2017年7月11日火曜日

迂遠さの正義 権力の吐息 終節

 前に土井たか子が「政治」と言う時、音声は「性事」になっていた。若い女の子は「彼氏」を「枯死」のイントネーションでしゃべるのと同じで、標準語の発音から言えば間違っていた。
 でも、国会は正しい発音の場ではなく、全国から、訛のある政治家も出てきている。間違いを正す礼儀があると同時に、一々あげつらわない礼儀もある。
 読みの間違いも同じだ。多文化だの多様性だのと言わない人であっても、間違いを正す事が礼儀にかなうだけ関係の距離が短い人に対して以外は、あげつらわない礼儀を守るべきだ。
 礼儀もない者が、他者を尊重するなど出来ない。表現をあげつらったりする者も同じだ。人を尊重できない者に政治は出来ない。政治は議論であり、その議論は落とし所を詰めるための議論であり、論争ではないからだ。
 人の言論を妨害する行為も、政治行為ではなく、ただの妨害であり、破壊活動にすぎない。北朝鮮や支那で同じ事をやろうとしたら、やる前に連行され、帰宅する事などないだろう。ロシアも、まだそんな状態のようだ。

 極端だが、わかりやすく、ある意味では清々しいかもしれない考え方として、こういう考えがあるかもしれない。
 正義のためには何をしてもいい。早急に正義を実現するためには、積極的に何でもすべきだ・・・その正義がみんなの嫌いなユダヤ人撲滅だとしたらアウシュビッツになり、共産主義だとしたら収容所群島になる。カンボジアの大虐殺も正義のために行われた。
 政治的正義だけではない。ISISやタリバン、アルカイダが行って来たテロ、虐殺、残虐行為も宗教的正義のために行われている。

 正義ほど危険なものはない。いい歳をしてそんな事もわからないのは、正真正銘、心底薄ら馬鹿だが、若者は馬鹿でなくても正義にとり憑かれやすい。

 正義に絶対性はなく、相対的なものだが、正義を推し量る物差しはない。政治的には、利害の調整によって正義への接近を近似するしかない。これは、とても有縁で間接的な方法で、これ以上ないほどまどろっこしいのだが、他に方法はない。

 一党独裁だのと馬鹿げた方法は失敗すべくして失敗した。1つの利害だけを採用し、他をすべて切り捨ててしまうのは、一見効率が良かったが、要するに大きな手抜きをしただけで、実は正義に接近する事が出来なくなってしまい、悪に転落した。計算が複雑だからと、変数をひとつだけ残し、他を捨ててしまうのと同じだ。算数嫌いの中学生(大学生もかな)は喜ぶかもしれないが、目的は達成できない。

 本質的には、すぐに答えの出る事など、もうやってしまってある。残っているのは、いつ答えが出せるか見当もつかないような事ばかりだ。

 戦争も、日本は処理してしまった。やめたのだからそれで終わりだった。しかし、支那や北朝鮮という好戦的な軍国主義国家が近隣に存在しているし、友好国のはずの韓国も、竹島を占領するという、宣戦布告に等しい領土侵犯を行っている。

 やめてしまった戦争だが、しかけて来ようという国がいる時に、やめましたでは済まない可能性が高い。そこで、防衛のための軍事力を整えなければならない。そのために、多くの法整備をしなければならない。また、憲法も変えなくてはならない。
 丸腰でいたら侵略される。それならば、侵略をさせないために武装しなければならない。悲しい事にそれが現実なら、いやいやであっても武装する以外の選択肢はない。武装以外に戦争回避の可能性を高める方策は見あたらない。
 戦争回避のための国防の充実をすべきではない、円滑な国防のための法整備をすべきではないという人は、丸腰になって、侵略を誘えと言っているのと同じだ。
 護憲だ、9条だと言っている人たちは、まったく信用できない。

 正義への接近を幾重にも間接的に近似するという、利害調整法は正義に到達できないかもしれない方法なのだが、色々試した結果、他に方法はなさそうでもある。
 ただひとつ、この方法のいい所は、もし正義が存在しなかったとしても、機能し続けるという点にある。

<了>