2017年7月11日火曜日

比較研究: 友からの手紙

 友人がメールをくれた。

 加計学園という事業体のどこに問題があるのか、どこも報道しないのは調べていないからか、何もないからかだろう。
人手も金もあるマスコミが調べもしないのか? 調べたけど何もなかったんで、それじゃ格好がつかないから騒ぎに乗るだけにしてるのか?
根拠のない文書、詐欺師、失脚した官僚のカッコ付け話の恨み節(どこかの飲み屋でやってろ。金のためなら相手にしてくれる店はあるだろう)に簡単に乗せられるマスコミ・・・
加計学園はしょせん村おこしと言う人もいるが、村おこしのどこが悪い?
加計学園のように、何も出ないで、解釈があるだけの話は事件でもスキャンダルでもなくて、宣伝合戦だ。詐欺師と見栄っ張りに煽られて、マスコミ、国会が宣伝合戦で時間浪費して、喜ぶのは北朝鮮と中国という構造だ。
マスコミが、問題を明確に出来ていない時点で、これは事件ではない。同じ事を繰り返し言いつのる事で事件であるかのように振る舞っているだけだ。そんな事はマスコミの仕事ではない。

 まったく同感だ。
 森友だ、加計だと、マスコミの倒閣運動を見ていると、その知能の低さ、能力のなさに呆れる。これに苛立って、マスコミ批判をする人が多くいるのもあたりまえの事だと理解できる。
 しかし、あの人たちに苛立つのも嫌なので、まともに受け取るのをやめた。そうすると、森友も加計もなくなり、残ったのはマスコミの無能と馬鹿だけになった。

 そこで、無能と馬鹿を見せるだけのマスコミと、昔あった三馬鹿大将を較べてみる事にした。

 三馬鹿大将の方が、はるかに高級で、知的で、人を楽しませた。彼らは意図的に馬鹿を見せ笑わせるという芸をやっていたのだが、今のマスコミは、報道芸がなく、本当に馬鹿で無能なので、笑えもしない。
 表にすると、


 三馬鹿大将   マスコミ  
 芸  ある  ない
 知能  高い  低い
 能力  高い  ない
 笑い    おおいにある     ない


 以上のようになる。
 マスコミが仕事なんか、まるっきりできない連中だという事がはっきりする。
 三馬鹿大将と比べるのは、マスコミには酷だったかもしれない。
 でもまあ、マスコミ、せめてお金だけはあって良かったねぇ。君たちが危機意識を感じるのは、もう打つ手がなくなっている、終わりの時だし、それはかなり迫って来ているから、依拠できるのは、君たちの能力ではなく(ないからね)、お金だけだよ(会社があるからね。毎日なんか、不動産あるもんね)。

 ラリー、モー、カーリー、つまんないもんと較べてごめんね。


















迂遠さの正義 権力の吐息 終節

 前に土井たか子が「政治」と言う時、音声は「性事」になっていた。若い女の子は「彼氏」を「枯死」のイントネーションでしゃべるのと同じで、標準語の発音から言えば間違っていた。
 でも、国会は正しい発音の場ではなく、全国から、訛のある政治家も出てきている。間違いを正す礼儀があると同時に、一々あげつらわない礼儀もある。
 読みの間違いも同じだ。多文化だの多様性だのと言わない人であっても、間違いを正す事が礼儀にかなうだけ関係の距離が短い人に対して以外は、あげつらわない礼儀を守るべきだ。
 礼儀もない者が、他者を尊重するなど出来ない。表現をあげつらったりする者も同じだ。人を尊重できない者に政治は出来ない。政治は議論であり、その議論は落とし所を詰めるための議論であり、論争ではないからだ。
 人の言論を妨害する行為も、政治行為ではなく、ただの妨害であり、破壊活動にすぎない。北朝鮮や支那で同じ事をやろうとしたら、やる前に連行され、帰宅する事などないだろう。ロシアも、まだそんな状態のようだ。

 極端だが、わかりやすく、ある意味では清々しいかもしれない考え方として、こういう考えがあるかもしれない。
 正義のためには何をしてもいい。早急に正義を実現するためには、積極的に何でもすべきだ・・・その正義がみんなの嫌いなユダヤ人撲滅だとしたらアウシュビッツになり、共産主義だとしたら収容所群島になる。カンボジアの大虐殺も正義のために行われた。
 政治的正義だけではない。ISISやタリバン、アルカイダが行って来たテロ、虐殺、残虐行為も宗教的正義のために行われている。

 正義ほど危険なものはない。いい歳をしてそんな事もわからないのは、正真正銘、心底薄ら馬鹿だが、若者は馬鹿でなくても正義にとり憑かれやすい。

 正義に絶対性はなく、相対的なものだが、正義を推し量る物差しはない。政治的には、利害の調整によって正義への接近を近似するしかない。これは、とても有縁で間接的な方法で、これ以上ないほどまどろっこしいのだが、他に方法はない。

 一党独裁だのと馬鹿げた方法は失敗すべくして失敗した。1つの利害だけを採用し、他をすべて切り捨ててしまうのは、一見効率が良かったが、要するに大きな手抜きをしただけで、実は正義に接近する事が出来なくなってしまい、悪に転落した。計算が複雑だからと、変数をひとつだけ残し、他を捨ててしまうのと同じだ。算数嫌いの中学生(大学生もかな)は喜ぶかもしれないが、目的は達成できない。

 本質的には、すぐに答えの出る事など、もうやってしまってある。残っているのは、いつ答えが出せるか見当もつかないような事ばかりだ。

 戦争も、日本は処理してしまった。やめたのだからそれで終わりだった。しかし、支那や北朝鮮という好戦的な軍国主義国家が近隣に存在しているし、友好国のはずの韓国も、竹島を占領するという、宣戦布告に等しい領土侵犯を行っている。

 やめてしまった戦争だが、しかけて来ようという国がいる時に、やめましたでは済まない可能性が高い。そこで、防衛のための軍事力を整えなければならない。そのために、多くの法整備をしなければならない。また、憲法も変えなくてはならない。
 丸腰でいたら侵略される。それならば、侵略をさせないために武装しなければならない。悲しい事にそれが現実なら、いやいやであっても武装する以外の選択肢はない。武装以外に戦争回避の可能性を高める方策は見あたらない。
 戦争回避のための国防の充実をすべきではない、円滑な国防のための法整備をすべきではないという人は、丸腰になって、侵略を誘えと言っているのと同じだ。
 護憲だ、9条だと言っている人たちは、まったく信用できない。

 正義への接近を幾重にも間接的に近似するという、利害調整法は正義に到達できないかもしれない方法なのだが、色々試した結果、他に方法はなさそうでもある。
 ただひとつ、この方法のいい所は、もし正義が存在しなかったとしても、機能し続けるという点にある。

<了>

2017年7月10日月曜日

ヌルく、曖昧な結末に向かって 権力の吐息 5

 国家の世界からの分離独立とプロテスタントの成立は軌を一にした。
 カトリック=世界が空間的にヨーロッパであり、教会が階層的にここに君臨している状態から国家が独立する時、信仰もカトリックから分離したのだった。正教、イスラムといったルーツを同じくする宗教に行かず、カトリックから別れたプロテスタントとなるのは、同じ文明に留まるという意思だったと考えられる。
 ここで起きたのは、国家がカトリック世界に所属するのではなく、ヨーロッパに位置するという認識の転換だった。さらに言葉をつぐならば、世界の読み替えが行われた。

 この過程で、英国は重要な役割を果たした。英国内で集めた税金を教会に上納するをやめ、英国の税金は英国で使うとして、引き渡しを拒否したのである。
 自らは王侯に戦費を用立てる金貸し業、十字軍の時に為替システムを作り上げ(テンプル騎士団がユダヤ人のやっていた送金手法を大きくシステム化した)といった銀行の原型を営み、ユダヤ人たちには小口の金貸しの免状を売っていた教会は、許認可権を持つ、独占体の税務署兼銀行だった。
 英国が税の上納を拒否し、世界に対抗しえたのは、海によって大陸と隔てられている島国だったからだろう。
 英国教会の信仰は、教皇ではなく、王を頂点にいただくという以外、儀式などカトリックと変わりがない。他のプロテスタント諸派とはその点が違う。信仰で揉めるよりも、スムーズに移行する事を優先し、あまり変更を加えず、既存のものに手を加えて使う方が違和感もなくていいと考えたのだろう。根源的に神学を吟味検討する気などなかったろうし、そんな事をしても決着はつかず、無意味なわりに深い遺恨を残す争いが生まれるだけだと判断したとしたら優秀な合理性だ。

 宗教戦争はほぼカトリック側の有利に推移して終わった。しかし、その後、第一次大戦では教会の正規軍・ハプスブルク家の帝国が崩壊し、第二次大戦後もカトリック世界は衰退の一途をたどる。 

 中世教会が保持した強大な権力は、ゴチックとも言うべき古色蒼然としたものとなって行った。そして、ゴチック権力にとって代わって行くのが調整的権力だった。
 だが、ゴチック建築につきものの亡霊は、権力にも出現した。壮大で権威のある、人の情動を揺さぶる権力のイメージは残った。
 ゴチック的な権力観を持っている人はまだまだ多いようだ。だが、そんなものはイメージでしかなく、ゴチック的権力など、先進国にはなくなってしまった。政治権力に過大な期待をするのは、それを理解できず、亡霊にたぶらかされている人だ。
 それは何も復古的な考えばかりではない。進歩的という自意識を持っている考えであっても、政治の力で社会を良くしようという考えにも、もしそれが過大な権力を妄想した上で可能だと想定しているなら、亡霊が宿っている。
 あるいは、反権力を掲げる考え方であっても、それが権力の見積もりに失敗し、過大な権力を想定した上で反対しているとしたら、まったくの見当違いになってしまうが、その原因は、彼らに宿った亡霊だ。
 もちろん、教条から反対を引き出し、見積もりなどまったくしていない反権力も同じだ。亡霊に惑わされ、ゴチック的権力をモデルにして現在の権力に反対しても、ノイズ発生以外何の効力もない。
 風車に突進する騎士は、まだ純真で胸を打つものがあるが、ゴチック権力の亡霊にとり憑かれた錯誤の姿に感動などない。

 権力の復古も反権力も、ゴチック権力の亡霊にとりつかれているという点では同じだ。取るに足らないという点でも同じだ。

 現在がどうであれ、物事はなるようにしかならないが、まあまあ何とかなるもののようだ。ただし、その過程では見過ごすことの許されない悲劇が生まれる場合が多々あるのは事実だから、これへの手当ては十分なされなければならない。
 その上で、政治程度の小さなものに達成できる良さなど、先進国ではほぼ達成されている。政治の役目は、邪魔にならない事と、利害の調整を円滑に行う事に向かうしかない。
 そして、利害の調整には、あまりタフではないネゴシエーターが向いている。誰からも「ヌルい」と思われる程度で丁度いい。恨まれるよりはいいからだ。
 実際の権力はそこにあるとされる行政だが、ここの人員削減と機械化は少しの間課題となるだろう。AIに切り替える事が可能な部分は多い。課題というのは、役人の抵抗があるという事だが、最もゴチック的な遺物である官僚の駆逐は、世界中で21世紀の問題となるだろう。

 邪魔という事で考えれば、法的に必要と決められた邪魔となる事で国家を円滑、安全に保つのが行政の役割と言えるかもしれない。例えば、摘発によって犯罪者の邪魔をし、国民の安全を確保するといった事だ。
 しかし、訳書には、もう必要がなくなっている邪魔を、いつまでもやり続ける傾向がある。これは、(邪魔をする)権限がなくなるのを嫌がるからだ。だが、不要な権限を与えておく事は、権力にとって老廃物の除去が出来ない事であり、権力の健全化を阻害する要因となる。
 また、これは日本に限った傾向だが、無能であったり、怠惰であったり、怠慢であったり、反抗的な職員の解雇が出来ない。これは早急に改めないと、その部門が本来の目的を果たせなくなってしまう。学校で、生徒に暴力を振るう教員を解雇できないといった本末転倒が起き続けている。

 行政の問題は、物事がなんとかなる過程の問題でもあり、行政官たちの利害とのバランスの問題でもある。過程で起きる個々の問題に対処しながら、行政の姿を良くして行く事は、権力の最後の課題かもしれない。そこが整えば、権力は十分機能的になり、小さなものとなる。

 権力は、みんなの大好きな、巨大な悪である事をやめてしまい、面白みのない、小さく、散文的なものとなる。

 政治なんて、つまらねえよ。


他人のどんな言動でも参考に・・・ああなっちゃいけねえよ

 凄いね。石破茂。こういう時、つまり、まったくそういう発言をするタイミングじゃない時に安倍批判してる。やっぱり人望のない人はそういうもんなんだなと納得させてくれる。こういうのは、もって他山の石とすべしだね。

 で、おめえ、イシバのくせして何言ってんの?


2017年7月9日日曜日

事例研究: 硬化全体主義者と小心なメンター

 森ゆうこ(森裕子)という参議院議員がいる。自由党の所属だ。
 この人は2003年7月25日の参議院外交防衛委員会でイラク特措法案の採決で暴れ、他の議員(大仁田厚)を殴った。
 森は、暴力の理由を、
「多数決の原理だけで強行採決するのは、民主主義を無視したやり方だ。これでは民主主義ではない」
 と語った。
 自由党党首・小沢一郎は森を「我々の闘士」と持ち上げた。
 暴力で意思を通そうとするのは民主主義だと考えているようだ。この人は、自分の思い通りになる事が民主主義だと認識していると仮定できる。小沢一郎、何が「闘士」だよ。薄ら馬鹿だな。
 2004年6月4日、参議院本会議で、年金制度改革関連法案の成立を阻止するため、国井正幸厚生労働委員長解任決議案の提案趣旨説明に立ち、3時間1分に渡って長時間演説による議事引き延ばし抵抗戦術を行った。
 趣旨説明の内容は「身の上話や議事録の棒読みで時間を稼ぐなど中身の薄いもの」(朝日新聞社説)だったらしい。当時の参議院議長・倉田寛之から何度も「簡潔に、常識の範囲でやってください」と注意された。
 終了後、記者団に質問されると、
「これから本題に入るところだった。まだ数時間やるつもりでした」
「選挙で一日マイクを握ってても大丈夫ですから」
 と語ったという。
 いくら記者団でも、心配して質問したんじゃなくて、非常識だから批難する意味の質問をしたはずだ。それに対してこういう応答をするってのは、かなり自分勝手だとも仮定できる。
 小沢一郎は何か言わなかったのかな?
 2006年10月11日には参院予算委員会で質問当日に初めて目にした週刊現代の「安倍晋三は拉致問題を食い物にしている」という記事を紹介し、これを元に安倍首相(第1次安倍内閣)に質問したが、安倍首相に、
「私はそういう記事はいちいち読んでいません。拉致を食い物にしているとか、そういうことをこの委員会で言うのは失礼じゃありませんか」
 と、一蹴された。
 読んだばかりで、真偽も確認していない週刊誌を元に質問する神経は凄い。無神経であり馬鹿だと仮定する事も可能だ。
 この質問の前に、拉致被害者家族が北朝鮮の国民と家族に向けてメッセージを放送する短波ラジオ「しおかぜ」を支援するように参議院で提案しているが、せっかくいい提案をしておいて、これだから、北朝鮮による拉致被害者支援を政治利用する悪質な政治家と仮定する事もできる。
 議会はちゃんと、この提案は了承し、政府からNHKに「しおかぜ」を援助するよう要請がなされた。
 いい事は冷静に聞き、やるべきと判断したらやるというのは、第1次安倍内閣の議会はきちんとしている。ここに暴力や妨害行為、政治利用は一切ない。また、小沢一郎に「闘士」と賞賛される人物も一人もいない。
 自分の思い通りになる事が民主主義だと認識し、暴力も辞さない、自分勝手で無神経で馬鹿で、北朝鮮による拉致被害者支援を政治利用する悪質な政治家と仮定できる森ゆうこだが、まだ活躍している。
 2010年10月21日の参議院厚生労働委員会で、三原じゅん子が子宮頸がんの予防ワクチンと子宮頸がん検診の無料化を訴えた。
 三原じゅん子は、子宮頸がんの影響で子宮摘出した経験から、
「女性にとって最も大切な、子供を産むという機能を失ってしまった」
 と語った。
 森ゆうこはこれに噛みついた。
「女性は子供を産むためにあるような表現で不適切だ」
 こう批判したという。
 森ゆうこ、自分の身の上話はいくらしても大丈夫なのに、三原じゅん子はダメなんだね。
 女性にとって子供を産むという機能が大切だというのは真実だ。どうして異論があるかわからないが、三原じゅん子の言葉を「女性は子供を産むためにあるような表現」と受け取るのは、受け取り方が歪んでいる。無理やりにでも批判したかっただけにしか見えない。この森ゆうこのの批判は、与太者が因縁をつけるのと同じだ。難癖でしかない。
 三原じゅん子が、森ゆうこの批判する内容の発言はしていない事ははっきりしている。
 国会は非常識な発言でもないかぎり、その表現を云々する場ではない。そういうのは思想学習の場で行えばいいのであって、国会は思想学習の場所ではないからだ。
 そして、万が一、森ゆうこの難癖のような内容、つまり三原じゅん子が言っていない内容である「女性は子供を産むためにある」と考える議員がいたとして、それが一定の民意を代表しているならば、これは、そうした考えを持った人々がいるのだから、その人々の利害を尊重するのが民主主義だと理解しなければいけない。森ゆうこは、そんな民主主義の基本もわかっていないらしい。
 民主主義を理解していない(あるいは、日本共産党のように、日本共産党に味方する事が民主主義だと理解しているかもしれないと仮定できる)森ゆうこは、三原じゅん子の考えを批判したいわけだが、それは、人の考えを支配し、型にはめようという姿勢だ。これを別の言い方で表現すると全体主義となる。
 森ゆうこは全体主義者である。これは仮定の話ではない。しかし、これまでのいくつかの仮定を参照してみると、本人に自分が全体主義であるという自覚はないかもしれない。これだけ柔軟性がなく(仮定ではない)、傍若無人(仮定ではない)なのは、かなり硬化した信念(妄念と表現すべきかもしれない)を持っているが、本人に自覚する知能がないからだと仮定できる。あるいは、サイコパスの可能性もある。とりあえず周囲が柔らかく自覚を即すべき対象に思える。
「闘士」などと煽るのは一番いけない。無責任きわまる行為だ。小沢一郎、小心者なのは知っていたが、悪質でもあった。

