2017年7月23日日曜日

ノイズの政治

 政治には、その時々の都合や感情が持ち込まれやすい。これは政治過程にとってはノイズだが、ノイズによって政治過程にエフェクト出来てしまう場合があるようだ。

 マスコミは事実をトリミングして国民を誤解に誘導する誘導報道をするようになった。ひどい商売をするものだと呆れるが、売上が下がり続けている彼らにとって、高齢者層は命の綱なので、これを離さないようにするのは至上命令なのだろう。
 高齢者層は老い先短いとは言え、層と言えるだけの数がいる。目先を考えるなら、ここに特化するのは他にない選択だ。
 しかし、目先はいいとしても、将来はどうするのだろう・・・などと疑問を持ってはいけない。その将来が来る前に、今のトップや幹部は引退している。そんな先の事まで考える気などない。自分の時に何とか回せればいいだけだ。
 マスコミは、すでに、内容的な自転車操業に近いものとなっていると推測できる。

 そうして、まともな思考の出来る者は、そこでは必要がなくなる。自転車操業に適応できる、上っ面の騒ぎではしゃげる者が使える人材となる。

 歳をとったのだから偉いと思い込んで、規範的になっている高齢者たちは、部分的にでも規範を共有し、その規範に触れると騒ぐのは理解しやすい。
 順を追って、事実を確かめ確かめして行くといったやり方(調査報道というんだけどね。これが出来る人は絶滅したみたいだ)はまどろっこしい、手っ取り早く感情に訴える言説の方がいい。
 そういう事で、事実とはいくら乖離してても、感情にさえ訴えかければ、報道が成立する次第となってしまった。

 これを報道と呼べるのかどうか、先に規範があり、それに合わせて事実をかいつまみ、事実とはまったく異なる内容を流すのは、嘘ニュースと言う方が正しいが、柔らかく言うにしても、疑似報道だと思う。これがノイズだ。

 若い人は、報道に疑問があると、自分で調べる。昔は大変だったが、今はネットで発信されていれば疑問が解ける。そうすると、マスコミがデタラメなのがわかって、もうマスコミなど相手にしなくなる。

 言論・報道の質をもって生き延びて行く事は、不可能となっているので、影響力を持というという、権力的な方向を目指すしかない。そこで、ノイズを拡大させる事で、影響力の誇示を狙っている。

 説明しても聞く耳を持たない者に対する「説明責任」は本当にあるのだろうか?
あるいは、国民に向かって行っている説明を、勝手な判断でなかった事にしたり、トリミングするメディアに向かって、説明する意味はあるのだろうか?

 マスコミが行っているのは、政治過程において必要な説明のノイズ化であり、本来の役割、あるいは、マスコミが自分たちはこうなのですと国民に説明し、期待させて来た役割とは、正反対の事をしている。
 マスコミが批判されるのは、無内容である事もあるが、それ以上に、自分たちで自分たちの信頼を踏みにじっているという点だ。

 マスコミって、イタいよなと言われているんだよ。