2018年2月13日火曜日

『「反原発」異論』の吉本・長崎対談

 吉本隆明と長崎浩の対談は、長崎の

 巨大科学・技術がとめどなく「人間」を侵略していく現実に対しても、道徳的意味で抑制(節度)を利かせようとするくらいで・・・抑制になっていないのが現状であるわけです。抑制の方法論的追求が現在の課題のように思います。(長崎浩)

 という言葉で締めくくられる。これは長崎にとって切実な問題意識だろう。
 長崎は、吉本の「心的現象論」を

 人間身体に対するサイバネティックス。あるいは、いま認知心理学が「心」を機能主義的文法に置き換えることに熱中しています。広い意味で人間機械論の復興です。それにまた私の拡大解釈では、廣松歩さんのマルクス主義(社会理論)でも、自然主義=人間主義的な自然と人間の関係が「場の理論」に置き換えられるわけですね。
 そうしますと、吉本さんがなさっておられる心的領域のお仕事は、こういった機能主義的思考の出現の必然性を予感なさったうえで組み立てられているように思われ、そういう気持ちで読んできたのですが。(長崎浩)
と評価するが、これは、この問題意識から出ているのだろう。
 吉本はこの長崎の言葉を「過大評価」としつつ、

僕が〈心的現象〉に取り組むときに、漠然と想定していたのは、ソリッドな物質観があやふやになっていて、それと同時に人間とか主体という概念が危うくなっている。そういうときどうしたらそれを掴まえることができるかといったら、ある了解性の次元を排除して、ある次元を採用するという意味の選択を、いずれにしろ拒否するということが先ず最初にありました。それ以上には、現在についても将来の事象についても先取り的な意味を持っていたわけではないのです。(吉本隆明)
と答えている。また、この後で、

ぼく自身はマルクス主義はいかなる形をとっても生きられないだろう、しかしマルクスは生きられるという考え方をとってきました。それではマルクスの何が生きられるのか、といったとき、マルクスが哲学として生きられるのは自然哲学と自己疎外論である、それではどうしたらいいのかという問題意識で心的現象論を展開しました。そこで、どうしたら可能性をみつけることができるのか、どこで活体化できるのかを考えるとき、とにかく削らないことだと思ったのです。(吉本隆明)

  読んでいて、「心的現象論」のモチーフを再認識したり、「重層的な非決定」というのはそういう事かと納得したり、何度も立ち止まる。
 さすがに二人とも、いいことを沢山言っている。

人間が分子生物化学過程として、いくら解明されても、人間の総体には到達しない。マルクスの思想の場合でも、認識論的選択をした場合、同じことに陥ってしまうのではないかという気がするのです。(吉本隆明)

十九世紀の古典物理学が完成し、そこから方法論が抽出され、適用世界が必然的に人間的事象にまで拡大されていった。その結果、古い意味での人間主義や自然主義が否定されていき、物理学的な計算可能な概念への人間の再定義化がされるようになります。概念的整理がひとたびなされると、そのレベルで無限に方法を進めることができるわけですから、「人間」と「自然」に対する知的破壊作業が進んでいきます。そうみてくると機能主義は必然性をもった思考方法であるとは考えられます。しかし、同時に、再定義され消去された人間、自然の根拠に残るものに絶えず復讐される可能性をもった思考形態であるといえるように思います。(長崎浩)

 おそらく、反原発を主張している人たちには、この対談が「反原発」への異論として出されているという事が理解できないと思う。理解できるなら、反原発などに賛成したり、同調したり、運動に参加したりしないはずだからだ。
 そして、ここで話し合われている事の本質がわかる人の中で、しかるべき立場にいる人たちは、原発の制御、事故防止に向けての具体的な方策、つまり、技術的な裏付けのあるやり方に取り組んでいるだろう。
 恐怖に道徳を抱き合わせ、政治を盛って原発の再稼働を止める事が、巨大科学・技術に侵略された人間の衰弱した敗北主義だという事は言っておこう。
 彼らに理解はできないとは思うが。


: 敬称は、心が引き裂かれる思いで、あえて略した。