神の普遍と歴史の遷移、あるいはその逆 2 権力の吐息 4

 中世の間に、ヨーロッパ=世界の各地が国としての形を整えて行った。ローマ帝国の時代には蕃地でしかなかった地域に国家が成立した。この文明化はキリスト教と紛争・戦争によってもたらされた。
 そして、それにつれてカトリック教会の権力は徐々に小さくなって行った。
 カトリック教会の権力の根拠は、内面の支配だった。もちろん、教会籍がなければ生きて行く事が出来ない。中世人に移動の自由はなかったが、教会籍のない者の通行を許される道はなかった。また、どこかの町に留まる事も許されなかった。宿を乞う事もできず、食べ物を手に入れる事もできなかった。
 さらに、異端とされてしまうと、最悪は焼き殺されるのだが、死んだ後、墓地に埋葬はされなかった。

 領主や王が破門されたとしたら、領民・国民も同時に破門される。王や領主の一族郎党としては、国民はさておくとしても、自分たちの迷惑はこの上もないという事で、王、領主を暗殺しただろう。その時に神父が何か耳打ちするかもしれない。

 教会の要求は、すべて地上に神の国を作り上げるためのもので、女郎屋に入り浸った教皇の浪費のためだけではなかった。あるいは、何とか夫人を妊娠させたので、新しい屋敷を買ってやるためだけでもなかった。
 神の王国がなかなか現出しないうちに、国家の力が増して行った。そして、教会内で各地の学僧たちが教会に対して疑問を持ち始めた。
 もちろん、神の現世における身体である教会に疑問を持つ事は、神に疑問を持つ事と同じだから許されていない。神の采配に矛盾を感じるのは、神の意思の大きさ、深さを理解できないためであって、自らの思慮が浅いだけでしかない。反省すればいいのであって、疑問を表明するなどもってのほかだった。

 時と場合によっては、新しい修道会を作らせる処遇で済ませられる事もある。だが、勢いというものは止められないもので、教会批判を激化させる者たちがいて、処刑か破門か、何らかの決定をしなければならなかった。
 破門が行われ、批判者は分裂教会を作った。

 教会の支配に不満を持っていた王・領主がプロテスタントを支援した。当然、国民、領民は同時にプロテスタントとなる。
 この時、すでに教会の権力は小さくなりはじめていた。

 宗教戦争の後、教会の直接支配が終焉して行く。ヨーロッパ各地で、国家が世界から分岐しはじめたためだった。
 以後、教会の力は時代を追って小さくなる。現在でも途方もなく大きな力を持っているとはいえ、中世時代に世界そのものであった力はもうない。
 多くの権力が国家に移り、国家は個人に分けてしまった。信仰の自由という途方もない権利が、神を冒涜していないかどうか、見当もつかない。

 権力は、教会=世界から国家に移り、権利という形で個人にまで降りてきた。権利の保証は国家が行うから、疑似権力でしかないが、一度認めた権利を取り上げるなどという下策に走る事はありえないから、その国家の法の通用する範囲内において、権利は権力と同じものとして流通する。

 支那の法輪功弾圧に見るように、信仰の自由を認めていない国家もまだある。原理主義的信仰も無神論も、信仰の自由を認めない。
 無神論もまた、不寛容という点では宗教原理主義と違いはない。


2017年7月8日土曜日

神の普遍と歴史の遷移、あるいはその逆 権力の吐息 3

 ローマが君臨した時代を古代と呼び、ローマの支配域をヨーロッパと呼ぶ。そして、ローマを継承する格好になったカトリック教会がヨーロッパに君臨した時代を中世と呼ぶ。
 ヨーロッパ各地の領主、王たちは領土の確保と拡大のために戦争をしなければならず、その費用を作るために借金に追われた。
 王侯に金を貸すのは教会で、欧州全域で徴税権を持っていたため、金があった。
 カトリックは強欲だったのか、欧州全域に総取りを要求し、かなり成功していた。
 カトリックの支配域を世界とも呼ぶ。これもローマから継承している。世界と言う時のモデルは、今でもこれだ。この世界で教会は大きな権力を築き上げていた。

 ローマは文明としては、エジプト経由でギリシアを模倣したものだから、多神教だった。色々な神を各々の集団が信仰していた。拝火教系のミトラ教が大きな力を持っていたともいう。キリスト教徒は嫌われており、競技場でキリスト教徒の処刑ショーが行われた時期もあった。格闘見世物よりも、キリスト教徒処刑の方が安上がりに市民を興奮させ、喜ばせたのだという。キリスト教は嫌われていたから、ローマ市民たちはそれが処刑される爽快感を満喫した。残虐で恐ろしい話だが、歴史にはこうした人間性の暗黒面が時々噴出する。
 そのキリスト教が市民権を得て勢力を拡大し、他の宗教を駆逐して行った。そしてローマを掌中に収めると、ローマ教区が他の教区から独立してしまった。そして、カトリックと名乗った。他の教区はオーソドクスを名乗る事になる。

 随分と後になるいが、近世に興るプロテスタントは、カトリックからの枝分かれだ。プロテスタントの諸派は、教会1つにその教会のあった町という小さな分派まであったようだ。教会の司祭の人柄と考え方でプロテスタントと見なされる事となり、運が悪ければ宗教戦争で町ぐるみ皆殺しにされた。この頃には、もう、カトリックは殺す側となっていた。その災難を避け、町ぐるみアメリカに移住する例もあった。
 アメリカの田舎で教会が1つ、住民のつながりが深い町は、そんなプロテスタントの落人村の歴史が秘められているなんて事がある。

 中世に戻って、アジア(中東)で、ユダヤ教から破門されたマホメットが興したイスラムが広がり、大きな勢力となると、ヨーロッパ・カトリック世界を外側から脅かすようになる。
 摩擦のきっかけは、王侯がイスラム商人から買った物の代金を踏み倒したからだとか、教会が異教徒にひどい通行税をかけたためとも言われる。ありうる話だが、もっともらしすぎるかもしれない。
 また、正教勢力がイスラムの後押しをしたという説もある。
 イスラムは、時期や場所にもよるが、キリスト教徒やユダヤ教徒(ユダヤ人)とうまくやっている事も多かったので、様々な勢力が味方についた可能性はある。

 イスラムが強大になり、カトリック教会は十字軍の派遣を号令するが、理由は現在でもわかっていない。わけがわからなくても歴史は大きく動くというだけだ。そして、曖昧に終わった。

 十字軍戦争のカトリック側の大きな収穫はリベリア半島だったろう。イスラム勢力からここを失地回復した教会は、スペインとポルトガルという新しい2つの国を作った。そして、子午線で世界を2つに分割し、2つの国に分け与えた(後に、大帝国を形成した英国は、ポルトガルから支配権を買ったかもしれない)。

 このスペイン、ポルトガルの建国によって、イスラム支配時代に住んでいたユダヤ人が困った立場に追いやられた。キリスト教徒はユダヤ人を嫌い、弾圧した。この時、ユダヤ人はイスラムと一緒に退いたユダヤ人を追ってアフリカに行く者、イタリアなど、ヨーロッパ圏内に移る者、そして、キリスト教に改宗する者とに別れた(後に宗教改革に対抗してプロテスタントと果敢に戦ったイエズス会は、この改宗ユダヤ人によって設立された)。

 後に、マルタ騎士団が、スペインにユダヤ人の奴隷市場を作ったのも、スペインがカトリックの独裁帝国だった事が理由かもしれない。ユダヤ人は、スペインにユダヤ人奴隷の買い取り機関を設置し、マルタ騎士団から買い取っていたという。もちろん、奴隷市場はカトリックの許認可がなければ作れなかった。

 イベリア半島からヨーロッパに難を逃れたユダヤ人の中で科学知識のある者は、当時の科学者の別名である魔術師になった。天文学者は占星術が出来たし、化学者は錬金術師だった。医師には有名なパラケルススがいるが、これも占星術を医術に応用していた。科学と魔術が別れるのは、20世紀に入ってからの話になる。

 その結果、カトリックが魔術に熱中して行く。新しい技術は魔法であり、その技術を裏付ける知識は高等魔術だった。神学研究者である上位の修道士たちは、修道会の中でそうした知識に触れる権限を得て魔術に没頭しはじめた。
 後に恐怖の異端審問で名を馳せる事になるドミニコ会などは、一時期、魔術に浸りきってしまった。
 こうした傾向が顕著になり、見逃せなくなったのだろう、カトリック教会は魔術を異端とする。火刑に処される修道士もいたし、生涯、牢獄につながれる修道士もいた。ただし、牢獄の生活が修道院生活とどれほど違っていたかわからない。
 この結果、異端を出したドミニコ会は急転回し、異端審問を担うようになる。同会は今でも、カトリックの憲兵のように言われる事のある存在となった。

 ハインリヒ・ハイネがある地方の異端審問で名を馳せる修道院が、実はギリシアの異神を信仰する教団に乗っ取られていたという短編を書いているが、ギリシアからローマを経て、カトリックに流れ込んだそのようなカルトがあっても不思議ではない。ハイネは誰かからその伝承を聞いたのかもしれない。

 カトリックの内部粛清だった異端審問が始まった後も、魔術はカトリック内にはびこり続けた。これを徹底的に批判し、糾弾したのがマルティン・ルターだった。
 バチカン内では、ルターの占星術を行ったという。もしかしたら呪いの魔術をかけたりしたかもしれない。その結果がプロテスタントであり、宗教戦争だった。

 

分配と総取り 権力の吐息 2

 トランプ大統領を批判するのは、評論であり、政治的行為ではない。政治的行為というのは、相手が誰であろうと交渉し、自分が代表する側(つまり、代表する利害)に少しでも有利な方向に持って行く事だ。トップに立った側が他の利害関係を無視して総取りをしてしまうような事は、狭い範囲ではありえるかもしれないが、先進国の国家規模ではありえない。そんな事をすれば社会が不安定になり、トップの側の利益も損なわれるからだ。
 交渉には相手を尊重する事が必須だ。もちろん信頼も不可欠だ。信頼と尊重を損なう批判など無益だ。そんな事をしている時間もない。あるとすれば、政治行為をしているのではない。
 これが基本だが、相手を力で押さえつけねばならない場合は、交渉の余地はないという事を示すために批判が行われる。もちろん、力を行使している間に、裏で交渉を行う事はよくある。

 元々不安定で、不安定である事から利益を引き出しあっている地域では、利益を総取りにすべく敵を皆殺しにする。その利害とは、ひとつの、あるいはいくつかの部族の利害であり、他の部族を殲滅する事が利益になると信じられている。
 共産主義の一党独裁というのもこれと同じで、他の党派、政治潮流を「反革命」として断罪し、存在を許さない。こうして共産党が利益を総取りし、独占する。彼らエリートの腐敗は、様々に語られて来たから繰り返さないが、共産党幹部や政府官僚など、エリートは腐敗しきっていた。これはロシアに限らず、東欧圏、支那、キューバ、ベトナム、北朝鮮も同じだ。野蛮丸出しだ。
 マルクスが「原始共産制」と読んだのは(エンゲルスだっけ? 宇野弘蔵じゃないよな)、こういう事ではないと思うが、読んでいないので知らない。もちろん、読む必要も、知る必要もない。

 共産主義は共産党が代表する利害以外は退けるので尊重も交渉も信頼もない。効率的なようだが、すぐに停滞する。無残な失敗が累積していたが、世界中の共産主義者、進歩派リベラルが失敗を隠蔽し、嘘を喧伝した。彼らはそれが良心的行為だと思い込めたからだ。良心というのは、時々、こうした暴走をする。良心が理性や知性よりも感情を優先する。理性や知性は、感情に負ける事が多い。
 良心をこのように発動させたタタリは理性、知性の劣化として現れる。多くの知識人が歪んだ良心のせいで知性を劣化させ、残骸として生きている。反原発だとか、脱原発だとか言って復興の脚を引っ張っている知識人たち、頓珍漢な護憲憲法学者たちは知識人の残骸でしかない。無用だからとっとと廃棄した方がいいが、廃棄場がない。

 日本の国会では、幼稚な野党が、幼稚なマスコミの筋の悪い騒ぎを国会に持ち込んで、立法機能を麻痺させようとしたが、無理だった。当然だ。
 立法府に議員となって奉職しておきながら、機能麻痺を目論むというのは破壊工作だ。そんな事をするのは、潜入工作員も同然だ。ただ、あまりにも能力が低いので雇ってもらえないだろうけどね。

 互いを尊重しあいながら、対立や違いを、できるだけ現在を反映した政策に落とし込む努力が大切なのに、感情や予断に左右され、言葉尻や重箱の隅ばかり突いているようでは、あまりに馬鹿馬鹿しいから、さっさと多数決で決めてもらった方がいいと思えて来る。バカバカしさの原因は野党にある。
 多数が少数の意見を尊重しようとしている時に、少数は多数の意見など無視している。これは歪んでいるし、おかしい。野党の人たち、気がついて・・・無理か。
 こんな事をしていると、野党は日本共産党のフロントにしか見えなくなる。本当にそうなのかな?

