2018年3月20日火曜日

私たちはリスクと共に生きるしかない

 リスク論から見ると、福島原発事故以後の脱原発派の考え方とリーマン・ショックはよく似ている。
 まず、福島原発事故以前から見ると、原子力行政のあり方として、リスクに対する説明責任を果たしているとは言い難いようだが、しかし、リスクについて説明しようとすると、リスクという言葉だけで噛み付いてくる活動家が説明会に入り込む状態があり、冷静で客観的な説明が行える環境がなかったという事がひとつありそうだ。そういう前提があって、事故が起きた時、それ見た事かとばかりに反原発=脱原発の異常な感情論が吹き荒れる事態となった。
 そうして、日本中の原発が停止する事態となったわけだが、これで原発のリスクは極小化された(このままで行けば廃炉のリスクがあるわけだから、リスクがなくなったわけではない)。
 脱原発派は、原発を止めてさえいればリスクがないものと思い、原発再稼働にだけ警戒している。
 だが、原発を止めはしたが、発電は続けなければならないので、化石燃料による火力発電のリスクは高まった。また、太陽光発電などの、持続可能性に疑問のある発電のリスクもある。そして、もうひとつ、電力不足が起きるリスクも高まっている。

 リーマン・ショックの原因をクレジット・デフォルト・スワップだとする意見がある。クレジット・デフォルト・スワップというのは、単純化して言えば、デフォルト(債務不履行)のリスクをスワップ(多数で持ち合う)する事でリスクを細分化する金融取引だが、これによって、リスクがないものであるかのような誤解が生まれてしまった。
 リスクを排除しようとした結果、リスクは見えない所に追いやられはしたが、なくなりはしなかったわけだ。それでも、リスクが見えなくなったので投機は膨らんで行った。
 可能性の低いリスクをテールリスクと言うが、市場が膨張しきった時、このリスクが、つまり、低い可能性が現実になった。今では、これをブラック・スワン・イベントと言うが、それが起きた。
 童話だったら、身の程知らずにもリスク・フリーを望んだ結果、想像もつかなかったリスクに復讐されてしまいましたという教訓で終わる。
 めでたし、めでたし・・・とはならないこの教訓から、私たちは、リスクが消えてしまうものではないという認識を引き出す事が出来る。リスク・フリーなど幻だ。夢想するだけ有害だ。
 つまり、私たちはリスクと共に生きるしかない。
 どういうリターンにはどういうリスクがトレードオフになっているか冷静に考え、意思決定しなければならない。ここでは感情を無視しなければならない。
 電力に戻ると、福島第1原発の事故で死者は出ていない。脱原発派の人々が望んでやまない子供への影響も出ていない。一時はそこらでやたらと売られていた線量計が姿を消したのは、もう線量計を持って計って回る人がいないという事だろう。ツチノコと一緒で、殺人的な放射線など観察される場所はなかったのだ。
 今、日本は世界一の石炭輸入国だが、火力発電のリスク。自然の景観を破壊して建設され、メンテナンス、将来の撤去など考慮されていないという意味で持続可能性に問題のあるソーラー発電システムのリスク。そして、需要量が供給量を上回るリスクなどを考え、原子力発電とじっくり比べて見る必要がある。
 相対的な安全はあるが、絶対的な安心などどこにもない。その前提に立って考える事が出来なければ考えた事になどならない。
 無責任な脱原発派は、もう退場しか残されていない。