応してしまうと居心地がいいのだろう。妙であっても、それを妙だと感じる自意識がなければ部分最適の快感があるかもしれない。
 村一番が、日本一よりも良く、日本一が世界一よりも良いとか好きだと感じる人はいるだろうし、食べ物の好みなどを見れば、世界一のシェフの料理よりも母親の料理を美味しいと思う人がいても不思議ではない。また、これをソシオパスの傾向とは言わない。
(当面、これを程度問題という風に処理するとしよう。ここでの本題ではないので、それで十分だ)。

 ローカルルールがジェネラルルールと取り違えられてしまうと、これは病的な領域に入ってしまう。
 つまり、ローカルルール内のメモが、ジェネラルなものとして、ジェネラルな空間に出てしまうと、事態は病的なものとなってしまう。

 ここで病的なのは、ローカルルールとジェネラルルールの区別がついていない者という事になる。
 文部省もまだらボケしてるし、他も何だか・・・


 そんな事もわからなくなってしまったんだね。