権力は、法律、規則、手順で縛られているし、それは極限化する。超越性などどこにもなくなって行く。権力はきらびやかな宮殿ではなく、殺風景な事務所で運営されるものとなった。征服者から事務屋の手に渡り、絶対的で絶大なものから、相対的で小さなものとなる。
 色々な人の間で、権力観がズレている。その権力観のズレが、時に歪みを生み出すのはしかたのない事だ。その歪みが政治を後退させる事もある。それは、歪みを正すために後退が必要だっただけだ(都民ファーストの話だけど、間違った権力観を体現している毒吹き女の事なんか、わざわざこれ以上は言わない)。

 権力の超越性の度合いを大きさとしてとらえると、時間とともに権力は小さなものとなる。QHGよりも、今の政府の権力の方が小さいのは、日本が属国だからではなく、権力が小さくなったからにすぎない。
 権力の大きさを固定しておいて考察するのは、簡単のためにはなるかもしれないが、特殊な操作をしている事を忘れてはいけない。また、高度な考察は出来ないので、予備的な考察に留めるべきだろう。

 ISISやタリバンの指導者の方が、アメリカ大統領よりも大きな権力を持っている。また、ロシア大統領や、支那の首席、北朝鮮の最高指導者の方が大きな権力を持っている。この大きさとは、それが影響力を持つ範囲内での絶対性、超越性の事で、それは同時に閉鎖性でもある。
 アメリカ大統領は大きな影響力を持っているが、閉鎖性はより少なく、絶対性、超越性はかなり卒業出来ている。
 この大きさを、総取りのパーセンテージで数値化できる。小さなパイでも全部取れば権力としては大きい。大きなパイであっても、いくつかに別けると権力は小さくなるという風に考えられるかもしれない。

 この事は人類にとって、とても大きく、重要な意味を持っている。


2017年7月7日金曜日

多様性って、外国人に我慢する事だぜ 権力の吐息 1

 三権分立と言うが、それは権力を司法、立法、行政に分けるという考え方だ。立法機関としての議会があるという事で、議会制民主主義に即した制度という事になる。

 議会を持たない王権だと、王様が一人で超法規的存在として、臣民を思いのまま支配する。これだと、戦争をするのに軍隊に困る。臣下とその指揮下にある騎士や傭兵で軍隊を構成しなければならなかった。傭兵には支払いをしなければならなかったし、臣下には褒美をやらねばならなかった。そこで、都市を占領したりすると、軍隊に略奪を許し、褒美代わりにした。
 金品は強奪され、女は強姦された。修道女も同じだったという。
 それでも、王様は常に借金をし、困っていた。臣下も、貴族だ領主だと言っても金欠で、王妃だ、領主の妻だと言っても、畑仕事をさせられていた。彼女たちが夜会だ舞踏会だと着飾るのは、若い騎士たちを惹きつけるためで、畑仕事の合間に上品なふりをして騎士に微笑みかけると、うまくいけばその騎士は躊躇せずに死地に赴く。
 これが恋愛というものの始まりだそうで、王だの貴族だの言っても、女房にしてみればロクでもない亭主にすぎないから、若い男が自分にのぼせ上がってくれるなら、可愛いだろうし、なびく事もあっただろう。つまり、お血筋なんてアテになるものではない。
 ロシアのエカチェリーナも、愛人関係を通じて軍隊を掌握し、夫を殺害し、女帝となった。
 絶対権力を持つ王権は、権力のイメージとして最も一般的かもしれない。業務で権力を運営する普通の人というのは、わりと想像できないようだ。そこで、議員になったりすると、王様気分で威張り散らしたりするが、頭の悪さと器の小ささを際立たせるだけだから、面白い。

 現在では、行政が最も権力を持っていると考えていいと思う。
 官僚がかなり勝手に行政を運用しているのが、各国の問題のようだ。官僚の権力は歴史的にも大きな問題で、小さな政府などという考え方も、行政権力の抑制が目的だ。
 トランプさんがメキシコ国境に塀を作ると言ってアメリカ大統領になった背景に、行政エリートが「多様化」などと言いながら、一方的に南米移民を優遇した事に対する不満の蓄積があったと見る意見もある。
 最近、日本でも「ダイバーシティ」とカタカナ化した「多様性」推進議論が普及して来ているが、これ、各国で失敗してる話だから、気をつけた方がいい。
「カルチェラル・ダイバーシティ」というと、文化的多様性という事で、移民にこちらの文化を強要するのではなく、移民の文化も同等に扱おうという立派な考え方なのだけれど、移民の方は、それだったら自分たちの文化だけでいいとなり、多様化しない。
 相互性のない多様化は、理解にもつながらず、対立と不満しか生み出さない。
 英国もそうなってしまったし、アメリカも不満が蓄積している。
 この多様性の失敗が、ISの影響によってテロの下地となってしまった。テロはめったやたらと移民を受け入れようというメルケルだけの失敗ではなくて、多様性などを掲げていい顔をしたがったリベラル・エリートの責任でもある。

「君たちを受け入れよう、認めよう。多様化だからね」
 と言っておいて、それじゃ、受け入れられたと認識していたら、言葉が出来ないと仕事をさせてもらえない。会話は出来るからいいだろうと思っていたら、読み書きが出来ないから雇えないと言われる。
 それじゃ、最初の話と違う。多様性でも何でもないと不満を持つようになる。

 一方、受け入れる側は、
「柔軟に、多様性で行きましょう。心を広くもって、労働力なんですから」
 と言われ、そんなものかと思っていたら、相手はまったく柔軟性がなく、自分たちの文化に固執して、押し通すだけだ。住み着いた一帯は貧民街になるし、働きもしないで犯罪者ばかりになる。働きたいと言うが、言葉もわからないのだから無理だ。それに、怠け者で頭も悪く、勝手なことばかりする。こんなもの多様性でも何でもない。あいつらに身勝手をさせてるだけじゃないかと不満を持つようになる。

 こんな感じだろうか、英国のどこだったかな、パキスタン人移民の若者たちが、地元英国人貧困層の娘たちを長期間に渡って、常習的に強姦虐待していたのだが、多様性政策の時期で、警察も見てみぬふりをしていたのが発覚したなんて事があった。
 イスラムは女権など認めないから、多様性と女権は相容れなくなる。多様性などという言葉で、管理を放棄するとそういう悲惨な結果になる。

 いくら口当たりのいい言葉だろうが、軽率に多様性などに乗って、後で我慢に我慢を重ねるなんて愚の骨頂だ。わざわざやるような事だとは思えない。

 行政エリートの失敗は、こういう形で取り返しのつかない結果になる可能性が高い。失敗のツケを払うのは国民だから、不満が蓄積すると、反エリートの色彩が強いトランプさんのような人がトップに立つ事になる。
 トランプさんをポピュリズムだとする批判があるが、その反対側にエリート主義がある。大衆対エリートの対立が、選挙で決着するというのは平和でいい。結果に不満で、暴力を奮ったり、暴言を吐いたりしている人たちは、わがままで思慮が足りない。
 トランプさんが完璧だというのではなくて、トランプさんをトップにさせたシステムが立派だと言いたい。そのシステムがオバマさんを大統領にもした。残念ながら、オバマさんはあまり評価できる大統領ではなかったけれど、でも、オバマさんを大統領に出来るシステムは立派だ。
 そのシステムがトランプさんを大統領にしたのだから、それはそれで尊重するのが、平和を重んじるという事につながる。


2017年7月6日木曜日

ふーん、凄い事考えるんだね。どっかの馬鹿議員みたいだね

 北朝鮮が原発をミサイル攻撃する可能性があるとして、大阪府内の住民が、福井県高浜町にある関西電力高浜原発3、4号機の運転差し止めを求める仮処分を大阪地裁に申し立てたという。

 あの、北さんとしても、高浜原発を狙うよりも、大阪府を狙った方がはるかに楽で攻撃効果が見込めると判断すると思いますよと言っても、こういう人は説得できないだろう。
 この人の頭の中では、原発が最も危険なのだと推測出来る。そこで、確率計算などしないで、そして、原発へのピンポイントのミサイル攻撃の難しさなどまったく考慮しないで、ミサイル攻撃の可能性があると思い込み・・・まあ、妄想というとカドが立つだろうから・・・仮処分申し立てをしたのだろう。

 原発も含めた核施設の攻撃というと、イスラエルが実際に行っているが、ミサイルを撃ち込むといったやり方ではなく、攻撃戦闘機部隊による空対地小型ミサイル攻撃を行っている。ビル・クリントン大統領時代に米軍が、ビンラディン処刑のため、アフガニスタンにミサイルを撃ち込んだが、爆発すらせず、地面に転がっただけだった。クリントンさんは、ホワイトハウスで女の服に精液こすりつけてただけじゃなく、ちゃんと、軍事行動にも取り組んでいたのである。
 イスラエルの攻撃目的は、核兵器開発のための施設の破壊で、相手国に打撃を与える事ではないから、こんな細かく、面倒な事をやっている。ただ、相手に打撃を与えるのが目的だったら、やはり東京、大阪といった都市の攻撃になる。点ではなく、面のどこに着弾しても損害だけでなく、精神的衝撃を与えられる。
 
 仮処分申し立てをした人、これに共感する人、もしかしたら出て来るかもしれない共感するマスコミ、こうした安心教に何を言ってもはじまらないだろう。
 安心カルトや進歩カルトは、無知丸出しにして、阿呆陀羅経を唱えるだけだから相手にできない。残念ながら、理解しようとしなければ、言葉は通じないからだ。

 彼らと、彼らの発する雑音の相手などしなくていい。阿呆陀羅は無視して、私たちは、目の前の危機と現実を直視し、耐えるべきは耐え、冷静に行動する必要がある。














実に見下げ果てた振る舞いだ

 左翼って古い。今でもマルクスとか、ロシア革命とか勉強したりしてるのかな?
 マルクスはロシア革命までマイナーで、ロシア革命をちょろまかしたレーニンのボルシェビキがマルクス主義派だったせいで一躍革命思想の主流に躍り出た。だからマルクス主義は、ロシア・マルクス主義の事だとしていいと思うけど、もう崩壊している。
 ロシア革命の過程をいくら研究しても、レーニンがドイツから金もらって、その金で革命派を皆殺しにし、革命をちょろまかしたなんて話はお勉強しないんだから、役に立つわけない。
 第一次大戦中のドイツが、対仏と対露の二面作戦をやめ、西部戦線に専念するためにレーニンに資金提供し、レーニンは、金でかき集めた与太者を使って、フランスと協調して戦線を維持しようとした革命政府を襲撃し、「反戦」の美名のもと、ドイツを利するために奮闘した。そして、レーニン派にとってはめでたく、人類にとっては不幸な事に、革命政権乗っ取りに成功した。
 ロシア革命そのものは、アナーキストがやり遂げたものだったが、その後、マルクス主義が革命思想とされた。まあ、おかげで、世界の革命はロシアによって抑止された。

 ソビエト・ロシアは国際組織コミンテルンを作り、各国の支部を共産党と名乗らせた。下部組織間の独自連絡はさせず、縦割りでガバナンスした。
 ボルシェビキがロシア革命を成功させたという嘘はそうやって定着した。
 でも、本当は、ロシアが軍事的に併合する事が「革命」の正体で、各国の共産党は、政治宣伝や、秘密党員を政府に送り込むといった工作活動を担えば良かった。独自に革命でも起こされては困ると考えたのだろう。

 革命の総本山、ソビエト・ロシアの指導により、ロシア革命を成功体験と見なし、革命志願者たちは、それを追体験する事が革命運動だとして、実践修行によって高い境地に到達しようとしたが、残念な事にその成功は嘘で固められていた。こうなったら、もう共産党はカルトだ。

  フランス革命の無残な経過を見ると、ジャコバンというか、アナーキストも虐殺やるだけだからポルポトと変わりない。まあ、ポルポトはフレンチ・マオイストだけども、ともかく、そういうんじゃ話にならない。
 フランス革命後、フランスの労働団体から英国に派遣された人たちが、英国の労働者の方がはるかに権利を勝ち取っている事に驚いたという話があるが、革命などあっても足しになっていなかった。

 人民の幸福、民主主義、社会の進歩といった目的なら、日本はどの共産主義国よりも先進的にやりとげている。そんな事も認識できないから、時代とズレてしまう。今の日本で戦前への回帰を望んでいるのは、日共と、プロ市民も含めたその支持者たちだけだろう。
「戦前に近いものを感じます」
 てな寝言を言ってるのは彼らだけだ。きっと、彼らはいつも戦前を考え、夢見ているのだろう。

 共産主義カルトがお呼びじゃないというのは、そういう事だ。現実の課題は、彼らが思い込んでいる教条の、いくつも先を行っている。

 ロシア革命の時点から、マルクス主義は暴力、破壊、支配、絶望、嘘、強制、圧政、監視国家、戦争、抑圧、差別、富と権力の独占、隠蔽、陰謀といったものしか生み出して来なかった。このリストはもっと引き伸ばせるが、うんざりするだけなのでやめておこう。
 共産主義者たちが、取りざたしたがるこうした悲惨は、彼らの背後で、共産主義国家においてこそ、最大化され、固定した。それでも、彼らが考えを改めず、共産主義を支持するなら、それは、口で言っている内容と裏腹に、そうした悲惨を肯定し、悲惨を生み出す側に立つという事に他ならない。

 恥ぐらいは知れ。















2017年7月5日水曜日

情勢が不穏だと、色んなものがわいて来るね

 安倍政権が「1強」と言われるほど強く支持されているのが問題だと思うのはおかしな考え方だ。支那海軍が領海侵犯行為を繰り返し、北朝鮮が核爆弾とミサイルを保持してしまう緊迫した近隣情勢の中で、この人なら頼りになる、この人の話なら聞いてみようという人が他にいないだけだ。「1強」ではなく、「全弱」なだけだ。
 もちろん、問題は強い方ではなく、弱い方にある。まともじゃないんだもん。

 金大中(きんだいちゅう)の太陽政策も、文在寅(ぶんざいいん)のプロポーズ大作戦も無様な結果になっているのを見れば、北朝鮮の気違い相手にソフト路線などありえない事は、リベラル派でも理解できなくてはおかしい。保守派であっても、戦争など嫌に決っている。それを、好戦的な北朝鮮にきちんと対応しようとすると、まるで戦争をしたがっているかのように言って回る行為は、北朝鮮に味方しようという反日第五列のものだ。

 なぜそのような馬鹿げた行動がとれるかというと、鈍感で馬鹿だからなのは確実だが、それに加えて自分が人道的な善行をしているという意識があるからのようだ。
 そんなものは幻覚でしかない。進歩主義というのは覚醒剤効果があるようだ。

 戦争になるかもしれない現実に向き合う者の足を引っ張ったり、罵詈雑言を投げつける事が、戦争を防ぐ道ではない。平和のために、戦争を不可能にする以外なくて、軍備を整えねばならない場合もあるのを理解できなくてはいけない。ロシアがクリミアで何をしたのかもう忘れたのか? (あ、ロシアじゃなくて、親ロシア派って事になってるんだった。ロシア製というか、ロシア軍の武器を使う、ウクライナにいるロシア人の事を親ロシア派というだったね)。弱ければそこにつけこんで攻め込んで来る敵もいる。相手に出来心を起こさせないためにも、スキを作ってはいけない。

 残念ながら、人類はまだそんな所でウロウロしている度し難い種のままなのだ。

 






Joyce Cobb って凄ゲェいい

 アメリカとか(フランスもかな)、21世紀なんだし、女の機嫌をとろうとして「愛してる」とか言う野蛮な風習はもうやめた方がいいんじゃないかな。
(でも、本当にそんな事してんのかな? 移民が来ないようにする都市伝説かもしれないな)







2017年7月4日火曜日

きっと、流刑地の冬は寒い・・・

 ちょっと信じられない馬鹿な発言をした原田泰・日本銀行政策委員会審議委員だけど、早いとこ更迭して、今後はどこが引き受けてもとばっちりを食う事になるから、豊田真由子に秘書として引き受けさせたらどうかね。原田なんか、死んだっていいんだから。
 豊田真由子は議員としての未来はないから、今後は流刑地として、問題ある馬鹿を秘書にするのを仕事にして行けばいいだろう。

 原田は、経歴だけで内容のない人間の典型だ。ちょっと、爺ィ共、全員に国際常識試験とかした方がいいんじゃないか。他にも低能がいそうだぞ。

 豊田流刑地で原田が過酷な日々を送っているのをビデオ撮影してサイモン・ウィーゼンタール・センターに送り、あの男はこうしてありますと報告すれば、許してもらえ・・なわけねえな。

 原田の馬鹿は、本当に一刻も早く更迭すべきだ。





やっぱ、アロマとヨガかな

 トランプ米大統領が、金正恩(きんせいおん)の事を、
「あの男は、他にやる事がないのか」
 と言ったという。
 同感。






猫のお爪を切らないと、痛くてしかたがない

 本を読んでいたら猫に邪魔された。しかたがないのでナデナデして可愛がった。猫に負けて遊んでいるのは楽しい。

「革新でござい」と言っている革新陣営(「ござい」という言葉で「革新乞食」だと揶揄しているわけではありません)は、無意識にだろう、「新しい」と「良い」を混同している。新しいからと言って良いわけではないし、古いからといって悪いものでもない。

 ドイツ観念論系の考え方だと、政治は理想を達成するための方法だが、英国経験論系の考え方における政治の役割は利害の調整になる。
 ナチズムだって、あれはあれで理想を追求する革新運動だったのだから、問題なのは理想の内容なのはあたりまえだ。
 経験論系の利害の調整という考え方に対して、日本では嫌な顔をする人がいる。金権的な汚らわしい権力を想像するのかもしれない。
 利害という場合、誰の利害なのか、どういう利害なのかが問題になる。労働者の利害もあれば資本家の利害もある。南の地方の利害もあれば、北の地方の利害もある。利害の調整を通じて、その関係者に政治的利益をもたらすというのは、それほど悪い考えではない。
 特に、政治の限界をわきまえる事は権力の暴走の抑止につながる。
 これが理想追求型の権力の場合、歯止めがない事は、20世紀の経験で明らかだ。

「改革」もいいかどうかは内容と結果による。浅い考えで、何でもかんでも改革すればいいと思いこんでいる人というのはいるけれど、迷惑なだけという事が多い。

 支那武術では、変化というのは物事が満ちた時に自然と変わる機があるから、そこで変化をする。変化は同じであるために行う。敵との関係で優位にいたら、変わる必要はない。しかし、敵が動いて優位になろうとしたら、こちらも変わらねば優位を保てない。それが同じであるために変わるという事だと教えてもらった。
 変わる事を自己目的化してしまうと、自ら優位を崩してしまいかねない。読みが浅かったり、考えが浅い者は信をおけないのはこういう理由だ。

 内容のいい革新であれば結構だが、戦後の日本共産党を家元とする「革新でござい」が良かった試しはない。日本をソ連に売り渡す事ばかりを考えていたのだから良いわけがない。表向き何を言おうと、それを真に受けてはいけない。
 日共の言う事は真に受けて、自民党の主張は裏を読もうとするというのは馬鹿げている。

 憲法改正は革新だ。「テロ等準備罪」も革新だ。自衛隊の国軍化も革新だ。これはとても良い革新だ。「革新でござい」とは違う、本当の革新だ。これが革新だと理解できない人は、骨の髄まで反動だと思う。
 昔の流行作家が「テロ等準備罪」成立で日本が孤立すると言った。
 おいおい、これを成立させないと孤立するんだよと呆れた。嫌なものを見せられたもんだ。情弱劇場の出し物は本当に出来が悪い。

 猫はもう眠っている。






消えたマドンナたち あるいは、消えるべくして消えたおばさんたち

 昔々、土井たか子という人がいました。アニメの「笑うセールスマン」に出てくる喪黒福造によく似た顔の婦人で、憲法学者でした。社会党(現社民党)の党首になって人気が出ました。それで選挙に女性候補者を沢山立てました。沢山当選しました。マスコミはこれを「マドンナ・ブーム」と呼んでもてはやしました。
 土井たか子さんは「山が動いた」と意気込みましたが、そこが頂点で、その後の社会党は凋落の一途を辿りました。

 そんな事はよくあります。







都民、やっちゃったね

 小池百合子が強いのは、他が真面目にやっている時に、私利私欲で抜け駆けをするからだ。ズルのいいとこ取りをした後の誤魔化しは雑だが、今のところはマスコミの能力が低いのと、反自民なら何でもいいというシフトになっているので格好がついて来た。
 これを勝負強いと勘違いしてはいけない。内容のない嘘は結局バレる。だから、自民党は動揺しないで再建に取り組めばいい。演出やマスコミ操作などは枝葉の事だから、そんな事に血道を上げる必要はない。そこで苦労しても、あまり成果が上がらないのは経験済みだと思う。

 小池は、築地の移転でやったように、人質をとって人を困らせながら点数を稼ごうとする。オリンピックは人質だし、東京そのものも人質となった。まあ、我慢して失敗するのを傍観するしかない。結果は無残でも、都民の選択なのだから引き受けるしかない。

 しかし、まあ、やっちゃったね。





2017年7月3日月曜日

手応えのあるウンコをすると、俺も男だと感じる

 湿度と低気圧・・・参った。降参だ・・・

 ののしり議員の豊田真由子、ああいうのは他人にやっちゃいけない。女房だったら、あのくらいいくらでもいる。家庭内豊田だ。

 豊田真由子の亭主はどうやりくりしてんのかな?

