2018年1月19日金曜日

頑張っても無駄かも・・・

 差別はどこの国、地域にもあるが、そのように一般化しないで言うならば、旧社会主義圏には、古い型の差別が強く固定されていた。これは統治のために意図的に放置したのかもしれないし、社会主義では差別などないという事にしてしまったために無理やり無いフリを続けたため、かえって酷い形で野放しになっていたのかもしれない、もしかしたら、近隣への侵略的な意図があって、軍事行動への共感を醸成するために政治的に差別の固定を計っていたなんて事もありえる。
 もちろん、各国の共産党の考えはソビエト・ロシアの共産党が、このように考えろと指示した通りの統制された思考だったので、ソ連には差別などないという隠蔽に、世界中の共産党が協力した。こうした画一性、宣伝を事実の上に置く党派的思考、嘘と隠蔽は共産党の体質と言っていい。その意味で、新左翼も共産党と同じ体質だったから、彼らの存在にたいした意味はなかった。
 そういう次第で、共産主義には差別が組み込まれている。
 現在、支那や北朝鮮では強い差別意識が政治的に醸成されていると考えていい。
 日本で言うなら、デタラメな反原発のために福島や福島の人々の差別を作り出したのは、それに近い人々を含めて、共産主義のやり口そのものだった。

 さて、もっと一般的な差別、誤解を恐れずに言うならば「自然」な差別(やはり少し恐れて言葉を足そう。差別する事が自然というのではなくて、どこにでもあるようなものとして歴史的に一定に定着した差別)は、相対的なものであり、流動的なものでもある。
 これは差別が社会的なものだからそうなる。何となく差別が普及し、何となく続く。常識というか、空気というか、コードというか、サブカルチャーというか、そういうものとしてある差別だ。
 こういうものを扱うのは難しい。どうしてかというと、よくわからないからだ。
 いつ始まったのか、なぜなのか、なぜなくならないのか、あるいは、なぜなくなるのか、全部わからない。色々と説明はあるが、これといったものはない。
 酷いのになると、日本人は差別が好きな、差別的だからだという乱暴な話まであった。これは支那の事例を出せばすぐに粉々になってしまう阿呆な言説で、左翼らしい、まったく話にならないしろものだった。そんな事で差別がなくなるなら誰も苦労はしないよ。苦労を知らない人は物事を台無しにするもんだな。
 なぜわからないかというと、ひとつには、差別をなくす事に性急で、そのための議論として語られるばかりという事情もあった。その型の議論だと、結論が先に決まっているようなものだから、発展などする余地はなかった。
 差別をなくそうという党派性が、かえって議論の深化を阻害したわけだ。
 また、問題が問題なだけに、今、そこにいる人が傷ついてしまう可能性があり、とりあつかいに神経を使わなければならない。そういう事も含めて、面倒臭いし、近寄らないのが一番だという、当然の判断があって問題が放置されたという事もある。
 差別は社会的なものだが、社会運動によってなくせるものかどうかはわからない。多くの人が、差別は嫌だな、なくなるといいなと思っているが、すぐにはなくならない。それは差別が無意識のものでもあるからだろうと思える。
 無意識と言えば、「差別は悪い事だ」と思う人がいるとする。これはあたりまえの話だ。そして、「悪い事だから、自分はしない」と考えるとする。これも気持ちとしては理解できる。だが、「だから、自分はしていない」と思い込むようになると、待てよ、浅すぎるだろうと言うしかなくなる。
 教員なんかにも、こういう人はよくいるが、社会運動をやっている人にも、この手がいる。無意識という事がわかってない。あまりにも簡単に考えている。で、それはソ連の嘘と一緒の運命をたどる。その人が意識せずに差別していた場合、それをなくすのは大変な骨折りになる。まず、ないはずのものがあるという所から始めなければならないのだ。こういう人によって、ゴールは余計に遠くなってしまう。
 文化を歌舞音曲だなどととらえていたら大間違いだ。階層的に歌舞音曲となって表出もするが、文化というのは、その社会なり共同体の成員の無意識としてある共通の感覚のようなものと、とりあえず比喩的にしか指し示せないもののようだ。
 差別は、かなりいい加減なものだが、意図的になくす事が出来るかどうかはわからない。そういうものだと考えるしかなさそうだ。
 だから、ほかの社会問題と同じく、政治的に、つまり、力で解決しようとしても効果は見込めない。社会問題を解決すると触れ込むたぐいの政治家は絶対に認めないだろうが、政治の効果は極めて限定的だ(政治に過大な期待をするのは後進性の現れだから、そろそろやめるべきだというのは、こういう理由だ。しかも、過大な期待を温存する後進性は、同時に利権などが絡む場所でもある)。しかも、日本では、共産党系、社民党系、新旧民進党系の政治家や活動家が生産的な結果をもたす能力がない事ははっきししている。
つまり、リベラルと目される人々にはほぼ何もできない。
 だが、本質的にあまり関係ない、そうした動向とは別のところで、今ある差別は、いつか、いつの間にか、何となく、よくわからない形で消滅するのではないかと思う。ひどく時間がかかるという大きな欠点はあるにしても、問題はこの形でしか解決しないのではないかと思える。