2020年9月4日金曜日

革命、今は亡き

革命というのは、ソビエト・ロシアの侵略・侵攻に呼応し、後方からロシアに声援を贈り、自国を非難・罵倒し、自国の利益を損ない、ロシアに利する行為を行う事だ。

ボルシェビキ派はロシア革命の簒奪後、コミンテルンを結成し、各国にコミンテルン支部として共産党(国によっては労働者党など、異なる名称もある)を組織した。

革命とは、ロシアに自国を売り、明け渡す事を意味した。だから、革命論はレーニンに依拠し、権威付けを行った。

日本共産党は、コミンテルン日本支部だから、上記の定義にぴったりあてはまるが、共産同、革共同なども日共の内紛から出来たものだから同じだ。

ロシアは、東アジアでは、中国、北朝鮮までで、日本は侵略してくれなかったから、日本の共産主義者は革命と無縁だった。そこで、頓馬な連中は、アラブや北朝鮮にでかけ、迷惑をかけた。

東欧はロシアが軍を進めたおかげで革命が成就し、以後、地獄の日々を送らねばならなかった。

革命を避けられた国々は経済が豊かになり、差別も徐々にではあるが解消に向かい、国民の権利も拡大した。

何をどう言い繕っても、優劣をつけるならば、共産主義革命を経た国は劣で、どれも軍事統制強権国家ばかりだ。

彼らは平和を知らず、何から何まで戦争に結びつけてしまう。

今でも、革命というと、何かいい事のように思っている人がいるが、彼らは単に、無知ゆえに間違っているだけだ。

革命というのは政治革命の事で、革命期には、政治がすべてに優先する。永続革命というのは、その状態が永遠に続くという意味でしかない。

政治がすべてに優先するというのは、政治活動家が国家権力を掌握し、一般人に命令するという事で、命令に逆らえば殺される。トロツキーなどは殺人部隊の親分だったから、恐れられていた。

ロシアでは政治活動家の親分はレーニンであり、スターリンだった。表現や芸術は、政治に隷属し、レーニンやスターリンを讃えなければならなかった。それは、それが革命を賛美する事だとされたからだ。そんな風に考えた者が、芸術や表現をこれっぱかりも理解していなかったのはわかりきった事だ。ああ、なんて社会主義リアリズムだこと。

一方を讃えれば、一方はけなす次第となる。資本主義社会に批判的だと革命的だったり、進歩的だったり、意識高かったり、思索的だったりと評価された(誰に? 自国を貶め、後方で敵に味方する卑劣漢どもに)。

だから、資本主義批判が流行らなくなっても、祖国の足を引っ張ろうという者たちは、「革命的」な表現にしがみつこうとする。どんなに愚劣なヤツでも、なんとなく、表面的な「革命的」らしさに浸れる気がするのだろう。そんなのは中身のなさを表してるだけにすぎないが、鈍感だから自分では「思索的」な自己愛に浸れる。気色悪!

ソビエト・ロシアの革命権力は、一方で革命という宗教的力であり(だから、革命がすべてに優先できる)、一方で国家権力だった。現在の中国も、北朝鮮も同じだ。西側先進国では、程度の差はあっても宗教性は後方に退き、世俗権力の最高形態としての国家権力が樹立している。

宗教権力はイスラム圏では強力だが、国家権力と宗教権力のどちらがマシか、はっきりしている。革命教国家権力にどうにもいい所がないのは、一面において宗教権力だからだとも言える。

「人民権力」なんてのは、共産主義者の嘘で、国家権力の言い換えでしかない。現在までのところ、人類はその最高形態として、国家権力と宗教権力しか知らない。

世の中を良くしようと思ったら、国家権力を良くしたり、宗教権力を良くするしかない。それを転覆しても、良くはならないからだ。国家権力のひとつでしかない外国を引き入れて従属する事が「革命」なのだから、そんな事をしたら、事態は悪化するだけに決まっている。

かつて革命を夢見た人々が純粋だったのは認められる。でも、同時に、彼らが間違っていたのも認識しなければならない。