 男をゲンナリさせる女ってのは、沢山いるというか、実は全部そうなんじゃないかと思うようになった。

 女に権力を持たせると、大抵はダメだね。残念ながらね。本当に頭のいい女は、政治家なんかになろうとしないのかね。馬鹿馬鹿しい仕事だからね。

 自分の指揮下で仕事をしている人間を使用人と間違える人ってけっこういるよね。区別がついてない。馬鹿の典型だ。

 昔、クレージーキャッツの桜井センリがよく割烹着着て女房役をやっていた。亭主はハナ肇で、名前は野々山さんだった。これはハナ肇の本名だ。ザ・ピーナツは野々山さんの娘だったから、母親は桜井センリになる。
 桜井センリは楽しい時に「ケケケ」と笑うのだけれど、これを聞くと何だか色々と嫌になった。でも、今、女というものは、本質的に割烹着の桜井センリだと思うと、とても納得ができる。
 これは、救いもないし、好ましくもないが、否定しきれない認識のように感じる。

 男ってのは、女の気にいるようには出来ないものだ。女房に頭があがるようじゃ、男とは言えない。






共産党、マルクス主義は、人類に対する反動なんだけどな・・・

 日本共産党をはじめとする左翼は、自らを「革新陣営でござい」と称している。そして、共産党が敵対する自民党を「保守反動」と規定して来た。
 保守というのは、現状維持で、反動というのは前時代に逆行しようという事だから、「保守反動」というのは矛盾している。これはそんな事を言っている側の考え足らずが恥ずかしいのだが、単なる悪口で「お前の母さんデベソ」と言っているのと同じだから、矛盾などどうでもいいのだろう。「革新陣営」さんたちは感情が理性に勝っている。

 ファシズムは反動思想だと思われているが違う。イタリアとドイツというヨーロッパの出来事なのでいいだろうと判断して、ワイマール期と言うが、イタリアのファッショにしても、ドイツの国家社会主義にしても、ワイマール期の革新思想であり、革新運動だった。内容的にもロシアのボルシェビキ・マルクス主義とそう変わらないから、ロシアのマルクス主義を入れてもいい。
 イタリアン・ファッショはサンジカリズムの展開だったし、ドイツ・ナチズムは未来の第三帝国に向けての革新運動だった。ナチスが第二帝国復古を言ったのなら反動だと言えるが、第三帝国だったのだから革新になる。
 ドイツにおいて、共産主義とナチズムは革新競争をし、ナチスが勝ったために、共産主義者の多くがナチスになった。これは転向者にとって革新運動の乗り換えに過ぎなかっただろう。

 ソ連のスパイ、ゾルゲ機関にいたドイツ人たちにも、ナチスへの転向を考える者が続出していた。ソ連は捕虜交換を断る事で日本にゾルゲを殺させたが、露探の末路などそんなものだ。

 日本の明治維新の「王政復古」「尊皇攘夷」も、江戸時代においては革新思想だったのは誰にでもわかる事だと思う。
 これに対してフランスの王権派は革命に対する反動勢力になるだろう。
 ナポレオンはどうだろうか? ジャコバンの目に余る恐怖政治を経た革命フランスをまとめたという風に見ると反動とは言えないかもしれない。フランス革命の内容があまりに悪かったから、ナポレオン支持者にはそれなりの説得力があるかもしれない。

 ヨーロッパはローマ帝国に対する独特な深い敬愛があり、反動の根元がローマにあるように思える。ローマ帝国がヨーロッパを支配した時代が古代であり、カトリック教会がローマに陣取り、ヨーロッパを支配した時代を中世と見なせる。カトリック教会もローマ帝国の延長だ。ブルボン王朝は、カトリック教会に色々とちょっかいをかけていたから、フランス革命の前には、イエズス会が反王政の陰謀を画策していた。
 カトリック教会の積極的な部分は反動だろうし、穏健な部分は現状維持だと考えられる。これは一般的モデルを適用しただけだから間違っている可能性がある。
 教会を反動だと見ると、ブルボン王朝は相対的に革新的な役割を果たした場面もあった。また、ナポレオンは、抵抗するマルタ騎士団修道会を撃破した後、武装解除を行ったが、イスラム軍ですら、マルタ騎士団に武装したままの投降を許したのを考えると、厳しい対応だった。

 これらをまとめて反動と規定すると、反動の中に対立があったですませられるが、そうしてもいいかどうかは疑問だ。ヨーロッパでは法律に関して今でもローマ法、ナポレオン法典が参照される。つまり、このあたりはかなり深いところまで考察しなければならないし、ラテン語の力も必要とするかもしれないので、とうてい無理のような気もする領域だ(おそらく放置するだろうが、これは一応宿題としよう)。


 もっと近いところで言えば、ロシアでボルシェビキ権力復活を目指したら反動だ。東欧圏でソ連圏再建を目指したら反動だ。これはわかりやすい。

 チベット人が中共帝国主義に賛同し、支配を賞賛したら売国奴の反動だ。これもわかりやすい。

 色々と書き連ねて来たが、日本共産党は保守も反動も革新も、こんな風に、歴史に照らし合わせ、実情に鑑みと手間をかけて考えてはいない。彼らはこう思っているだろうと考えられるのは以下だ。

 自分たち=革新
 自分たちと遠い=保守反動
 自分たちに近い=革新陣営

 こういう相対的な位置関係を、あたかも絶対的なものであるかのように考えているだけだと考えても、おそらく少ししか間違っていない。
 その革新が、ソ連や支那によって保証されていたにすぎないのはもちろんだ。

 そういう事だから、何をするかではなく、誰がするかが問題だった。
 物事を改め、良くして行こうとしても、自分たちとは遠い自民党がやろうとすると反対して来た。言葉の本当の意味での革新を、彼らは邪魔して来た。
 そして、彼らがやろうとしたり、やって来たのは、自分たちに近い者の利益になるような政治的誘導だった。公務員の革新陣営支持者の利益、朝鮮人、支那人を優遇を誘導して来た。
 彼らは日本国民の利益を差し置いて、いや、不利益になっても、公務員の既得権益、利権、外国人の優遇を保守し、拡大しようとして来た。
 彼らの感覚に即して、その理由を言えば、日本人はマルクス主義によって浄化されていない、汚れた者たちだからだ。

 自民党は、色々な手合がいて怪しい者たちもいるが、本筋として、物事を改革し、刷新して来た。言葉の本当の意味での革新は自民党が担って来た。
 それに対して、共産党などの「革新」陣営は、言葉の正確な意味での「革新」ではなく、偽革新であり、自民党の革新を阻害する、(そういう意味で)「反動」であり続けた。

 共産党は看板だけの「革新」であり、実際は最も反動的な反動だ。
 反動の仲間の民進党も反動だ。

 今、自民党と維新の会は革新的だが、おそらくそうした自覚はあるはずだ。ただ、一般的に「型」として流通している「革新」と「保守」の区分けがあるため、自らを保守とするしかないのだろう。実に馬鹿馬鹿しい事だ。












南千住は


将門Web というサイトに いつも姪に言われていました という記事があった。


2017年07月01日

いつも姪に言われていました

   私はいつも会うたびに言っていたのです。姪が南千住の大きな素敵なマンションに住みだしたときから、
       南千住の駅前の飲み屋には、『「地下足袋の方お断わり」という紙が貼ってある』と言いまして、

「周ちゃんはいつもいうけれど、それは一体いつの話だ」と言われてあきれはてていたものでした。
  でもこういう偏見も忘れちゃあ、いけないよなあ。こういう偏見は確かにひどいですね。周ちゃんはいつも偏見だらけのひどい伯父さんになっていました。


 楽しく、しみじみする記事です。
 南千住は山谷のドヤ街がある所でした。駅前の通りは骨通りと言います。それは江戸時代に小塚原の処刑場があった所だからです。吉田松陰はここで処刑されています。墓はここの回向院にあります。また、2・26事件の青年将校の墓もここにあります。
 皇道派将校たちが、回向院で会議を開いた事があるとも聞いています。
 回向院には、吉信ちゃんの像もあります。

 泪橋の交差点が台東区と荒川区の境になります。泪橋は、小塚原の刑場に送られる罪人の縁者が、ここまでは付き添っても許されたけれど、この橋で別れねばならない、そういう涙を流す橋だというので言われるようになったのです。鈴ヶ森の刑場にも泪橋はあります。
 江戸の刑場は日本橋に置かれたのが最初で、それから鈴ヶ森と小塚原まで、何度も移転します。それは江戸が膨張を重ねた事を示しています。
 南千住の電柱には、「路上で酒盛りをしない事」などと書かれていました。区が違うので、台東区側と荒川区側では、違う掲示がありました。
 昔は街が臭かったのですが、最近通ったところ、感じませんでした。
 飲み屋の張り紙は知りませんが、どんな店でも軍手を売っていたのを覚えています。もうそんな楽しい事はなくなってしまったようです。

 南千住は再開発されたのですが、その時、骨通りを掘ったところ、本当に沢山の人骨が出て来ました。掘りきれないので、結局、まだ沢山埋まっているといいます。
 近くの桜並木は綺麗です。














2017年7月2日日曜日

個人的には、未来は残り少ないんだけどさ


 都議会選挙は都民ファースト圧勝のようだ。
 これでしばらくはどうしようもない小池情弱劇場公演になるが、あきらめて耐えるしかない。一番つらい目にあうのは、小池の近くにいる人たちだろうから、心の中でザマ見ろと思いながら、表面では同情なんかしないでいる事にしよう。

 安倍は強いけれど、自民党は弱くだらしがない。そこが自民党らしさでもあるけれど、ダメすぎる。東京の自民党都議連も、年寄りたちがだらしなさすぎた。選挙に負けるのは弱いからだ。なので、この敗北はいいリストラになる。
 小池百合子は頭も良くないし、人柄も悪い。人望も政策もない。自民党都議連を悪役にする事で、自分を正義に見せかけてやって来た。いわばネガティブ・キャンペーンだけでここまで引っ張った。この選挙で、そのやり方が使えなくなる。これから何を言い出すかわからないが、都政を滅茶苦茶にする確率はかなり高いから、この先、評価は下り坂になるだろう。
 毎日、都民ファーストの議員たちに、世界で一番美しいのは誰か聞き、「小池様でございます」と言わせて任期を過ごす事になるかもしれない。

 民主主義だから、多数決に従うが、ここが頂点の小池百合子など、もうどうでもいい。重要なのは、安倍執行部が自民党のリストラと再建をどこまでやり遂げるかだ。日本の未来はそこにかかっている。
 もう自民党は、隠れ共産党や、隠れ北朝鮮、隠れロシア、隠れ支那なんかを飼っておく必要はないと思う。

 本当は別の選択肢もあると良かったが、それはないものねだりになる。無理やりないものねだりをするのは左翼やモンスターに任せておこう。








やっぱ、ブルースはいいよな

 映画で思い出した。

 ブルースの名作に「モジョ・ワーキング」という曲がある。マディー・ウォーターズでよく知られている曲だ。
 何かのライブで、その時にベースを弾いていたMG’sのドナルド・ダック・ダンが熱演のあまりブレイクする所を止まりきれず、おっとっとと残ってしまった。マディがおやおやという感じで間をとって、エンディングに持っていくのだが、その感じが良くて、好きになった曲だ。マディーも何回も録音している。

 モジョ・ワーキングというのは、ブードゥーの魔術で、呪力とか、もっとせまく、異性を思い通りにする力の事だ。アメリカのドラマのセリフで、時々この言葉を使っている。たいてい、妙な言い換えになっているか、訳されていないのは、訳しにくい言葉だからだ。
 歌の主人公はこのモジョ・ワーキングを身につけた。でも、好きな彼女には全然効果がない。彼女との恋愛関係はどうにもならない。
 そんなコミカルで切ない場面が最初に歌われる。それからモジョ・ワーキングを手に入れる過去に話が戻る。
 ルイジアナのスワンプ地帯に行く。あのあたりはブードゥーのメッカだ。そして、どんな女でも命令に従わせる事が出来る力を得る。
 でも、彼女には効かない。
 また、話がさかのぼる。
 ジプシー女がアドバイスをしてくれて、色々な技を会得する。
 でも、彼女には効かない。

 そういう歌で、時間を行ったり来たりする構成がコミカルで、でも、せっかく魔力を身に着けたのに彼女には通用しないのが切なくて、大げさな駄法螺話が楽しいし、実によく出来た曲だ。
 この歌の作りが、コメディー映画にあるタイプなので思い出したわけだ。

 ジョニー・ウインターが死ぬ直前に録音した「ステップ・バック」の1つ前の作品「ルーツ」でこの曲をやっている。いい演奏だ。









ブラウン神父のはじまり

 チェスタトンのブラウン神父連作の一番最初の作品の始まりは、空と海、波の色の対比から書き起こされている。
 客船の入港風景を描いた水彩画にリボンがかけてあって、それがほどけると同時に、絵画が実物になり、動き出す感覚は、ハリウッド映画にすら優雅さがあった時代の、映画の始まりを思い出させる。
 この始まりだけで、チェスタトンは読む者を作品に招き入れてくれる。まんまと惹き込まれてしまったら、後は不思議な世界をさまようだけだ。
 翻訳で読んだ時には、この最初の感覚がつかめなかった。日本語にしようと思いながら読んでいるわけではないので、この視覚的な感覚までを訳せるものかどうかわからない。訳すだけで大変な、ニュアンスに満ちたチェスタトンの文章だから至難の技となるのは必定、あまりそういう事を考えないで読んでいる。
 楽しみたいのだから当然だ。







しかし、みっともない連中だな

 7月1日、秋葉原で自民党の安倍晋三首相が街頭演説で演説を行った時に、横断幕やプラカードを持った1団が大声を上げて演説を邪魔したという。

 明治時代、国に選挙を行わせ、実際の投票にあたって、投票そのものを阻止すべく投票場の入り口を固めた国権派右翼・警察に抜刀で突撃し、身を挺して投票の血路を開いた自由民権運動の精神に真っ向から敵対するもので、問答無用の全体主義的行為だ。

 大声で人の演説を邪魔する行為は暴力だ。この1団は暴力で選挙に干渉しようとした。
 これをやったのが右翼であれ左翼であれ、同じだ。このような暴力によって選挙に干渉する行為は日本国民に対する敵対だ。

 馬鹿者の馬鹿げた行為にいきり立つ気持ちはないが、これをやった者たちが馬鹿であるのは言っておこう。また、馬鹿者共を動員した者たちは極めて悪質な全体主義を体現する者たちである事も言っておく。これは批難だ。

 この者たちの馬鹿で無思慮で軽薄で無自覚で醜悪な暴力が、何かに結びついて行かない事を願う。

 で、結局、何をしたいんだ? 面白いのか?

