2017年6月11日日曜日

ああ、上野駅

 昔々、通勤途中、上野駅でトイレに入った。大勢並んでいた。あまり考えずにいい加減に後ろに並んだ。
 失敗だった。先頭にいるのは、何と爺ィだった。

 出すべきものを出しもしないで立っている。爺ィは出るのに時間がかかるのだ。
 爺ィ、出る前にお迎えが来ちゃうんじゃないかとか考えながら、切羽詰まった我が身を抑える苦悩に身悶えした。こっちもお迎えが来そうだった。
 爺ィにも、こっちにもお迎えは来ず、何とか事なきを得た。
 二度とトイレで爺ィの後ろに並ぶものかと深く反省した。

 時は流れ、自分がなかなか出ない年齢になってみると、出ない事に驚きを感じる。本当に、なかなか出て来ない。この段階が終わると、頻が来るのだろうか・・・

 上野駅の地下、銀座線との通路に食堂があった。のれんに女優の名前が入っていた。そこに、夜に入った事がある。けっこう人がいっぱいで、隅の席で蓄音機を回し、鶴田浩二の歌に聞き入っている男がいた。

 終戦直後、上野には靴磨きの少年たちがいた。地下通路で寝泊まりしていた孤児や浮浪児が食べていくために靴磨きをやっていた。その子供たちの面倒を見て、靴磨きをさせていたのが、ラバウルを守備した今村均大将の部下だった人で、子供に自力で得た金で自分たちの施設を作らせた。

 上野駅地下の大衆食堂の隅で蓄音機で鶴田浩二を聞く男・・・昭和の終わり頃、そこに戦後が残っていた。いい店だなと感じながら、久しぶりにあそこで飯でも食おうと思って行ったら、エスカレータになっていた。悲しかった。

 軍隊と言えば、戦後、大陸からの日本人引き揚げを支援したのは、2・26の生き残りの皇道派の人たちだった。統制派はどうせ何もしないと読んで、皇道派のつながりが動いた。末松太平などはその中心人物の一人だった。
 愚劣なインテリどもは、進駐軍にコビを売り、紙をもらいながら「真相」を出したりしていたが、そういう卑劣な者たちがいる一方で、敗戦の中でも日本人の矜持を持ち続ける人たちがいた。

 平成になってから、上野駅で降りたら、婆さんの売春婦が声をかけて来た。金はいらない、寝る場所が欲しいだけだという交渉だった。前に、上野駅で「仕事あるよ。山に行かないか」と声をかけられた時と同じような気持ちになった。
 黙って通りすぎた。冬の、寒い夜だった。