2021年7月24日土曜日

ええい、ケタクソ悪い。笑ってやらぁ

昔は門前市をなすというやつで、大きな寺や神社の参道は今で言う盛り場となっていた。寺や神社と言ったが、区別がやかましくなったのは明治になってからで、江戸時代などはあまりこだわらなかった。今でも寺の中に小さな社(やしろ)があったりするのはその名残で、神仏習合と言って、これこれの神はこれこれの仏の化身などと説明し、一体のものとして受け取っていた。神社が廃れると、寺が救いの手を差し出し、坊主が神社を守るなんてのも珍しくなかった。

盛り場と言えば女がつきもので、大きな寺社の近くに遊郭があるなんて所もあった。現代の価値観で、寺社の前で売春はおかしいじゃないかと、憤ったり、疑問を持ったりする人がいる。だが、それは明治になってから入って来た耶蘇の倫理だ。昔は売春が違法な悪い事ではなかった。昔の事は、そういうものだったと見ておいた方がいい。

また、信仰と性という見方で見る事もできる。諏訪神社から各地を回り、口寄せ、祈祷を通じた布教を行っていた歩き巫女が、同時に売春もやっていたのに見るように、信仰と性はそれほど領域を異とするものではなかった。

いや、南北朝まで遡れば、関東の立川で陰陽師と真言宗の習合から生まれた真言立川流が一斉を風靡した後、淫祠邪教とされ、転落、消滅したのに見るように、極めて近い関係にあった。ちなみに、乱交儀式をやって力を得ようとするのは、真言立川流に限った事ではなかったようだ。どっちか片方、片側だけを見て性急な判断をしてはいけないんだね。

ただし、遊郭は、江戸時代でも許可が必要な事業だった。吉原は許可されていたが、無許可の女郎は取り締まりの対象だった。でも、まあ、実際は、ほぼ目こぼしされていたと思われる。

吉原は元々は人形町にあった。江戸の初期、日本橋あたりは刑場もあったし、それほどいい場所ではなかった。吉原が開かれる前、北条家の残党・風魔小太郎が盗賊となり、一帯を荒らし回っていた。その手下が小太郎を裏切り、徳川に寝返った。おかげで風魔一味が掃討され、その功労として人形町に公認の売春街が許可されたというのは梅干し先生・樋口清之の受け売り。面白いいい先生だった。

神仏を中心に盛り場という俗世が繁栄する。そこには当然ヤクザ者もいたろうし、遊女もいた。聖と俗はこうして現世を作っていた。


この陰影を包括的に把握しないのは怠惰なのだけれど、おそらくそれを怠惰と感じる能力を持たないほど無能な者たちばかりなのだろう。その能力は文学的感覚を必要とするのだが、文学者を含めて、そうした感覚を持った資質は死に絶えてしまったかもしれない。そのうち、手がかりが消え尽くすから歴史も消えてしまう。無能な者たちは安心してお偉い先生でいられる事だろう。