 この者たちへの抗議を明らかにする。


2017年7月1日土曜日

クリペプはクリス・ペプラー

 アメタイ と言ったら、「何だそれ?」と聞かれた。
「アメリカ大使館の事だ」と教えた。ついでに、
 ブリカン =ブリティッシュ・カウンシル 
 ヨウハイ =アメリカン・スクール。文字を当てると 洋ハイ
 ヨウモク =外国煙草

 と教えた。

 横浜で、昔の横浜市歌が好きで、21という店をトニーワンと呼ぶような奴らが、ヨーハイを嫌ってたな。ナポレオン党の世代は、原宿の野獣会とモメて・・・

 スタイル・カウンシルというバンドがあったけど、これで行くとスタカンかな・・・

 駅名だと、

 ノガミ =上野
 エンコ =浅草
 ブクロ =池袋

 かなり後になって、自由が丘は オカジュー

 そんな言い方をしている人たちが、昔々生息していた。

 全然関係ないけど、何でタクシーはオートンだったんだろう?

終わりの終わりとしての情弱劇場

 安倍政権の支持率が下がっているらしい。
 どこで下がっているかというと、高齢者層、もっと言うと「情報弱者」とされる層で顕著に下がったようだ。
 それは不思議な話ではない。支持率の統計調査をしたり、統計調査の結果を発表するのが「情報弱者」を囲い込んで閉じているマスコミだからだ。
 マスコミは、情報弱者向けに、情報弱者にフィットしたセンスの「報道」をしている。それが昂じて勇み足や頓珍漢が目立つほど情報弱者、略して情弱に適合している。
 マスコミが「報じて」いる事を見ていると、情弱感あふれる内容で、情弱界のありようを垣間見させてくれる。ありがたや。
 マスコミは世界や日本についてではなく、情弱についてだけ良く知らせてくれる。ひとつの出来事に対して、情弱からの視点だけで知らせてくれる。これは、もう情弱劇場と考えた方がいい。
 朝新聞を読み、1日中テレビを見て、情弱劇場に触れていると、情弱(向け)の視点でしかものを見られなくなる。
 比喩的に言うと、情弱劇場では、火のないところに煙を立て、放火犯を英雄として扱う(アレ? ヒトラーは放火し、罪を共産主義者になすりつけたっけ?)。それに疑問を差し挟む事はないらしい。
 情報を遮断し、一方的な主張を延々と繰り返すのを1日中見ている。これは洗脳だ。
 情報に触れたくてマスコミを頼りにしているのに、その信頼を裏切り、自分たちのコードに沿った、あまり客観性のない内容を提供している。情弱劇場では、事実を知ろうとすると進歩的な説教を聞かされる。筋の通らない部分は倫理で飛び越されてしまう。何だかカフカだね。
 これは、知と情報の集団自殺だ(人民寺院事件て知ってる。凄く古い話だけどね)。

 情弱層ではなくても、まだ、マスコミの情弱劇場に、つい影響されてしまう事があるが、それはわりと多くの人がひっかかっている所のようだ。でも、そのうちひっかかるのは情弱劇場の観客だけになる。
 情弱劇場よりも、新喜劇や演芸場の方がいいし(浪曲が好きなんだ)、ネットで動画を見るからね。

 安倍政権の支持率の低下は、主にそういう情弱劇場での出来事で、日本全体の現実を代表しているとは言えないように思う。
 情弱劇場では、安倍政権はどんどん支持率を落としていくのだろう。

 でも、それが何か?






 

オバオバオバの関敬六と関の孫六は何の関係もない

 自民党の二階が
「変なものを打ち上げてくる“気違いみたいな国”がある」
 って言ったんだってね。それで、マスコミが、
「精神障害者に対する差別的表現で北朝鮮を批判」
 したと批難している。
 そりゃ、北朝鮮と一緒にされたら精神障害者が怒るかもしれないね。

 で、北朝鮮は外れ値の道を邁進してて、餓死者が出ようとどうしようと、軍備増強だけは凄まじい勢いでやっている。ミサイル一発飛ばす燃料代で、国民のどれほどが食える事か・・・でも、日本から行った連合赤軍は、普段はドイツ車とか乗り回し、年末には政府支給の牛1頭を丸ごと焼肉にして食ってたり、飢えるなんて事なく、特権階級として安穏と暮らしている。恥ずかしい連中だ。
 あいつらハイジャックして北朝鮮に行ったんだけど、ハイジャックを最初にやったのは、パレスチナの医学生。そいつはPFLPを作り、世界中の航空会社から莫大な金を脅し取り、金を払わない会社の職員を殺したりした。つまり、卑劣な金の亡者。
 パレスチナ・ゲリラは、ソ連の武器の卸問屋をやって資金源にしていた。ヨーロッパの過激派テロ組織は、銀行強盗、誘拐、密輸など、ありとあらゆる非合法な資金集めをやって武器を買っていた。ドイツのバーダー・マインホフ集団、イタリアの赤い旅団、みんな同じで、暗殺や破壊行為などの政治テロと犯罪を同時にやっていた。
 その背後にパレスチナ・ゲリラがいて、さらにソビエトがいた。

 南米では、キューバがパレスチナ・ゲリラの役割を担っていて、左翼ゲリラは麻薬カルテルとコラボするか、自ら栽培・精製・卸業をやって資金を作り、キューバからソビエトの武器を買った。
 キューバは、南米の麻薬を北米に密輸する中継基地もやっていて、キューバから出たスピードボートがマイアミに麻薬を運んだ(これを取り締まってたのがマイアミ・バイス)。
 南米の左翼ゲリラも犯罪のデパートで、誘拐から何から何でもやった。
 南米の麻薬カルテルが平気で政府軍と交戦するのは、左翼ゲリラがカルテルの用心棒をやっているからで、場合によっては、キューバ軍やソ連軍の秘密部隊が出ていた可能性もある。

 こうして得た資金を、左翼ゲリラは資金洗浄し、合法的に投資したりしている。パレスチナのPLOは物凄い資産を持っていた。その金のせいで心得違いをしたかアラファトのカカァは、ブランド気違いで、金遣いが荒いと言われてきた評判の悪い女だった。

 ブランド婆ァのみっともない話は横に置いて、政治テロと犯罪が結びついた過去の体験から、そして、そこで得られた資金が地下経済に流れ込み、世界経済秩序への大きなノイズとなっている事から、国際的な協調によって「テロ等準備罪」が整備される流れになった。
 また、サイバー・テロの背後に、ロシア、支那、北朝鮮が介在すると言われているが、これに対処するための法的整備のためにも「テロ等準備罪」は重要なマイルストーンとなると考えられる。

「国民が監視される」などと、国民を犯罪者扱いした寝言をほざく前に、野党は問題を認識し、問題解決のためにこれでいいのかどうかを考え、議論し、足りないならそれを補足すべく議論を深め、度を越しているなら改めるよう求めるといった、本来あるべきであり、そのために作られている国会の手順を踏まえ、自分たちに投票してくれた国民の期待に応えるべきだった。

 で、二階の話だけど、普段家の中で何言ってもいいのはあたりまえの事だ。しかし、一歩外に出たら、言動に気をつけなければならないのもあたりまえの事だ。気違いが差別用語だとは考えないが、それとは別に、禁止用語に順応し、言い換えに汲々としているマスコミが問題にするのはわかりきっているのだから、確信犯でなければ口を滑らせるべきではない。
「吐いたツバ飲めや」と言われるに決まってるだろ。
 で、問題にされると、
「そういうつもりはなかった」
 とマヌケな弁明をするが、意図がどうあれ、言った言葉が問題なのだから、話は違う。もし、いい意味で言ったとしても、問題にされるのは仕方がない。
 まあ、北朝鮮を「いい意味で気違いみたいな国」とは言えないから、悪い意味で、批難したのも明らかなんだしね。北朝鮮寄りの人間もいるんだから、そういう連中をエキサイトさせて何になるか、政治的に判断できるかどうかという問題なんだぜ。
 政治家という立場があるんだから、常識を持って、わざわざ余計な事を言うべきではない。二階、意外と駄目なのかね。

 マスコミは、自主規制である禁止用語に過剰適応しているが、それは圧力団体の糾弾が怖いからだ。差別用語などを決めて使用を糾弾する言葉狩りは、「差別」という葵の御紋の御威光でもってマスコミを脅しあげるのに有効な戦術だったようだ。
 言葉に対する意識の低い者、悪意のある者、感覚の鈍い者を手っ取り早く黙らせるには、有効だったのだろう。だが、その有効さは、
「そう言うとマズイみたいよ」
 と言ったひそひそ話を生み出し、本質的な所では事態を悪化させた可能性がある。
 表立った表現がクレンジングされるのは大きな実感があるだろうが、影でかわされるひそひそ話には実感がない。差別的表現と現実は結びついていた。その表現で人が深く傷つく現実があったのもわかる。せめてそうやって心無い言葉で傷つくのだけはやめさせたいというのもわかる。しかし、表現のクレンジングは進められたが、現実は潜在してしまった。後はクレンジングのモグラ叩きになってしまったように見える。

 インターネットは消毒されていない。禁止用語という葵の御紋も通用しない。そのせいだろうか、マスコミはオーディエンスたる高齢者に、インターネットの情報も含めた広い情報をオープンに提供せず、囲い込んでしまった。その結果、「情報弱者」と言われる層が生まれた。マスコミのやっている事は支那や北朝鮮の情報統制に近い。あるいは、戦時中の大本営発表に似ているかもしれない。
 戦争になると報道が嘘ばっかりになるのはどこの国も一緒で、ヨーロッパだと敵の報道を読み合ったりしていたものなのだから、日本の大本営発表ばかりが悪く言われるほどの事はないのだが、今のマスコミの情報封鎖は臆病と知能低下が原因であり、同情の余地はない。













2017年6月29日木曜日

CO2よ今何処

 東日本の大震災の前まで、ドイツのメルケル首相はドイツで原発を推進すべく事を進めていた。CO2問題に対処するためだ。それで、ドイツとロシアの企業がコラボするところまで行っていた。
 それがフクシマでパーになった。
 ドイツは、原発大国フランスが隣で、そのフランスをしっかり従えてるから、足りない電力はフランスから買えばいい。EUの枠組みは、そういう意味でも都合がいいという事なのかな。

 そして、CO2はどこかに消えて行った・・・

伴淳三郎は「やんな!」と言った

 バニラエア騒動で一番酷かったのは、またもやマスコミだった。
 お涙頂戴は昔からマスコミの大好物だったが、今回、何だかわけの分からないイラストまで出して一大興行にした。
 イラストだぜ。絵だよ、絵。印象操作の最たるものじゃないのか?

 記事やニュースでの話はちぐはぐだし、何がどうなってるのかわからないし、本当に取材してるのかどうか怪しいまま、様々な人たちが早々とコメントを出し始めた。

 根本的に人権に関わる重要な事に対して、マスコミは拙速が過ぎた。どうせすぐに別れる芸能人の惚れた腫れただのとは話が違うんだぜ。いい加減にしろよ。

 しかし、イラストか・・・絵か・・・今後、記事の文章にイラストをつけて、何でもかんでも、好きなように伝えるといいよ。今と変わらないから。


 オレ、イラストがかけたら、蓮舫がパスポートでババ抜きやってる場面なんかかくかな。




エレーヌは待っても来ない

 エレーヌ・ブラン、フランス語では著書が出ている。
 英語だって、必死なのに、フランス語なんかまったく勉強していない。
 問題はそこにある。

 ああ、一度、ちょっとと思って、英仏併記のボードレール詩集に手をつけてみたら、堀口大学が誤訳しているのを見つけ(フォンテーヌね)、しかも、誤訳が継承されていて、訳書だと誤訳本の方が多くて、正しい訳の人が少ないのを知って愕然とし、何だか嫌になって放り出してしまった事があった。
 堀口大学、ボードレールとは相性が悪かったんだと思うけど、それでも日本に紹介しなければという使命感があったんだろうね。で、よくわからないけど、精密にやるのは後に続くを信じて、とにかくやっつけたんだろうな。師の誤りを正していない弟子どもは、墓の中ででも恥じるべきだ。

 アマゾンでリストを眺め、ため息をつく。面白そうなのがあった。

 読みたいんだけど・・・



 

オレ、航空会社じゃなくて良かった

 昔から、左翼がさんざん身障者をダシにして行政やら企業に因縁つけて来た。そういう中に長い間いたら、それがあたりまえだと心得るようになってしまう人が出てきても当然だ。左翼は自分だけは特別だと無意識に思っている人が多いから(正義だからね、始末がつかない)、そういう無意識も共有する。身障者である事はおそらくつらい所が沢山あるだろうから、そういう無意識は慰めになるだろう。
 しかし、行政と企業、社会と個人の区別をつけられない場合、正義はわがままに転落する。
 格安とバリアフリーがトレードオフになってしまうが、事前に連絡すれば対処がなされるのに、連絡なしに行って対処を迫るというのは、主観的に正義であっても、わがままの押しつけでしかない。

 行政の人間とかは、そういう事は知っているだろう。でも、議会が認めて予算がつくのならそれでいいだろうし、何となくバリアフリーの正義に逆らうのも気が引けるし、物言えば唇寒しだから黙っている。
 企業も、風評が怖いから、お詫びぐらいする。どうせ、設備の拡充を行っていたところだったというし、拡充の寸前にやられたという事で割り切れない感じは残るだろうが、そこにこだわっていてもビジネスで得にはならない。悪うございましたと頭を下げ、早く終わらせる方が利口だと判断したのだろう。普通、そうする。

 昔、故吉本隆明が、講演中に、うまくしゃべれない身障者に質問され、聞き取れないので聞き返したところ、「差別だ」と言い出す者がいた。結局、吉本は怒って、講演を中断したという。
 これはあたりまえだ。これを差別だと言い出す異様な空間を良しとし、馴染めるのは、悪い意味で奇特な人でしかない。

 日本は江戸末期から差別をなくそうと取り組んで来た。紆余曲折があったとはいえ、延々と取り組んで来た。ポピュリズムで差別に与する方が安直であっても、人道から外れる事を良しとしないで来た。そのせめぎあいは続いている。

 バニラエアで掟破りをやった人は、バリアフリーが絶対的な至上の正義だという感覚を持っているのかもしれない。それを事前連絡という形にされると、ありがたみが減るね。 

 バニラエアは対処しないと言っているのではない。対処するために事前連絡をしてくれと言っているだけだ。それは、対処する側にも都合があるという、あたりまえの話でしかない。

 差別などない方がいいに決っている。そして、事前連絡は差別ではない。












エレーヌ、待っているんだよ


ショパン猪狩はアーニーパイルで将校相手に比島決戦の歌を歌ってた?

 何だか、阿呆な左翼が口にする決まり文句のひとつを思い出してしまった。
「世の中が戦前と似て来た」
 といった感じの言葉だ。
 よせよと言うしかない。

 その理由の1番目は、
 戦前をそうはっきり知っているとは思えない年齢の人が言っている。

 2番目は、
 根拠を示さず、感じだけで言っている。

 3番目は、
 何度同じセリフを聞いたと思ってるんだ、この野郎!

 という風にまとめていいかと思う。
 はっきり言って、もう何十年も、日本は戦前になど似ていた事はない。
 あの連中が、今、言うとしたら、戦後ではなくなって来ているというのが内容だと推し量れる。
 戦後が終わると、戦前しかないのかぁ? 恐ろしい寝言だな。いや、世迷い言か、この場合、どっちが適切だろうか?

