2018年3月7日水曜日

間違いは正された方がいい

 日曜日、友達と話していて、昔々のベトナム反戦運動はひどいものだったねという話題になった。旧ソ連の情報工作があれほどうまく行った事はなかった。日本で共産党とつながっていたベ平連などが活躍していたが、アメリカ本国でも学生運動が注目を集めた。

 当時、ベトナムにベトコンを名乗る勢力がいる事になっていたが、実際に米軍と戦争していたのは、南に侵入した北ベトナム軍だった。ベトコンの実態は、北ベトナムが山岳少数民族などを武力で強制して作らせていた麻薬を米兵に売りつける販売ルートの与太者で、少数民族の女性を強姦して殺すなどといった行為ばかりしている者がほとんどだったという。
 北ベトナムの指導者だったホー・チ・ミンは、大東亜戦争中、工作員で、抗日運動をしていた事になっていたが、本当はアメリカの工作員だった。
 ベトナムは戦前はフランスの植民地だったが、日本軍の侵攻でベトナムから追い払われていた。戦後、その植民者たちはベトナムに戻ろうとしたが、ホーはフィリピンなみの属国という事で独立させてくれと、アメリカに交渉した。
 アメリカは、フランスの植民者たちの肩を持ち、ホーの願いを聞き入れなかった。フランス人たちが、戦時中の反独レジスタンスを担った勢力でもあったからで、戦前からのつきあいがあったためだった。
 そこで、ホーは、現地に残留した元日本兵と手を組み、軍事顧問にしてベトミン軍を作った。
 フランスはド・ゴールが帰国したが、ベトナムに派遣できる軍隊など存在しなかった。そこで、ベトナム植民者たちはドイツ軍を雇い、ベトナムに送り込んだ。
 ベトミンとフランス軍の戦いという事になっているが、北ベトナムが作られるまでのベトナム独立戦争は、ある意味で日独戦だった。
 この戦争で、ホー・チ・ミンは戦費を捻出するために山岳民族に麻薬を作らせていたが、フランス側は山岳民族に、ホーではなく、フランスに麻薬を売るよう働きかけた。山岳民族ホーを毛嫌いしたいたので、フランスの交渉に応じた。この麻薬は、フランスの情報機関の手でマルセイユに送られた上、アメリカに密輸された。これがフレンチ・コネクションだ。
 フランス人植民者たちの後、アメリカが乗り出した。旧日本兵は、北ベトナムの樹立後に、ほとんどが日本に帰還した。

 フランス人たちは、アルジェリアに行った。
 ド・ゴールは、ベトナム植民地の維持に興味を持たなかったようだが、それは、植民者が英米派であり、ド・ゴールは英米と不和だったためのようだ。ド・ゴールは英国に亡命していた時から、冷たくあしらわれていたのだ。
 植民者たちは戦時中、フランスのレジスタンスを担った勢力だったが、彼らは、戦前から英国が大陸に構築した対独諜報網の一部でもあり、必ずしもド・ゴールの亡命政府の指揮下にあったのではなかった。戦後、英米派の植民者とド・ゴールの間には対立が生まれた。
 ド・ゴールがアルジェリアを手放すと決めた背景にも、この英米派との対立があったかもしれない。英米派は何度かド・ゴール暗殺を試みている。
 ベトナムーーアルジェリア植民者たちは、ソ連がパレスチナ人テロリストやヨーロッパの極左組織を使って西欧社会を動揺させ、ヨーロッパ侵攻につなげようとした目論見を打ち砕く戦いを展開するが、それは後の話になる。

 ホー・チ・ミンの北ベトナムは対米戦争を行ったが、ソ連はこれを強力に後押しし、ソ連軍だけでなく、北朝鮮軍などもベトナムに派兵している。ベトナムで米ソの軍隊が直接交戦もしている。
 軍事だけで言えば、米軍が勝っていたといわれているが、ソ連は西側の自由主義諸国の弱い部分を突いた。自由だ。共産圏ではありえない報道の自由、政府批判の自由、表現の自由を使った工作を展開し、ベトナム反戦運動を盛り上げた。
 ベトナム戦争の前に、アメリカでは公民権運動があった。黒人の人種隔離を撤廃する運動だった。この公民権運動で力をつけたアメリカの左翼がベトナムの反戦運動を拡大させた。
 社会主義圏では、権力による社会の統制が厳しく行われていたから、根強い社会的差別、人権侵害、貧富の差、貧困、権力による様々な弾圧などの問題は、徹底的に隠ぺいされた。西側先進国とは比べものにならないほど共産圏は酷かったのが実際だったが、西側の左翼指導者たちは、そうした実情を知っていながら隠していた。この件は、後にフランスでミシェル・フーコーや新哲学派が追及するところとなった。 
 アメリカの反戦運動指導者たちは、米政府の手で秘密裏に警護されていた。政府機関員が反戦集団に潜入し、運動指導者たちの身辺を守っていた。キング牧師が殺された後の暴動の再発を恐れたのだろう。

