2021年7月21日水曜日

「良くないこと」に転落する「良いこと」の傾向

かつて、ナチスはアウシュビッツに象徴される強制収容所でユダヤ人の大虐殺を行った。ドイツ人はそれを悪行として行ったのではなく、「良いこと」だと思ってやっていた。当時の価値観では、ユダヤ人の民族浄化は倫理的善行だった。恐ろしい事だ。
歴史的にはそのちょっと前の宗教戦争で、カトリックと、カトリックを批判し、分離したプロテスタント諸派は血で血を洗う戦争を行ったほどだ。
神=造物主の意志の前には、被造物である人間の生命など無価値であるため、神の代理人である教会は十字軍を招集したり、異端=プロテスタントを殲滅せんとしたり、いくら血を流しても問題とならなかった。
こうした事情はキリスト教と同じくユダヤ教から別れたイスラムでも同様で、今でも聖戦によっていくら殺人を犯そうと、讃えらる。聖戦の内実がクソくだらなく卑劣極まりないテロであっても、テロ組織はそれを「聖戦」と言いくるめる。今のテロ組織はテロのねずみ講で、詐欺でしかないが、参加者がそれをイスラムの純粋型と信じる事によって成立している。この根本原因は、智者であるはずの指導者たちの知的退廃だ。こいつらは、コロナ・ワクチンの嘘情報を撒き散らしている悪質な馬鹿文化人を百倍悪質にした者たちだ。
イスラム原理主義のテロリストなど、愚劣な盛り場にわく半グレとやらと変わりはない。
だが、彼らは「良いこと」だと思いこんで、日々、テロに打ち込んでいる。
ちょっと前なら、中核とか革マルとかの人殺しどもが、「良いこと」だと思いこんで殺し合っていた。みんなに嫌われながら、暴力で大学などにはびこっていた。あいつらのやっていた事は、敵対していたはずの日共=民青と同じだった。くだらなかったわけだ。

その時々の「良いこと」、その場ごとの「良いこと」は、実は恣意的なものでしかない前提が変わるだけで「悪」に転化してしまう。
マルクス主義が「良いこと」だった時代もあったし、今、ウイグルで民族浄化に従事している中国人は、それが「良いこと」だと思っているかもしれない。おそらくそうだろう。

今ある「良いこと」には環境派もある。地球温暖化が良いのか悪いのか、どちらでもないのかの意見は別れている。この段階で何か決定的な事はすべきではないと思うのだが、時間がないという事で物事が進んで行く。失敗プロジェクトと「時間がない」の関係は密接なのだが、誰も考慮しない。

温暖化対策として出てきたのが太陽光発電だ。だが、多くの指摘があるように、太陽光発電で必要な電力はまかなえない。
すでに太陽光発電の中国製ソーラーパネルは、かなり国土を蝕んでいるが、本当に必要な電力にはまだまだ足りない。いや、太陽光発電で必要な電力がまかなえる事はありえない。
原子力を止め、太陽光発電を維持するために、火力発電を稼働させている。何が温暖化対策だ。ちっとも良くねえじゃねえかとあきれる。

「良いこと」は「良い」のだからと、乱暴に推進してはならない。「良いこと」は牙を剥く。「良いこと」の変化は政治で立法化し、急速に作り出す事は出来ない。それはファシズムの手法であり、物事を台なしにしてしまう。

とりあえず、環境派、人権派、多様性派が、無根拠で表面的で事実を無視し、詐欺的な言説を弄し、害悪を生み出している事は言っておこう。