 だが、その寝言は、空っぽになってしまった戦後の今の有り様を、意外とよく表しているかもしれない。

(誤解したがる人のために蛇足ながら付け加えると、戦後がずっと空っぽだったと言っているのではなく、今となっては空虚になったと言っています。空虚になったのは、時間の経過で劣化したのと、食い散らかした人たちがいたからです。もちろん、食い散らかしたのは、食い散らかせる立場にいた人たちです。一例をあげると、従軍慰安婦の強制連行をでっちあげた朝日新聞などが食い散らかした方です)



山盛りご飯に箸立てて

 去年あたりから、日本で一番ポピュリズムに弱いのはマスコミだという事があからさまになった。
 マスコミが高齢者層への影響力を駆使し、若者層はその動向から離れて行く。

 アメリカのトランプ大統領は、ポピュリストと言われているが、マスコミと対決し、大衆の支持を得ている。その理由はアメリカの大衆が、マスコミをエリート層に属していると見て反感を持っているからのようだが、日本の高齢層とマスコミは、感覚的に近いようだ。高齢層は、考えるのが面倒になっているだろうし、考える訓練などしていない時代の人々だから感覚なのだが、マスコミ人の凝り固まった視野と価値観がその感覚にフィットしているのかもしれない。それを別の言い方で表現すると、戦後という事になるのかと思う。
 安倍晋三首相は「戦後レジームからの脱却」を掲げているから、戦後さんたちは取り残されると不安に取り憑かれてしまったのかもしれない。

 スキャンダルにもならないスキャンダルを針小棒大に取り上げたり(注1)、森元首相や自民党都議連やその決定を悪役に仕立てる(注2)やり方は、ポピュリズムそのものと批判されているが、マスコミは自分たちが正義(注3)だと信じ切っているから、まったく意に介さない。

  • 注1:針小棒大という言葉は、針ほどに細いものを、棒の太さだと大げさに言い立てる事をあらわしている。森友などの騒ぎには、針ほどの根拠もない。せめて針程度には実のある話を持ち出してくださいね。
  • 注2:森元首相や自民党の爺さまたち、態度が偉そうだし、説明は下手だし、そういう所で政治家の資質の低い人たちだったからいいようにされてしまった。政治家というのは口説の徒なんだから、長い間、みんなで話し合って決めた事で、その内容は議事録にきちんと公開されているという事を、理解しやすく説明しなくてはいけない。だから、議会で決まった事、つまり、立法府で決まった事は、行政は粛々と実行しなくてはいけないとはっきりさせなければいけなかった。それが出来なかったのは、まあ、頭が悪いのと、感覚が古すぎるのと、もうひとつ、爺さまだから人相が悪かったのとという風に理由が重なってしまったね。それに、挨拶を拒否してみたり、子供じみた行動をしたのもマイナスだった。政治家は政治サービス業に志願して就職しているだけの人だという自覚を持ち、ストレスに耐える事、冷静さを保ち、感情的にならない事、仕事をする事、言葉に重々気をつける事、身ぎれいにする事といった諸々を守れなければいけない。
  • 注3:マスコミが正義だとふんぞり返っていられたのも戦後的感覚だね。マスコミの正義というのは、事実を掘り起こして来る事によって担保されるしかないが、そのあたりが転倒してしまうと、善悪を先に決めてしまって、印象に依存した報道に走ってしまうのではないかと思う。それは「印象操作」といった高度なものではなくて、ただ印象に依存しているだけだ。だから、その印象に依存しない人、印象を共有しない人には、何やってんだ? としか見られない。たとえば、森元首相や自民党都議連がいくら感じ悪くても、悪人に見えたとしても、違法行為、背信行為をしたという事実をつかんだのでないなら、安易に悪役に仕立て上げてはならない。それこそ、おそらく戦前のドイツ人には悪い印象しか持たれていなかったユダヤ人を大虐殺するまで悪役にしたてたのが、ドイツのポピュリズムだった。マスコミは、嫌いだからといって、また、自分と違うからといって、それを理由に悪役を作り上げてはいけない。その意味で、去年あたりから、マスコミは顕著にタガを外している。
 マスコミは、自分たちが正義だから、自分たちが嫌いな存在は自動的に悪になってしまうのだろう。そういうマスコミ様を信心しているのは高齢者らしいから、絵としてはまとまっている。昔から、婆さんは信心に熱心になるものだ。そして、若者が信心など見向きもしないのもあたりまえの話だ。

 これまでは自民党の爺さまたちも、マスコミも、左翼も、省庁も戦後を共有して来た。これにヒビが入ったのは、戦後というパイが縮小しているからだろう。だから押しのけあっている。しかし、まともだったら、もうそれは食えないから、新しく日本がみんなで食えるようにして行こうよとなる。そんな事もわからないようだから、戦後にしがみつく人たちは、まともな人々から冷たい目で見られて当然だ。

 破綻した正義が、破綻していないものは悪だと決めつけ、襲いかかる姿は、信心の世界で言うと餓鬼と表現する。南無阿弥陀仏。








2017年6月27日火曜日

批判は、感情を表に出さないで行われる悪口だが、馬鹿は丸出しになる

 今井絵理子という自民党の参議院議員が「「批判なき選挙、批判なき政治」を目指して」と言っているのが話題になっているらしい。教えてくれた人がいる。
 今井がそんな政策とは言えないような政策を掲げている背景には、批判が悪い事だと思っている若い人が増えているという話になっているのだと言う。
 批判の何が良くないかというと、「批判は悪口や人格否定と同じ」だというわけだ。
 ええと、そこはまとめた方が良くて、「批判は批難と同じ」という風にしてみようか。そう感じる人が多いのだという。
 昔々、おじいさんがまだ子供だった頃、
「批判は批難と違う。君のは批難だ」
 と言って、相手をはねつける言い方があった。横で聞いていて、それはそうだけれども、その違いを言ってくれないかな、どこが批難なのか指摘してくれるないかな・・・などと思ったものだが、たいてい、その後は
「何だとこの野郎」
 となるか、あるいは、そのまま手が出るとかいう展開になってしまったので、疑問は解消されなかった。
 で、今、そこは矛盾していないかとか、飛躍があるようだねとか、説明が飛んでいるよとか、そういう指摘というか、疑問を表明する場合、半ば以上批難していると思う。

 例えば、社民党県連常任幹事も務める徳島市の小林雄樹市議が、徳島駅周辺で制服の女子生徒のスカート内を盗撮した容疑で事情聴取され、スマホにパンツが写った写真が2枚あったという話題で、社民党所属小林雄樹徳島市市議本人が駅前整備のための調査で写真撮影をしていたが、知らない間に写り込んでいたと釈明したのをテレビで見て、

「んなわけないやろ」
 と、画面に向かってなぜか上方言葉で言うのは、ほぼ批難の色で染まっている。
 そして、

 スマホを手に持った社民党所属の小林徳島市議の行動を目撃した人が不審に思い、近くの交番に届け出たという発覚の経緯を知り、さらに、社民党の小林市議が最初、以前に勤めていた職場の懇親会に出席するために駅前を歩いていたと言っていたのを知るにおよんで、


「んの野郎、嘘ばかり抜かしやがって、ただのエロ議員じゃねえか!」
 と言うのも批難だ。
 本当は、もっと豊富な語彙を駆使し、多くの点に触れたのだが、思い返すと公表するに耐えないので割愛する。つまり、99.99%ぐらいカットした事だけはお伝えしておく。とにかく、口を極めて悪く言った。

 さて、ここで批判と批難はどれだけ違うだろうか? 例えば、誰かの容姿を、
「コラ、このしゃくれ」
 とか言ったら、これはただの悪口だ。
 しかし、批判の中に皮肉を入れるという事はよくある。この皮肉というものは悪意の化身だから、つい口から出た悪口よりも良くないものだ。うまい皮肉は面白いけれど。

 批判も悪口も、暴力につながる可能性があるのは同じだ。
 批判されるのが嫌なのは、誰でも、洋の東西を問わず同じだし、感情的になるのも同じだ。ただ、抑制しているだけだ。
 じゃあ、ない方がいいのかというと、日常生活を円滑なものとするには、批判などない方がいい。選挙ではどうかというと、ネガティブ・キャンペーンは嫌なものだからやらない方がいい。批判なき政治は・・・どうだろうね?

 でも、アスリートの世界では、自分が自分を批判的に見ているだろうし、他の選手からも批判的に見られているだろう。
 ここがいい、あそこがだめだと、お互いに見ている。それはアスリートの世界、あるいは、プロの世界として当然の事だ。その冷徹な目がなければ自分をいじめ抜いて上に行く事はできない。

 だが、一般的には、人間は感情的で、批判と批難の区別などない。何もない時にはそんな区別があるつもりでいても、いざとなると区別など吹っ飛んでしまう。批判的に見る能力を持っている人も多くはない。ある人が批判能力がないとしても、それはしかたがない。その能力がないんだから無理だ。

 批判があるべき形で成立する特別な場所はあるだろう。でも、それは限られているという事だ。多くの空間では、批判と悪口の区別がなくなってしまう。だから争いの元となる批判は避ける方が賢明だろう。
 若者が批判を悪い事だとみなしたり、感じたりするのは、生活を営む上では正しいと考えられる。批判など避けて楽しくやるのがいい。

 今井絵理子参議の政治の世界に戻ろう。
 政治の世界では、立場の違い、争いが前提だから、批判も批難も悪口も人格否定も歪曲も嘘も何でもある。批判能力があろうとなかろうと、向かい合わなければならない。
 言い方を変えると、政治というのは争いというケガレを引き受けるものだから、そこで「批判なき」なんて言うのは、ケガレを引き受けないと言っているのと同じ事になってしまうと思う。あまり前向きではないしね。
 つまり、批判を問題にする事は政治的には間違っている。沖縄に早く基地を作ろうとか、原子力発電所を早く稼働させようとか、そういう前向きの中身を言うだけでいい。
「(何々)なき」というのが前向きではないのだ。中身がない感じになる。

 一応、付け加えておけば、英国あたりには、今井のように「批判なき政治」なんて考えてる政治家がいるかもしれないとは思う。英国人、上の階級に間抜けがいるしね。
 
 何か批判していると自分が頭がいいと感じられて気持ちがいいという人もいると思う。
 個人的には悪口は好きだが、批判は面倒臭い。
 悪口は感情だが、批判は首尾を整える必要があるからだ。
 で、首尾を整えただけ利口に見えるかというと、そうも思えない。努力が無駄になる感じがある。
 本当に頭のいい人は、無意味な批判はしないだろうし、批難もしないだろう。だから、批判などしていると、馬鹿にしか見えないと考えるべきだ。

 一番重要なのは、馬鹿丸出しではない批判というのは、とても難しいもので、とても少ないという事だ。
 おそらく、悪意のない批判は、指摘とか、評価とか、別の名称を持つものとなるだろう。







2017年6月26日月曜日

由利徹、イヨマンテも好きだった

 ナポレオニの新刊、やっぱりまた遅れた。9月になるそうだ。本当に9月に出るかどうかわからない。
 本が出る前に、IS全滅しちゃうんじゃないか?
 それはその方がいいけど、本は読みたい。

 ロシアがシリアに居座るために、殲滅戦まではやらないかもしれない・・かな・・・



2017年6月25日日曜日

小さな「ぁ」と「・・・」がね・・・ため息感というか、ね

 米大統領選挙へのロシアの介入問題で、米紙ワシントンポストが、
「米中央情報局(CIA)は大統領選前の段階で、プーチン氏がトランプ氏を有利にするためのサイバー作戦に直接関与したと判断。これをオバマ前政権に伝えていた」
 と報じたという。
 だが、オバマ前大統領は何もしなかった。
 オバマ前大統領は、格好をつける事以外、ほとんど何もしなかった人だったけど、こんな事でも知らん顔してた。

 トランプ現大統領は、これを批判しているという。

(記事は以下。CNN)

ロシア介入、オバマ氏は知りつつ「対応せず」 トランプ氏が批判


 ヒラリーはこれでオバマを恨み、憎悪するだろうが、それはお門違いかもしれない。ロシアがトランプに肩入れしていたとしたら、迷惑したのはトランプ以外の共和党候補だった可能性が高い。それに、ヒラリーは元々あからさまにオバマを嫌っていたから、今更憎まれても屁でもないだろう。
 この後は、ヒラリーがユダヤの魔術で呪詛し、ミシェルがブードゥーで呪い返しをする闇の世界が繰り広げられる・・・のは、漫画の世界か・・・

 しかし、クリントン家を支那が応援し、トランプをロシアが応援した感じだね。
 韓国と日本の担当は北朝鮮かぁ・・・

 

 

西郷の遺産

 明治維新後、日本の軍隊は刀を捨て、装備の西洋化を図った。これに対し、西郷隆盛が決起する形となった西南の役において、西郷軍に参加したかつての武士たちは剣を携えていた。もちろん大砲も銃もあったが、刀を捨てる事はなかった。
 政府軍は銃のみを装備としたいたから、西南の役は銃対剣の戦いとして始まった。
 日本の戦史において、戦国時代でも、すでに主力兵器は剣ではなく銃だった。いや、それ以前も、弓矢、槍、薙刀といった武器の方が主流だった。政府軍は緒戦から勝利するはずだった。
 しかし、政府軍は西郷軍の刀に斬り伏せられて行った。
 西郷軍の薩摩勢は薩摩示現流の使い手もいただろうし、維新戦争の兵士たちが多く参加していた。何よりもそこで生まれ育った者たちであり、地の利を活かした柔軟な奇襲作戦を実行できた。
 政府は慌てて、かつて幕府の治安部隊として活動した抜刀隊の生き残りなどを集め、西南の役に投入した。
 これによって、やっと政府軍は西郷軍を制圧したという。
 この戦訓のおかげで剣術が再認識され、警察は剣道を作った。
 実に西郷軍の活躍によって、剣術は残り、剣道が作り出された。
 剣道は、警察剣道に始まる。意図せざるものではあるが、西南の役なくして、後の剣の歴史もない。

 薩摩人が多かった警察剣道が示現流にならなかったのは、示現流が御留流だったためかもしれないし、西郷軍の流派という印象になったためかもしれない。剣道のあの気合が示現流譲りに感じられる事から、西郷をはばかったのが警察剣道、つまり、剣道がまったく別のものとして作り出された理由と、勝手に思いたい。
 明治政府は、西郷の亡霊を恐怖し続けたのである。

国粋主義試論 日本国粋主義の近代 2

 国権派――欧米派と、民権派――国粋派というのが日本近代の政治的対立の形です。
 国権派と民権派は相互に影響しあい、交差しながら近代の政治的動向を形成しました。
 国権派、民権派と言っても、互いに一枚岩というのでもなく、内部の対立や反目もありましたし、野合もありました。さらに、当時の人々の意識や自覚がどのようなものであったかという問題もあり、さほどすっきりと別れてもいません。様々な機微、思惑、感情、そして人間関係が絡まり合う事でもあり、複雑かつ曖昧です。
 民権派で言えば、目立つ所だけでも、民権運動と困民党運動の対立、国粋会と大和民労会の対立、国粋会と水平社の対立などがある他、国粋会そのものも、全国と東京、そして、東京も三多摩は別個に独立した国粋会を作っていました。
 それでも、国権派=西欧派と民権派=国粋派を別けて見る事は、日本近代を理解する上で役に立つと思えます。

 北一輝は民権派ですし、北が革命運動に挺身すべく支那に渡った時、宮崎滔天のつながりを頼りましたが、滔天も民権派でした。滔天は孫文と深くつながっていましたが、北が行動を共にした宋教仁は北の説によれば孫文に暗殺されました(本当にそうだとすれば、実行したのは孫文の懐刀だった蒋介石のコマンドでしょう)。そして、おそらく北が一緒に殺されなかったのは、滔天の存在があったからでしょう。その後、日本に引き揚げた北は、宮中某重大事件の怪文書で山県有朋を失脚させます。
 山県は国権派の中心人物として自由民権運動を徹底的に弾圧しました。秩父事件では寄居に乗り込んで陣頭に立ち、また、大逆事件を策動しました。
 北一輝は、山県への復讐として宮中某重大事件を仕掛けました。そして、おそらく、2・26事件に連座したとして北が処刑されたのは、国権派による報復です。

 国権派と民権派が合同したのが大政翼賛会でした。これが戦後に、多少の紆余曲折を経て自由民主党になります。ですから、自民党には山県有朋の子分の人脈もいれば、宮中某重大事件の怪文書で山県を失脚させた北一輝の弟子だった岸信介の系譜もいるのです。
 戦後の昭和30年代ぐらいまでは、民権運動出身の自民党議員もいました。

 国粋主義が国家主義による社会統制を目指したもの(つまり、ファシズム)であるというのは、日本の近代史に対する重大な誤解です。
 日本国粋主義は、西洋にかぶれ、日本を見下すような病的精神を排するというだけで、排外主義ではありません。健全な愛国主義です。
 国権派の愛国主義が文明開化を焦るあまり、病的な歪みをもたらした事に対する批判から出た、民権派の愛国主義が国粋主義と言っていいでしょう。
 国権派から生じた病的精神のひとつが左翼運動の輸入でした。左翼からは国粋主義が右翼に見えたのは、こうした事情でしょう。左翼からは、自生の民権運動など雑草としてしか見えなかったのです。
 国権派と民権派は共に尊皇攘夷から出た潮流であり、どちらも明治維新の完成という主題を持っていました。「大正維新」「昭和維新」という言葉は、明治維新を完成させる第二維新という文脈で言われたのです。
 それが日本近代を貫く精神でした。 







2017年6月24日土曜日

社会的まだらボケ現象としての文書

 役所の人間は、政治家の名前を勝手に使って、他の政治家に
「○○先生がこうおっしゃってましたんで、お願いします」
 なんてやる。すると、言われた先生は、
「何、○○先生が、そうか、じゃあしかたないな。了承する」
 となって、誰も支持していなかった法案が支持されるようになったりする。もちろん、その役所が出した法案だ。
 これは自民党だけの話ではない。民主党時代もそうだったし、別に政権とは関係なく行われて来た事だ。
 官僚は政治家が馬鹿ばかりなので、いちいち説明するのが面倒になり、こういうやり方を編み出したのだろう。
 福田康夫が、首相時代にこれを注意した事があったと、どこかで読んだ。

