2017年7月4日火曜日

猫のお爪を切らないと、痛くてしかたがない

 本を読んでいたら猫に邪魔された。しかたがないのでナデナデして可愛がった。猫に負けて遊んでいるのは楽しい。

「革新でござい」と言っている革新陣営(「ござい」という言葉で「革新乞食」だと揶揄しているわけではありません)は、無意識にだろう、「新しい」と「良い」を混同している。新しいからと言って良いわけではないし、古いからといって悪いものでもない。

 ドイツ観念論系の考え方だと、政治は理想を達成するための方法だが、英国経験論系の考え方における政治の役割は利害の調整になる。
 ナチズムだって、あれはあれで理想を追求する革新運動だったのだから、問題なのは理想の内容なのはあたりまえだ。
 経験論系の利害の調整という考え方に対して、日本では嫌な顔をする人がいる。金権的な汚らわしい権力を想像するのかもしれない。
 利害という場合、誰の利害なのか、どういう利害なのかが問題になる。労働者の利害もあれば資本家の利害もある。南の地方の利害もあれば、北の地方の利害もある。利害の調整を通じて、その関係者に政治的利益をもたらすというのは、それほど悪い考えではない。
 特に、政治の限界をわきまえる事は権力の暴走の抑止につながる。
 これが理想追求型の権力の場合、歯止めがない事は、20世紀の経験で明らかだ。

「改革」もいいかどうかは内容と結果による。浅い考えで、何でもかんでも改革すればいいと思いこんでいる人というのはいるけれど、迷惑なだけという事が多い。

 支那武術では、変化というのは物事が満ちた時に自然と変わる機があるから、そこで変化をする。変化は同じであるために行う。敵との関係で優位にいたら、変わる必要はない。しかし、敵が動いて優位になろうとしたら、こちらも変わらねば優位を保てない。それが同じであるために変わるという事だと教えてもらった。
 変わる事を自己目的化してしまうと、自ら優位を崩してしまいかねない。読みが浅かったり、考えが浅い者は信をおけないのはこういう理由だ。

 内容のいい革新であれば結構だが、戦後の日本共産党を家元とする「革新でござい」が良かった試しはない。日本をソ連に売り渡す事ばかりを考えていたのだから良いわけがない。表向き何を言おうと、それを真に受けてはいけない。
 日共の言う事は真に受けて、自民党の主張は裏を読もうとするというのは馬鹿げている。

 憲法改正は革新だ。「テロ等準備罪」も革新だ。自衛隊の国軍化も革新だ。これはとても良い革新だ。「革新でござい」とは違う、本当の革新だ。これが革新だと理解できない人は、骨の髄まで反動だと思う。
 昔の流行作家が「テロ等準備罪」成立で日本が孤立すると言った。
 おいおい、これを成立させないと孤立するんだよと呆れた。嫌なものを見せられたもんだ。情弱劇場の出し物は本当に出来が悪い。

 猫はもう眠っている。