2018年8月31日金曜日

リベラルとは、革新のフリをしたスパイの継続ではない


戦争とは他の手段をもってする政治の継続にほかならない。
いというのは、クラウゼヴィッツの有名な言葉だ。
 戦争(軍事)は政治の一部だという事だから、あたりまえの話だ。

 例えば領土問題で考えよう。ロシアが占拠している、日本の北方領土だが、返してくれと言って返してくれるはずはない。領土というのは、力づく、つまり、戦争をやって取るか、金で買うものだ。
 今は、制裁中だから買う事は出来ないが、制裁が終われば、いくらで買い戻せるかの交渉をする事は出来る。これが外交だ。
 で、どうしても値段が折り合わなければ、さて、戦争で取り返すか、現状維持を続け、価格交渉が出来る、つまり、相手が値段を下げる事に応じる環境が出来たら、再交渉に入るかの判断をするという事になる。これ以外はない。
 固有の領土を取られている国などたくさんある。それでも、それを良しとしないなら、金か力か、政治か戦争かの選択になる。
 北方領土について、私は機会があれば、金で買い戻すのが一番いい選択だと思う。だが、その機会は、日本がしっかりとした軍事力を持ち、それを効率良く運用できる法整備を整えていなければ永遠にやって来ない。戦争が出来ないとあなどられたら価格交渉などできないからだ。

 ここでは、こんなつまらない解決方法しか提出できないが、これよりいい解決方法が見つかればすぐにでも支持したいが、残念ながら、ロシアだけでなく、人類はその程度の水準にとどまっているように思える。
 そこで、戦争は依然として政治の一部のままだ。否応なく。政治は、その重い一分野として軍事・戦争を抱えている。政治家は、好むと好まざるとを問わず、軍事・戦争を学び、知り、認識していなくてはならない。
 平和を望むならば、よけいに軍事・戦争を深く知らねばならない。
 もし、軍事・戦争について無知であるなら、それは政治の重要な一部について無知であるという事であり、政治家として欠落があるという事であり、欠陥があるという事だ。
 政治家に限らず、責任ある立場に立った者は、好き嫌いに関わらず、決断しなければならない。嫌いな事、嫌な事であっても決断し、指示しなければならない。
 心の底から平和を望んでいても、戦争の決断をしなければならない事がありうる。無知でいいわけがない。

 それもわからないで、軍事に無知であれば平和主義だと勘違いしている者は立場にともなう責任を理解していない。
 つまり、リベラルのつもりでいる野党の政治家たちだが、政治の責任を理解していない政治家である彼らが、リベラリズムを理解しているとも思えない。これは些末な問題ではなく、根本的な問題だ。
 彼らには平和を維持し、強固なものとし、拡張する事などできない。
 欠陥政治家たちを議会から放逐するところから未来が始まる。