 自民党の議員も馬鹿が多いようだが、社民党が社会党だった頃の村山富市(元首相)は心底馬鹿だったので、法案を作った役人に反対意見を作らせようとした事があったという。
法案を作ったのだから、ダメな所もよくわかるだろうという理屈だったらしい。自分で法案を読み、研究し、国民のためにならないと判断するという知性はなく、手間をかける根気もなく、ないないづくしだったから、自民党がこいつが手頃だと見て、与党に返り咲くべく首相にしたんだね。

 このやり方が、対政治家だけでなく、役所内でもやられていたのだとわかったのが加計学園問題だった。

 政治家個人ではなく、役所という組織には文書で伝達したというだけだ。文書といっても話を早くするための潤滑剤みたいなもので、言葉に例えれば、省内だけで通用する業界用語だ。つまり、正式のものではない。
 だから、これを表に出したら、その瞬間に怪文書になる。


 これをルールの話として考えると、役所が政府案として作成した法案を政治家に説明する手間を省いてしまう手法が常態化し、一種のローカルルールとなっていた。
 役所に限らず、会社などでも、組織は、組織のローカルルールに適応する事を求めるものだが、どうしてもローカルルール至上になりがちで、ジェネラルルールが無視されてしまう。
 左翼やカルトなどはこの傾向が強く。ローカルルールはジェネラルルールだと思いこんでいる。こうなるとソシオパスとされる症状だ。
 ソシオパスは良心を備え、共感、罪の意識、忠誠心を持つ能力を持っているが、善悪の判断が、帰属グループや帰属グループのサブカルチャーの規範、期待に基づいている人格。
ローカルルールはおそらく、適応してしまうと居心地がいいのだろう。妙であっても、それを妙だと感じる自意識がなければ部分最適の快感があるかもしれない。
 村一番が、日本一よりも良く、日本一が世界一よりも良いとか好きだと感じる人はいるだろうし、食べ物の好みなどを見れば、世界一のシェフの料理よりも母親の料理を美味しいと思う人がいても不思議ではない。また、これをソシオパスの傾向とは言わない。
(当面、これを程度問題という風に処理するとしよう。ここでの本題ではないので、それで十分だ)。

 ローカルルールがジェネラルルールと取り違えられてしまうと、これは病的な領域に入ってしまう。
 つまり、ローカルルール内のメモが、ジェネラルなものとして、ジェネラルな空間に出てしまうと、事態は病的なものとなってしまう。

 ここで病的なのは、ローカルルールとジェネラルルールの区別がついていない者という事になる。
 文部省もまだらボケしてるし、他も何だか・・・


 そんな事もわからなくなってしまったんだね。






選挙を静かにする方法って、ないのかな???

 都議選か・・・

 美濃部みたいな、最低のゴミ都政が続いた時もあったね。

国粋主義試論 日本国粋主義の近代 1

 国粋主義は自由民権運動から出た考え方です。自由民権運動の起源は普通土佐に求められます。狭義の民権の起源としては土佐でいいでしょうが、ここでは維新を国粋主義の起源として見て行きます。
 その理由は、明治維新にあります。
 幕末時代、徳川幕府も倒幕派もともに思想的には尊皇攘夷でした。京都の治安維持の一翼を担った新選組の「誠」も尊皇攘夷から来ています。
 維新後、明治時代になって天皇を国家主権者とする事で尊王は果たしました。しかし、攘夷はどうするのか。日本近代の問題はそこから発して来ます。
 攘夷論は国学によって支持されていました。明治時代までは国学は平田篤胤派が主流でしたが、平田学派はしきりに攘夷論を唱えたのです。
 しかし、国家権力を掌握した薩長明治政権は開国開化に向かいます。
 明治政権は日本の欧化を急ぎ、人材を留学させ、欧米の文化を積極的に取り入れます。欧化は軍隊の強化に直結したからです。強国のためには富国が必要です。商売には交通交流が欠かせません。語学、それも欧米列強の言葉が重要な位置を占めました。かつての支那語と同じく、これは否応の余地のないものでした。
 欧米列強がアジア、アフリカ、アメリカ大陸を植民地化し、支配している時代でした。軍事力を持っていなければ蹂躙されてしまいます。ロシアも虎視眈々と日本を狙い、勝手に上陸し、英国に追い出してもらわねばならないなどといった事も起きてる時代でした。
 武器兵器の取り扱い方法を知り、戦略戦術を始め、様々な技術を取り入れるのにも語学は不可欠でした。また、列強に肩を並べる文明国の体裁を整えるためには、文学芸術も立派に国家目標の役に立つものでした。
 ただし、その欧化には副作用がともないました。急激な欧化は何から何まで欧米が優れているという認識を生み出し、そこから日本を見下す風潮が生まれました。人は違いと優劣を混同しがちですから、何でもかんでも西欧がいいんだとして、自分が留学した事を威張りたがる輩が目に余ったのでしょう。
 そうした動向を象徴するのが鹿鳴館でしょう。行き過ぎた西欧かぶれと見なされ、反発する風潮が生まれます。
 政治的に、薩長に権力が集中した事に反発する土佐派など、薩摩の西郷派、西郷シンパの生き残り、様々な人々が薩長明治政権に異を唱えていました。土佐に始まった民権運動に、こうした諸潮流が合流して行きます。
 土佐派は、西郷決起の時、合流を目論見ながらも利害にこだわった挙句、期を逸してしまいましたが、おかげで生き残っていたのでした。
 こうして攘夷派の民権派が明治の大きな潮流となりました。この民権派に対して、国家権力中枢を掌握した薩長を中心とする藩閥を国権派と言います。
 近代日本の政治の基底に横たわるのは、この国権派と民権派の対立軸でした。
 国権派の欧化政策のありようが、日本人のくせに日本を見下す西洋かぶれを生み出しました。この鼻持ちならない西洋かぶれに対する異議として唱えられたのが国粋主義でした。
 国粋主義の内容は、日本にも当然いい所は沢山あるのだし、日本が卑下する事はないという考えでした。
 国粋主義は排外主義ではありません。馬鹿げた西洋かぶれは排しますが、自ら誇りを持つが故に西洋も尊重すべきところは尊重し、植民地における横暴といった点はこれを排するという、とても常識的なものです。
 西欧かぶれの元凶が国権派の欧化政策であった事から、民権派は国粋主義でした。
 民権派は自由党を作っていましたが、その自由党の呼びかけで結成された院外団が大日本国粋会でした。
 第一回、第二回の選挙で、警察や国権派右翼が阻止線で包囲する投票所に抜刀で突入し、投票の血路を開いたのは民権派壮士ですが、この人々が自由党や大日本国粋会に参加して行きます。日本の民主主義の選挙は、後に国粋会に集まる民権派壮士の白刃によって切り開かれたのでした。

2017年6月23日金曜日

攘夷の展望、あるいは人斬りの遺産

:これは前のブログに投稿していたものですが、他の投稿に関係するので、こちらに再掲します。

攘夷の展望、あるいは人斬りの遺産


2013/06/14

    幕末に活躍した人斬り彦斎こと、肥後熊本の河上彦斎は佐久間象山を斬った男だが、維新後もかつての同志に攘夷を迫り続けたため、新政府に対する陰謀の罪を着せられて斬刑に処されたという。
攘夷は維新の中心思想であったが、薩長の権力奪取後は焦点を失ってしまう。人斬り半次郎こと、薩摩の中村半次郎は、桐野利秋と改名し、陸軍少将となってしまうと、西洋かぶれをし、チョビヒゲをはやし、西郷隆盛にみっともないからよせとたしなめられる始末だった。
幕末を席巻した攘夷論は、維新後、攘夷のためには国力を蓄える事が先決だとする大攘夷論と、大攘夷論が興ったために「小攘夷」とされてしまう従来の攘夷論に分岐する。
そもそも幕末において、尊皇攘夷派でない政治勢力はなかった。そのため、維新などといっても、所詮は薩長の権力奪取でしかないという見方も出来てしまう。しかし、河上彦斎に見るように、攘夷論は薩長権力の樹立という局面を超え、維新後も続いていた。言葉を変えて言えば、維新は攘夷において未完だった。そのため、攘夷は、維新によって始まった近代日本の基調、あるいは無意識となる。
大東亜共栄圏を掲げ、欧米列強と戦った先の大戦は、一面において、スターリンの謀略、ルーズベルトの思惑、日本自身の領土的野心などが絡まり合い、日本を開戦に追いつめたのだが、一方の機微として東アジアに拡大された攘夷でもあった。 戦前、官僚から軍部皇道派、民間右翼、そして、おそらく民権運動にいたるまで、すでに終わったものとして維新を見てはいなかった。自らが完成させる事として維新を受け止めていた。この意識の根本にあったのが攘夷だと見ていいだろう。
攘夷というと、夜郎自大な排外姿勢と思われているかもしれない。しかし、再び明治に目を転じ、李王朝への外交を見ると、少なくとも初期において明治政府は礼節を持ち、平和的で妥当な態度で関係を結ぼうとしている。結果として征韓論になってしまったのは残念だが、平和的な関係を求める日本に対して、取り付く島もないかたくなな態度を撮り続けたのは李朝だった。ただ、ここではその事の歴史的評価ではなく、この問題を攘夷の質を推測する材料と出来ればいい。攘夷は国家としての日本の独立自立と、他国との平等な関係を、それが平等であるからには平和的に築きあげようとするだけの質を持っていた。
攘夷の夷とは動物の事であり、他の民族を動物に近い野蛮なものとして蔑む意味を持つ言葉だ。しかし、日本の攘夷論には、意味の転倒が繰り込まれている。つまり、野蛮な人倫にもとる行為をする者、何事も無理やりに力で押し通そうとする者を夷とする。だから日本人が外国で自ら夷となるのを戒めるだけの可能性を持っていた。
大東亜戦争に負けた結果、日本は、アメリカを筆頭とする連合国側に、戦前の日本がすべて悪だという意識を擦り込まれた。占領する側の政策としては当然の事なのだろうが、その結果、日本は自らを卑下し、否定し、自虐的になってしまう傾向を持ってしまった。反省と自虐が違うものであるのは当然の話だが、自虐的でなければ反省した事にならないという風潮まで出来てしまった。
戦前に悪いところがなかったはずはないが、どこからどこまで、丸ごとダメだったはずもない。そんなあたりまえの事にすら思い至らない人も少なからずいる。
この奇妙な状態を戦後とすれば、何十年続こうとも、戦後という現象は終わる。そして、日本は維新の完成という、近代日本の根本的な主題に向きあわねばならなくなる。その時、攘夷は始末し、昇華しなければならないものとして現れるだろう。

2017年6月22日木曜日

「監視社会」って、自分が社会不適応だと言っているにすぎない

「テロ等準備罪」の成立で、日本が警察国家になると言っている人々がいるらしい。
 その人達が警察国家をどのように定義して使っているか知らないけれど、定義も何もなく、「昔はオレも過激な事をやったもんだし、今だって気持ちは同じだ」みたいな(・・・)気分から、警察が取り締まり対象とする集団・組織に肩入れして無駄口を叩いているのだとしたら、哀れという以外にない。
 伏せ字にした(・・・)の部分は、「文学的過激派」と読んでいただけると助かる。かつて過激だった人たちは、「文学」という言葉をそのように使い、貶めていた。妄想と文学の違いがわからない、恐ろしい未開人だった。

 警察国家というのは、過剰な権限を与えられた警察が超法規的に国民の行動や表現・思想を監視し、人権や自由を侵害する国家という風に定義するのでいいかと思うが、北朝鮮や支那ではないのだから、心配する必要はない。

 警察が人権侵害をやらないとは思わない。違法な捜査、取り調べをやらないなどとは言わない。だが、今の人員と予算と権限で、日本国民の表現・思想。行動を監視するのは不可能だ。そんな不効率な事はやらない。
 そんな見当違いな事を言って危機感を煽るのは馬鹿げているから、言っている人たちが馬鹿だと判断されるだけだ。

 ヨーロッパでは、テロが起きているが、事前に摘発されるテロもある。すべてを防ぐのは不可能だが、未然に防いだり、迅速に発生したテロの犯人を特定し、背後を洗い出している。日本のように犯人逮捕に何年も何十年もかけていては、また人が殺されてしまう。そういう切迫した中で、日本の法整備が求められたのはあたりまえだ。
 同時に、警官が襲われたと言って、すぐにテロだと断定はせず、きちんとテロとテロではない犯行の区別もつけている。それによって、犯人の人権は守られている。

 テロ事件の防いだり、捜査をするために法整備をしたら警察国家だというのなら、今、世界中が警察国家を求めている事になる。その理由は、警察の権力志向ではなく、人の首を斬って面白がっているISのような、野蛮人によるテロの脅威があるからだ。

 もし、本気で「テロ等準備罪」に反対する人がいるなら、「警察国家」だとか「監視社会」だとか、空虚な言葉を弄んだり、法律でテロは防げないなどと無責任な放言をしていないで、この法律が出て来る背景・根拠を調べ、考えてみるべきだ。手も足も出ないはずだ。



 

知らない人にはわからないだろうけど、今回も解説はしないね

 なぜだか由利徹の胸毛ネックレスを思い出した。
 石川五エ門の入浴場面で使うやつだ。

 由利徹を思い出すと、南利明も出て来る。
 南利明と言えば、
「どえりゃーうみゃーでかんわぬくたまるでよー」
(訳:とても美味しいです。温まります)
 だが、何を言ってるかがわかったのは、随分と後の事だった。

 由利徹の石川五エ門や牢名主、好きだったな。あれが出来る芸人はもういないな。いる必要もないかもしれないけど・・・




ディーン・マーチンを聞きながら

 いつも酔っ払っていた印象のあるディーン・マーチンのマンボ・イタリアーノは楽しい曲だ。いや、マーチンの歌はたいてい楽しいのがいい所だ。心に染みすぎないのが楽なんだね。
 マンボ・イタリアーノの歌唱で言えば、ベット・ミドラーの方が迫力も歌唱力も上だし、楽しめるが、ミドラーが楽しめるのは、ミドラーがマーチンを楽しんでいるのが伝わって来るからだ。そういう芸当はマーチンには不可能で、ミドラーにしか出来ない事なのだが、そういう事が出来ないマーチンはそのまま楽しい。

 マーチンの実人生に苦労があったかなかったか、そういう事は知らないが、芸のありようが、軽みを持っていて、その感じのちょうど良さは類をみないものだった。
 ディーン・マーチンが愛されたのは、そこに多くの人が救いを感じたからだと思う。





言葉の底辺2

 ツイッターを見てたら、目についてしまった。
「強く食いかかった」
 という部分だ。
 これは
「強く食い下がった」
 の書き間違いだ。
 内容はとてもいい指摘なだけに、少し残念だった。

「食ってかかる」と「食い下がる」が混ざり合ってしまったのかもしれない。
 でも、意味から言うと、重ならなりません。



言葉の底辺

 ツイッターの投稿の中に、
「選べられる」
 という言葉があった。投稿内容ではなくて、この言葉遣いを取り上げたい。
 これは、「選ぶことが出来る」という意味を言っていて、「ら」抜きをしないで使っているのだと推測する。「ら」抜きをしたら、
「選べれる」
 という言い方になる。読んでも聞いても醜悪だ。
 でも、「選べられる」も間違いだ。
「選ぶことが出来る」という意味は、
「選べる」
 で十分だ。

 例:
 好きな色を選べるのがいいね。

 ちゃんと通じるはずだ。すっきりしてるし。


 たまたま見た「選べられる」が目についただけで、これを投稿した方、投稿内容に特別な含みがあるわけではないのはご理解いただきたい。



 

雨の日、本を待ちわびる

 気圧低いせいか、今日、身体がだるい。

 ロレッタ・ナポレオニの新刊、何度も発売日が変更になってる。今のところ8月だけど、本当に出るのかな?
 初めて読んだのが「テロ・インク」だけど、知的で現実的な解析とレポートはいつも目を見張る。ピカイチだと思う。ヨーロッパやアメリカでは評価の高い人だけど、日本ではそうでもない。不思議な気がする。




2017年6月21日水曜日

区別したり関連を見つけたりが出来ない人、多いみたいだね

 憲法改正で自衛隊を国軍とするという議論になると、色々な所で戦争の話になる。
 どうして憲法改正と戦争が一緒くたに議論され、トレードオフであるかのような印象を醸し出すのか理解できない。
 憲法を改正し、自衛隊を国軍としたら、すぐさま戦争になるわけではない。また、今のままでも、北朝鮮や支那がしかけて来たら戦争になり、自衛隊が戦わねばならない。

 戦争は、憲法改正とも自衛隊の国軍化とも関係がない。有事=戦争の場合、まず自衛隊が出動するという役割が決っているだけだ。

(もっとも、その役割を果たすための法整備が整っていないので、超法規的にやって役割を果たすか、役割を果たす事を断念するかしかない)。

 今の憲法に「平和」とフレームがつけられているから、これを改正すると「戦争」というフレームがつくと、話を飛躍させ、憲法改正と戦争を一緒くたに議論しようとするのだろうが、それは印象だし、感情論にすぎない。憲法を改正し、それからも「平和」憲法と呼べばいいだけじゃないだろうか。

 憲法を改正し、自衛隊を国軍化しても、平和を守ろうという努力に変わりはない。それが矛盾すると考える人は、間違っている。



 


 

韓国大統領って、日本語出来るのかな

「福島原発の事故で2016年3月現在、1368人が死亡」発言の韓国・文在寅大統領、発言の元は東京新聞だったが、東京新聞読んでるのかね。日本語出来るのかね。出来ないとしたら、誰がその記事を教えたんだろう・・・???




