2021年7月2日金曜日

「安心」なんて社会に持ち出すな

「安全」と「安心」をくっつけて使っている人がいる。元は百合子さんかもしれない。あの人らしくデタラメだ。

「安全」というのは、「これこれこういう定義域において、こういう所がこれだけの確率で危険性を免れているとみなされます」という事だ。もちろん根拠がある。

だが、こういう風に説明したら、理解できない人、理解しない人、誤解する人、曲解しようとする人たちが発生するだろう。だから「安全」と一言で言う。

それでも、「安全」というのは、あくまでも有限が前提で、有限なものだというのは変わらない。それ以上は出来ないんですよ。

そういう「安全」は不安だと感じる人がいるかもしれない。それは理解できないでもない。でも、どうにかしてあげる事は出来ない。それは不誠実だからではない。不可能だからだ。

「安全」をものすごくひっつめて言うと、ルールの問題になる。そして、「安心」は感情の問題になる。だから、人は「安全」ではなくても「安心」している事もあるし、「安全」なのに「安心」できない時もある。まったく別次元の事なので、どのような並べ方も可能なのだ。

「安全」なだけでは「安心」を提供できない。不安など、誰でもいくらでも拡大して感じ続ける事が出来るから、感情の前では「安全」という理性は無力なのだ。

だから、「安心」を盾にとって「不安」を煽り、「安全」=理性を退ける者は極めて悪質と断言していい。原発を止めてしまった民主党(あいつらの中でも菅直人という最低の野郎が、また、首相だった)や、今、中共コロナのワクチンが危険だなどと無根拠なデマを撒き散らしている連中は本当にタチが悪い。


「安心」は無限を要求するのと一緒だ。政治に無限を持ち込んではいけないというのは鉄則だ。いや、この宇宙は有限なのだから無限はありえない。万が一、宇宙が無限であったとしても、人類は当分無限を手に入れる事は出来ないだろう。今、無限を要求するのは、迷惑以外のなにものでもない。


という事で、中共ウイルス(コロナ)のワクチンは「安全」だ。さっさと打って、オリンピックを楽しもう。