2021年7月10日土曜日

嫌がる人がいるだろうから、言っておく事にした

 江戸時代は藩が国を統治していた。ただし、藩意識は希薄で仕える対象は「家」だった。「お家の大事」、「お家騒動」という言葉の通りだ。

この家は個人の家であると同時に、共同体に拡大されていた。ある共同体を支配する家は、自らの家族だけでなく、共同体に属する人々も擬似家族として支配し、同時に、守った。これは、ほぼ、世界各地で共同体はそのようにしてあったと考えられる。ただし、植民者がすべてを破壊したアメリカ大陸は例外となる。南米はカトリック、北米はプロテスタントによる先住民の虐殺、文明の破壊が行われた(北米はちょっと複雑で、最初はスペインが侵略の中心だったけど、フランスもいた。その後かな、英国が入り、それから独立という過程をたどる。けど、ここではこれ以上細かくしない)。まあ、革命そのものだね。恐ろしい。

一族郎党と言うが、ひとつの家を共同体の支配一族とし、その家の長を共同体の長として、共同体の維持、そして、強化を図るのはわかりやすいあり方だ。共同体だから、いくつもの家があるのだが、中で最も勢いの旺盛な家が上になり、他を束ねる形で安定を求めた。そういう共同体の長=棟梁の頭がよく、強ければ、共同体は周辺の共同体を併合し、強く、大きくなる。共同体が大きく、強くなれば、より安定し、頭領の面倒見も良くなるから下につく郎党も励み甲斐がある。天変地異にあっても生存確率が上がることになる。

この「家」が時代とともに大きくなり、支配する区域を広げたものが大名だったと、文化的には考えていいと思う。

その大名の頂点に立ったのが徳川家で、これがまあ300年続く。

大名から肩のこらない方にグーッと下がって、やくざの家、何とか一家というやつも同じで、家にみたてた共同体構造だ。ヤクザの生業としては、口入れ(人材派遣業)、土木、火消し等々があったようだ。何とか組という名称は、元の生業が建築土木などだったためだと考えられる。

時代劇ドラマに出てくる岡っ引きもヤクザだった。町の顔役で「親分」と言われる人たちが、お上から十手捕縄を預かり、犯罪捜査に従事していた。けっして岡っ引きだから「親分」だったのではなく、親分が十手を持っていた。こうした岡っ引きを「二足の草鞋」とも言うが、岡っ引きは誰もが二足の草鞋だったはずだ。

また、彼らを「御用聞き」などとも言うが、町内を回って、何くれとなく一人暮らしの年寄りの面倒を見るといった事も「御用聞き」に含まれていた。親分の間には格があり、出入りする寺社の格がそのまま親分の格となっていた。

親分が所轄する範囲が縄張りであり、隣接する所轄の親分がこれを侵害する事はありえなかった。吉原の女郎が逃亡し、三ノ輪に入って逃げおおせたという話が残っているが、これは縄張りを超えたため、もう吉原を仕切る親分の手には負えなくなったという事だろう。もちろん、こんな事でお上の手をわずらわすわけにはいかない。足抜けは成功した。

明治になって、全国の警察にヤクザの手を借りるなという通達がなされる。徳川時代の残滓を消そうという努力だったが、今でもそのつながりが残ってはいる。

江戸時代までは、家という私権の拡大した枠組みが統治機構として機能した。日本といっても、各地方の藩の単位をお家が統治し、その上に幕府として徳川家が君臨する方式だった。

明治維新は尊皇攘夷の徳川家と、尊皇攘夷の薩長土肥の戦いだった。それで尊皇攘夷の薩長土肥が勝利した(幕末に誰もが尊皇攘夷だった事が、それなのに血で血を洗う抗争を繰り広げた事が後の理解を難しくした)。そこで廃藩置県が行われた。これは国ごとに夫々の大名家が統治者として存在するのをやめさせ、天皇家を頂点に日本をひとつの家の下の共同体にするという改革だった。国民は「天皇の赤子」として、共同体成員だった。

季節ごとの災害があり、地震も多く発生する日本では、共同体の成員が協力しあっていなければ生きて行けない。身勝手な者がいれば、全体の死活に関わってしまう。そういう事情がある国民性だから、個人主義などは合っていない。何が何でも個人主義が進んでいて、上で、良いと思う人は別の国に移住した方がいい、日本社会はそういう文化だ。本当は、そんな事に上も下も、良いも悪いも、進んでるも遅れてるもない。違いと良し悪しの区別がつかない外国かぶれにはわからないだろうけれども。

徳川幕府の家を戴く統治から、宮家を戴くようになり、家が全国規模に大きくなっただけだから、江戸時代から明治時代への転換は比較的なだらかに行った。ご一新と言っても、徳川という家から、天皇という家になっただけとも言えたからだ。

もちろん、武家身分はなくなり、たてまえだけでも平等性が高くなった。社会的にはまだまだでも、法的には平等が推進されたのも大きな違いだった。それでも、家という統治の前提はゆるぎなく継承された。

戦前の国権派と民権派の対立も、昭和戦前軍部の統制派と皇道派の争いも、家=尊皇攘夷を前提としたものだった。

家による統治は戦前、とてもうまく行ったが、アメリカがソ連と手を組む事にしたため、戦争に負けてしまった。第二次大戦は、欧州方面では第一次大戦の流れで必然という面があり、日本にとっては攘夷という大義があったから、まあしかたがない話だったから愚痴を言う事はないし、負けたのも、あそこまでやれば当然としか言いようがなく、攘夷=アジアの解放の目的もまあまあ達成したのだし、今風に言えば、受け入れて、前に進めばいいだけだった。

でも、日本軍に手を焼いたアメリカに民主主義を押し付けられ、家を捨てさせられそうになった。戦争に負けて国民的ショック状態だった時に、妙な罪悪感を植え付けられた(今風に言うとマインド・コントロール、それより前風に言うと洗脳)上での話だった。

まあ、それも何とかしのいだんだからいいとして、やっと先に行けるかもしれない。

民主主義の方は、図らずも明治維新の完成に与する形になった部分もあるから、これはこれで良いとしよう。政治的に、日本はこれほど平等な国家はないと言えるまでになっている。社会も、どんどん良くなっているし、粗製乱造の団塊の世代が死に絶えれば大きく前進するだろう。それは自然に任せておけばいい。

だが、敗戦により家ではなくなった国家をどうして行くのか、どうして行きたいのか、ほとんど手つかずのまま放置されているのはいけない。そこがちゃんとしないから、自民党は圧倒的支持を得ていた安倍政権ですら憲法改正が出来なかった。

明治維新では「徳川ではない。天皇だ」としたが、敗戦時に「天皇ではない」と言わなかったのはあたりまえの話だ。そこでもう答えは出ている。

政治は民主主義を旨とする。国家は天皇=家を共同性の要とする。

誤解を恐れずに言うならば、日本国民は天皇の赤子となる事でどれほど解放される事だろうか。