2017年7月9日日曜日

神の普遍と歴史の遷移、あるいはその逆 2 権力の吐息 4

 中世の間に、ヨーロッパ=世界の各地が国としての形を整えて行った。ローマ帝国の時代には蕃地でしかなかった地域に国家が成立した。この文明化はキリスト教と紛争・戦争によってもたらされた。
 そして、それにつれてカトリック教会の権力は徐々に小さくなって行った。
 カトリック教会の権力の根拠は、内面の支配だった。もちろん、教会籍がなければ生きて行く事が出来ない。中世人に移動の自由はなかったが、教会籍のない者の通行を許される道はなかった。また、どこかの町に留まる事も許されなかった。宿を乞う事もできず、食べ物を手に入れる事もできなかった。
 さらに、異端とされてしまうと、最悪は焼き殺されるのだが、死んだ後、墓地に埋葬はされなかった。

 領主や王が破門されたとしたら、領民・国民も同時に破門される。王や領主の一族郎党としては、国民はさておくとしても、自分たちの迷惑はこの上もないという事で、王、領主を暗殺しただろう。その時に神父が何か耳打ちするかもしれない。

 教会の要求は、すべて地上に神の国を作り上げるためのもので、女郎屋に入り浸った教皇の浪費のためだけではなかった。あるいは、何とか夫人を妊娠させたので、新しい屋敷を買ってやるためだけでもなかった。
 神の王国がなかなか現出しないうちに、国家の力が増して行った。そして、教会内で各地の学僧たちが教会に対して疑問を持ち始めた。
 もちろん、神の現世における身体である教会に疑問を持つ事は、神に疑問を持つ事と同じだから許されていない。神の采配に矛盾を感じるのは、神の意思の大きさ、深さを理解できないためであって、自らの思慮が浅いだけでしかない。反省すればいいのであって、疑問を表明するなどもってのほかだった。

 時と場合によっては、新しい修道会を作らせる処遇で済ませられる事もある。だが、勢いというものは止められないもので、教会批判を激化させる者たちがいて、処刑か破門か、何らかの決定をしなければならなかった。
 破門が行われ、批判者は分裂教会を作った。

 教会の支配に不満を持っていた王・領主がプロテスタントを支援した。当然、国民、領民は同時にプロテスタントとなる。
 この時、すでに教会の権力は小さくなりはじめていた。

 宗教戦争の後、教会の直接支配が終焉して行く。ヨーロッパ各地で、国家が世界から分岐しはじめたためだった。
 以後、教会の力は時代を追って小さくなる。現在でも途方もなく大きな力を持っているとはいえ、中世時代に世界そのものであった力はもうない。
 多くの権力が国家に移り、国家は個人に分けてしまった。信仰の自由という途方もない権利が、神を冒涜していないかどうか、見当もつかない。

 権力は、教会=世界から国家に移り、権利という形で個人にまで降りてきた。権利の保証は国家が行うから、疑似権力でしかないが、一度認めた権利を取り上げるなどという下策に走る事はありえないから、その国家の法の通用する範囲内において、権利は権力と同じものとして流通する。

 支那の法輪功弾圧に見るように、信仰の自由を認めていない国家もまだある。原理主義的信仰も無神論も、信仰の自由を認めない。
 無神論もまた、不寛容という点では宗教原理主義と違いはない。