2021年7月26日月曜日

「良いこと」が全部「良い」なんてありえないんだから、今すぐとか言うなよ

共産主義も含めたファシズム=全体主義がどうして出て来て、現在でも時々顔を出す理由は「良いこと」にあると考えられる。

ユダヤ人の迫害、虐殺は、欧州において「良いこと」だった。神の子たるキリストに背き、裏切ったユダヤを殲滅するのは、悪事であるどころか、神の御心だというような、倒錯した心情が、ヒトラーの国家社会主義ドイツ労働者党を支持した当時のドイツ国民にあった。

第一次大戦の敗北の原因が後方でのユダヤ人の裏切りにあるとか、世界征服を陰謀する「シオンの議定書」とかの与太話を本気にしたというより、キリスト教の「良いこと」がヒトラーやムッソリーニを後押しした。

いい事をしようとして、いつの間にかそれが悪事に転じてしまう。良かれと願ってやったのに悪い結果をもたらす。ロミオとジュリエットのように大げさじゃなくてもそんなのは人生でよく体験する事だ。個人の事なら、苦い思いや喪失ですむが、国家規模の話だととんでもない事態になってしまう。これは国家というものの恐ろしさだし、権力の怖さだ。

つまり、事は「悪」指定して教室で、

「ファシズムはいけません」

と唱和して終わるような問題ではない。
もちろん、これに手を加えて、

「ファシズム、全体主義、共産主義はいけません」

としても、少し良くなるだけで本質的には同じだ。

また、この場合、違法であるかどうかは問題にならない。みんなが「良いこと」だと思い、議員もその気になり立法してしまえば合法だからだ。

また、国家権力が超法規的に君臨している現在の中国の例もある。中国には法の支配はないため、ウイグル人の人種隔離、奴隷化、民族浄化を行っている中国共産党が法に裁かれる事はない。彼らは彼らなりの「良いこと」のために虐殺を行い、嘘をつき、事実を隠蔽している。それが出来るのは「良いこと」をやっているからで、彼らは良心の呵責などほとんど感じないはずだ。

「良いこと」なのだから、誰もが賛同して当然だ。「良いこと」なのだから、一刻も早く社会に浸透させるすべきだ。「良いこと」なのだから、政治的強制力をもってしても推進していい__ こんな流れで「良いこと」は強制になり、国家権力によって強制されるものとなってしまう。全体主義一丁上がりだ。

全体主義は悪なのだからと、悪ばかりを警戒していても、ほぼ無意味という事だ。

共産主義=社会主義国家は、現状を見れば、もれなく失敗国家で、悲惨な専制国家でしかない。つまり、社会主義=共産主義を信奉する者は非論理的なばかりでなく、人々を不幸で悲惨な境遇に陥れようとしている人非人、非倫理的穀潰しと定義していい。それなのに、マルクス主義の「良いこと」感は強烈なのだろう。まだ何とかなるという妄想におぼれている知識人だか何だかが沢山いる。

環境派もそういう全体主義を内包している「良いこと」の要素を持っていて、時々牙をむき出しにしてはいるが、まだまだ「良いこと」の立場を手放していない。

エコロジーは、スターリン主義の派生がかなり浸透してるから、まあ、その生命力だけは凄い。マルクス主義信奉者の多くが、おそらく死ぬまで解除されない「良いこと」感を環境運動も持っているのだろう。そこは「良いこと」教信仰だからね、どうしようもない。

そういう「良いこと」をどうすればいいかというと、その「良いこと」が「悪い事」になってしまう度合いといったものを知るために時間をかける事だと思う。「良いこと」も何割かは必ず「悪いこと」につながってしまうと考えて対処するわけだ。

ある「良いこと」を社会システム、政治システムに組み込む前に時間をおき、様子を見てから考え、判断するのは、性急な人にとって以外は有益で失敗を減らす現実的な方法だ。

小泉進次郎が推進しようとしているソーラー・ファシズムを防止するのにも、この判断する前に様子を見よう方式は有効だ。小泉がいくら馬鹿な異常者であっても、この方式が彼の無謀な国土破壊を阻止してくれる。