2018年2月23日金曜日

書を捨てよ、二度と拾うな

 本屋に行かなくなった。行ってもつまらないからだ。棚に並んでいる本のほとんどは内容もなく、文章もひどいシロモノだ。これで金を取ろうなんて、出版社というのはどういう了見なんだろう?
 若者が本を読まないなんてあたりまえだ。手に取るに値しないものなど無視されて当然だ。質の低い商品を出しておいて、売れないのは消費者のせいだなどと言っていられると思うのは大きな間違いだ。
 もう少し言うと、若者ばかりではなく、今の年寄りたちも、ほとんどは本など読んでいなかった。購入し、置いておくだけで、読んだとみなされる知人の話を聞いてすましていた。その知人が同じ事をしていた場合、間違った知識が流布されていた。
 団塊の世代など、ほとんど読書などせず、漫画ばかり読んでいた。粗製乱造された人たちだからしかたがないとも言える。哀れなものだ。あそこで、日本の知性も伝統も品格も、ほぼ断絶した。三島由紀夫が「断弦」と言ったのは、あの人たちの時代だ。
 彼らが、本当はほとんど本など読んでもいないのに、読んでいたつもりになって、若い人たちをけなしたり、脅したりするのは哀れではない。実に見下げ果てた振る舞いだ。
 大体、「本を読め」などと曖昧な事を口にする者は、問いただすと、10年も前に読んだ一冊の一節を後生大事に引用できたらいい方という程度で、実際は何も読んでいない場合が多い。その10年前の一冊も速読の本だったらいい方という体たらくだ。

 世界的に、読書などする人は極めて少ない。必要がある人だけだ。
 いや、今、量だけで言うなら、ネットで日々読んでいる文章はもの凄いものになっているはずだ。そして、メールやライン、SNSでの発信で、かつてないほどの文章を書いているだろう。内容も、表現も、おやおやと思うものも多いが、それだって新聞よりはマシだ。
 情報の発信や発言で、これまで特権的な位置にいた人の中には、この大衆化を嫌う人もいるようだが、それはその人が相手にされていない事のエビデンスでしかない。

 高木貞治の「解析概論」は名著だが、興味もない人は存在すら知らなくて当然だ。最近読んだ「データ・スマート」は面白かったが、これも読まない人の方が多いだろう。ロレッタ・ナポレオニの本は手当たり次第に読んでいて、今は新刊の「North Korea」にかかっているが、やはり知っている人しか読まないだろう。
 大学の先生などは、使いもしないのに、値段ばかり高い自著を学生に押しつけて、印税でセコい稼ぎをして来たが、そういうみかじめ料、もう田舎やくざでもやってないぜ。

 読書が趣味だから、邪魔だなと思いながら、いつまでも買っては読んでいるが、あまりお勧めはできない。本当に場所ふさぎだからだ。
 ここ数年、多くの本を読んできたに違いない知識人が、色んな所で馬鹿さらす姿を見るにつけ、知性と読書も関係がないと感じるようにもなった。間違って読書が趣味になってしまった人は、読み続ければいいが、それだけの事だ。