 ベトナム戦争の後、周辺では一時、共産勢力が拡大し、その結果、中国の支援を受けたカンボジアでは、大虐殺が行われた。
 このキリング・フィールドと中国とベトナムの軍事衝突、ベトナムからのベトナム人難民の流出といった事が続き、アジアの共産化の流れが終わった。

 中国とベトナムが戦火を交えた中越戦争では、中国がベトナムを懲罰すると言って攻め込んだが、中国軍が正規軍でもない民兵に撃退されてしまった戦争だった。
 この時、中国軍は武器も持たせない歩兵を大規模に突撃させる、伝統的な戦術をとっていた。中国軍は、朝鮮戦争でもこれをやった。大東亜戦争当時、日本軍と戦った国民党軍も同じやり方をしていたというから、中国紅軍は国民党軍を見習ったのだろう。今の中国軍は、やっとこの古代的な戦術から脱却したようだ。

 ベトナム戦争後、南ベトナムに入った北ベトナム軍は、略奪を行い、南ベトナムを支配した。共産主義体制を逃れ、多くの南ベトナム人が難民となった。だが、海に出た難民の多くが海賊に襲撃され、殺された。
 日本にも、沢山のベトナム難民が来た。
 カンボジアの虐殺、中越戦争、ベトナム難民。ベトナム反戦運動を振り返って反省する機会は大きくこれだけあった。だが、ほとんど、何の反省もなく、あの馬鹿げた騒ぎが、何かいい事だったと思っている者たちは少なからずいる。

 ベトナム戦争時代に、西側での情報工作がうまくいったソ連は、イタリアの赤い旅団、ドイツのバーダー・マインホフ集団などを使ってテロを展開させた。その軍事訓練や武器供給を行ったのがPLOやPFLPのパレスチナのテロ組織だった。
 西側のテロ組織は誘拐や強盗で資金を稼ぎ、パレスチナから武器を買った。

 この左翼テロリストと戦ったのが、フランスではかつてのベトナムやアルジェリアの植民者の系統の勢力だった。英米は、戦後になってもこうした勢力を維持していた。

 ソ連は南米でも同じやり方をした。キューバを経由して南米左翼ゲリラに武器を売るなどの軍事サービスを提供した。南米の左翼ゲリラは資金調達のために誘拐ビジネスを行ったり、麻薬カルテルと連携したりした。麻薬カルテルが政府との戦闘を恐れないのはそのためだ。麻薬カルテルの警備を左翼ゲリラが行っているのだ。
 南米の麻薬はキューバに運ばれ、キューバから高速艇でアメリカに密輸される。「マイアミ・バイス」というテレビ・ドラマの背景にはこうした問題があった。また、映画「バッド・ボーイⅡ」では、主人公たちが、キューバに潜入して密輸犯と戦ったが、あの筋立ての土台はとても現実的だった。

 ベトナム反戦運動が盛んだった頃にマリファナやLSDといった薬物が流行したが、LSDの大きな供給元がCIAだったのは、今ではよく知られた話で、そこには別の問題があるが、まさにそうした薬物の幻覚に現を抜かした馬鹿どもが「ピース」などと戯言を口にしていた。
 しかし、麻薬と武器、そして、人身売買の流通は重なっている。平和を願う脳足りんの手元に薬物が届く道には、平和など程遠い悪が敷きつめられている。ベトナム反戦運動の「平和」は上っ面で軽薄なものであり、大きな戦争と暴力を、知能程度の低い情緒で取り繕った嘘でしかなかった。

 もう、耄碌してしまった団塊の人たちはしかたがないとして、嘘を真に受けてしまった若い人は、そろそろ目を覚まそうね。
 まだ寝言をほざいてる人には、
「ゴザ巻けや」
 とでも言ってあげましょう。

 ベトナム反戦運動の次に、ソ連が仕掛けた工作は、反核運動だった。今も日本で無根拠に原発を止めさせている反原発運動は、その流れを汲んでいる。
 ロシアも支那も原発をやめるなんて馬鹿な事してないのはもちろんだ。