2017年6月20日火曜日

文発言に、韓国内で間違いの指摘

 韓国の文在寅大統領が「福島原発の事故で2016年3月現在、1368人が死亡した」と、事実と異なる発言をした事に対して、韓国内の原発専門家らが間違いを指摘したそうだ。
 色々な所で、日本人も韓国人も感情的になっている時に、こうした冷静な対応をする人がいてくれてよかった。

 文発言の元となった「1368人死亡」は、昨年3月6日の東京新聞による報道だという。困ったものだが、それを確かめもせずに演説で触れるというのは、国家指導者として軽率に感じられる。
 日本も、鳩山とか、菅とか、そういう馬鹿で軽率で支離滅裂で最低の者たちを国家元首の席につけた事があるので、大きな事は言えないし、声がひっくり返ってしまうが、お互いに、もうちょっとちゃんとやろうよ。

 記事は下のタイトルの青色の部分がリンクになっています。
 朝鮮日報の李永完記者の記事です。

福島第1原発事故で1368人死亡? 文大統領の脱原発演説に専門家から異論

福島事故の死者1368人…「95%はストレスによる健康悪化が原因」

「事故現場で被ばくにより死亡した人はいない」





憲法を改正し、自衛隊を正式に軍隊としよう

 憲法を改正し、自衛隊を正式に国軍とするのは、あたりまえの事だ。そして、それは戦争とは別の事だ。

 日本に対して戦争を挑発している国はあるが、日本が軍事的に威嚇している国はない。日本が平和を望んでいるからだ。自衛隊が国軍となっても、それは変わりない。デマを飛ばして危機感を煽る事が自分たちの勢力拡大につながると思っている人々は別だが、自衛隊を国軍にしたら、すぐに戦争を始めるなどと思っている人はいない。
 何かというと、戦前に似てきたと感じてみたり、戦前に逆戻りするのではないかと危惧して見せたりする人が、年齢的に見てどれだけ戦前を知っているのか疑問だ。感じたり、思ったり、案じたりは、根拠がなくても出来る。そういう人たちの相手はしていられない。

 憲法改正と自衛隊を正式の日本軍とする事に賛成だ。






ポール・マッカートニーのニューヨークのライブは良かった

「レット・イット・ビー」は、初めて聞いた時に、それまでこの曲が存在していなかったとは信じがたい曲だった。マッカートニーの曲にはそういうところがある。新鮮さと同時によく馴染んだ感覚を持てる。
 苦しい時にマリア様が声をかけてくれる。なるがままに、なるがままに。

 キリスト教の重要な教義(ドグマ)に三位一体がある。その辺のオッサンが、三者の協力を言うのにこの言葉を使ったりするが(3Pには使わないと思う・・・)、それはただの馬鹿だ(馬鹿だから3Pにも使うかな・・・)。神(ヤハウェ)と子(キリスト)と聖霊(精霊ではなくて「せい」に「ひじり」を使います。キリストが天に召された後、神は聖霊を遣わせたという事のようです)を指す言葉で、それ以外を意味する事は絶対にない。
 この三位一体は、ユダヤ教を起源とする一神教の神の現れ方の事で、ヤハウェもキリストも聖霊も同じだという考え方だ。3つにして1つ、1つにして3つなんていい方をすると、猿飛佐助の術みたいになってしまうが、カトリックの最重要教義だ。
 で、ヤハウェが男なので、三位も全部男になる。この話はこれで閉じる。
 ところが、問題がひとつあった。聖母マリアの存在だ。これがはみ出してしまった。しかし、そして、しかも、マリアは物凄く慕われ、人気がある。

 マリア信仰は色々な場所で根強いけれど、そういう場所のひとつがポーランドだった。
 冷戦末期にアメリカと手を組み、ポーランドの連帯運動を強力に支援したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はポーランド人だった。彼の時代、CIAとされる神父がバチカンに乗り込み、ポーランド支援を補佐したとも言われている。
 バチカン銀行(宗教事業協会)は世界最大の銀行とも言われ、実務はロスチャイルドがやっているが、ここが連帯にフィナンスした。
 ヨハネ・パウロ教皇は1981年にトルコ人メフメト・アジャに銃撃され、重症を負ったが、一命をとりとめた。事件の日がファティマの聖母マリア出現の記念日だった事から、ヨハネ・パウロ二世はその後ファティマの奇跡にのめり込んだ。

 この暗殺未遂事件の背後にソ連のKGBがいて、ブルガリア、東ドイツも関与していたという。

 ファティマの奇跡はポルトガルのファティマという村で、三人の少女の前に聖母マリアが現れ、3つの予言を授けたという話で、バチカンは正式に奇跡を認定している(教会が認定していないものは無認可奇跡で、奇跡にうちに入らない。もちろん、そこらの惚れた腫れたが認可される事はありえない)。
 この3つの予言のうち2つは早いうちに公表されていたが、第3の予言は1960年に公開するようにとマリア様が指示したので公開されなかった。そして、その時が過ぎても公開されなかったため、様々な憶測を呼んだ。日本でも、憶測本が出ていた。
 今は公開されたが、まだ本物は出ていないと考える人も多い。

 イベリア半島は、カトリック教会の肝いりでイスラム勢力を追い出した場所だ。これがレコンキスタ。教会は、そこにスペインとポルトガルを建国する。どうしてスペインだけではなかったのかというと、その頃、大きな力を持っていたテンプル騎士団が自分たちの国を建国したいとしてポルトガルを作ったからだ。フランスが教皇庁に影響力を持っていた時代にテンプル騎士団は弾圧されたが、ポルトガルのテンプル騎士団はキリスト騎士団と名称を変えて存続した。

 マリア信仰に関する伝説のひとつが、映画「ダ・ヴィンチ・コード」の元になっている。映画も原作もつまらないが、ネタのチョイスは上手い。
 
 マリア様の話は、ファティマの予言まで来て元にもどる。
 第三の予言は、マッカートニーの言った通りかもしれないよ。あまりキリスト教的ではないけれど、三位一体(神)からはみ出たものだからしかたないね。

 苦しい時にマリア様が声をかけてくれる。なるがままに、なるがままに。


 

白上げて、赤上げないで、白下げない

 安倍内閣の支持率が下がったそうだ。ネットで見てみたら、以下のような各社の世論調査が報告されていた。

安倍内閣支持率
読売新聞 49 %
毎日新聞 36 %
日テレ  39.8 %
朝日新聞 41 %
共同通信 44.9 9%
日経、テレ東 49%


 おそらく電話調査の結果だろう、36%から49%の幅がある。
 毎日の36%と読売、日経・テレ東の49%の開きは13%とかなりある。ざっと見ると、朝日の41%あたりが正解に近いように思えて来るが、朝日もあまりアテになる感じがしない。40%台の上の方というあたりじゃないかなというのが、最初の感想だ。
 でも、そもそもこの調査をした時に、家にいて電話調査に応じられた人というのが条件としてある事に気がつくと、これは情報弱者とか言われている層の調査でしかないんじゃないかと思えて来る。
 つまり、新聞やテレビのワイドショーの騒ぎにさらされている人々の傾向が示されているだけかもしれない。
 そうだとしたら、あれだけ新聞テレビが大騒ぎしたにも関わらず、40%台が安倍内閣を支持しているという事が、情報弱者と言われている人々の健全さを示しているように感じられて来る。

 この安倍内閣支持率低下の報道で、新聞テレビは加計学園問題や、テロ等準備罪が理由だとしている。ふうん、それって、自分たちが騒いだから安倍内閣支持率が下がったと言いたいんだね。じゃあ、一緒に騒いだ民進党の支持率見てみよう。

政党支持率
読売
自民党 41 %
民進党 7 %
日テレ
自民党 38.5 %
民進党 11.0 %

 政党支持率はあまり変わってないそうだ。
 民進党の支持率が上がっているんだったら、加計学園問題やテロ等準備罪が理由と言える余地があるけれど、どうも、そういうんじゃないようだね。
 安倍内閣の支持率を削りはしたけれど、全体としてネガティブ・キャンペーンは失敗したと考えた方がいいんじゃないかな。

 この調査で毎日新聞社の調査が目立って支持率が低いけれど、それは、毎日が調査結果を捻じ曲げたとかそういう事ではなくて、電話調査の質問の仕方が影響しているかもしれない。米大統領選挙の世論調査の失敗で、調査方法に色々と問題点が指摘されているけれど、そういう反省を踏まえた調査が行われているようには見えない。
 調査対象はランダム(無作為)に選ぶんだけど、調査する時間帯に家にいて、調査に応じられる人という事になるわけだから、自ずと対象が限られて来る。

 新聞を読む層は、もうほとんど高齢者層、別の言い方をすれば、情報弱者と言われる層だろう。この調査は、新聞にとって見れば、読者層の傾向を反映しているという事で、いいのかもしれない。世論調査としてではなく、読者層調査というわけだ。そっちの方が企業としては価値のある情報だね。
 テレビにしても似たようなものだ。

 まだ、テロ等準備罪で意見が分かれるならわかる気がするが、加計学園が同列に並ぶとなると、違うんじゃないかと思う。新聞テレビは、問題にしているつもりなのだろうが、加計学園問題の何が問題で、どういう問題なのか、まったくわからない。騒いでいる人々の幼稚さ、無内容さしか伝わって来ないからだ。
 それでも、内閣支持率を下げたという事は、影響力を示した事になるのだろう。情報弱者への影響力は、まだあるのだ。

 でもさ、弱者はいたわるべき存在ではないのか? 情報弱者をいたわるという事は、自分たちの影響力を維持するために、オーディエンスを囲い込む事ではなくて、ネットの情報もまんべんなく伝える努力をして行く事に思える。

 違う言い方をすれば、情報の非対称性を利用して情報弱者を食い物にするのではなく、対称性を確保すべく向かい合う事が必要だし、求められているはずだ。

 今、情報弱者層の情報環境は、新聞テレビのおかげでひどく劣化している。昔なら、ネットもなく、ほとんどの層を囲いこめたが、今はそういうわけにいかなくなっているから、差が大きくなってしまったのだ。ネットに接続できている人たちが、情報強者かというと、それも違うと思うが、新聞テレビの報道を相対化出来ているという点では、はるかに優位にいる。

 新聞テレビが保持している影響力は、内閣支持率が下がった割合に見合っているのだろう。それは、こんなものだろうなと思える程度で、それほどたいしたものには感じられない。



2017年6月19日月曜日

ドナドナドーナ、ドーナ

「社畜」という言葉がある。いい言葉だとは思わない。でも、共産党が、自主性があり、自分でものを考えられる人をことごとく除名してき来たのを見ると、残っている人を「党畜」だと指摘するのは、的外れとは思えない。
 党畜の党を支持する人たちも、亜党畜と言えるかもしれない。
 党畜発生は、ソビエト・ロシアの下部機関コミンテルンの命令への盲従が元だろう。

 露助は西欧に目を向けていて、ベトナム反戦運動を煽って上手く行った後は、手先だったパレスチナのテロリストを使って、西ヨーロッパを挟み撃ちにする作戦を展開した。
 西ヨーロッパでテロが吹き荒れた時代を鉛の時代と言うのだけれど、パレスチナからヨーロッパのテロリストたちに、山ほど武器が送られた。
 ロシアで教育されたカルロス・ザ・ジャッカル=ラミレスもテロを繰り返した。カルロスはブルガリアを拠点に活動したらしいが、要するに、ロシア情報機関の破壊工作員だろう。
 あの時、日本はロシアの標的ではなかったので、阿呆な連中が独自に爆弾テロをやるぐらいが精一杯だったのは幸いだった。朝鮮系、支那系だけでなく、多民族国家ロシアには黄色人種もいて、いつでも、疑似日本人テロリストを送り出せる。
 今でも、領土拡張のために必要だと考えたら、日本でテロを展開し、社会不安を醸成した上で攻め込んで来るだろう。日本のように平和を願い、努力する国は少ない。
 ソビエト・ロシアは、国民を国畜としていた軍事統制全体主義国家だった。外国の党など、本当はどうでも良かっただろう。余計な事を言わずに黙って畜に甘んじていればいいと考え、そうさせていた。

 結局、党畜党はロシアにとって、それほど大事ではなかったかもしれない。それよりも、自民党や政府内にいるロシア派の方が使いでがあっただろう。
 党畜さんたち、残念だったね。
 
 

2017年6月18日日曜日

小沢一郎はファシストだったんじゃなかったっけ?

 共産党が「小沢一郎はファシストだ」と、宣伝カーを出して言って回ってた事があったけど、今はファシストじゃなくなったのかな?
 共産党はその筆頭だけど、野党とか左翼とかって、ファシストの定義をせずに人をファシストよばわりして、訂正もせずに、有耶無耶にする。
 いや、小沢一郎がどこかで考えを変え、ファシストだった自分を反省したのかな?
 そういう事もないなら、つまり、小沢一郎がファシストのままなら、脱原発はファシストの主張になるし、違うなら、かつて共産党は間違った誹謗中傷をした事になる。さて、どちらだろうか?

 どちらかというと、民主党に入る前までの小沢一郎は普通だったが、民主党に入るあたりから怪しくなった感じがする。脱原発に首を突っ込んでても、馬鹿だなとは思うけど、今でもファシストだとは思わない。それよりも、元々、気の小さな人だったようだから、親分でいるのが苦しくなってしまったんだろうねとは思う。

 まあ、小沢一郎の人物は横に置いて、共産党は、やっぱりその場その場でいい加減な事を言って騒いでは、三歩歩かないうちにすっかり忘れて、次の騒ぎをはじめる連中だというのは確かなようだね。

 ああ、共産党、口だけじゃなくて、暴力も凄いよ。全共闘運動華やかなりし頃、一番強いゲバ部隊は民青で、その特殊部隊があかつき行動隊、二番目が革マルの部隊だったようだ。他はどんぐりの背比べだったらしい。
 ゲバ民と呼ばれた民青ゲバ部隊は存在しない事になってたが、これは共産党の嘘のひとつ。共産党は、暴言と暴力と嘘で固めた組織だという事例のひとつ。さすが、終戦直後、暴れまわっていた朝鮮人の手で刑務所から出された人殺しをトップに頂き、ソビエトから資金援助されていた党だ。

 おー、こわ。



日本は平和だ



元陸自レンジャーなど自衛官OBらが平和願う団体設立 「日本は戦争に不向き」


 これ、週刊金曜日の記事だけど、ヤフーニュースにあった。
「日本は戦争に不向き」って、稚拙すぎる言葉だね。確かに、北朝鮮は戦争に向いてるというか、戦争を向いてるというか、超軍国主義の軍事国家だけどね。日本は違う。
 平和を願う団体かぁ・・・日本は平和だからね。支那や北朝鮮が攻めて来なければ戦争なんかにならないもんね。

 北朝鮮も、拉致問題に取り組む誠実さが少しでもあればいいんだけど、そうだったら、最初から拉致なんてやらかさないね。





2017年6月17日土曜日

大丈夫って、時々、意味わからない

「こういう着こなしすると、脚が短く見えるかな」
「大丈夫だよ。どうやっても短いから」



猫時計がいない

 何だか猫時計、消えてる・・・可愛かったのに・・・

2017年6月16日金曜日

どちらかと言えばね

 どうも、左足より右足の方が臭い。



しぶといタレントさんだったと思う

 野際陽子が死んだ。
 キーハンターってやってた女優さんだ。

 ♪ あー、あの日愛した人と、今日は敵と味方の私ー ♪

 って主題歌歌ってた。確か、妹は、英国のフリーというバンドのボーカル、ポール・ロジャースと結婚してたと聞いた事がある。今は知らない。

 で、キーハンターの歌だけど、ただの普通の夫婦だと思うのです。



文部省、いらなくね

 どうして大学が学部を新設するのに、文部省に認めてもらわなきゃいけないんだ?
 経営判断だけでいいだろう。それでダメなら倒産すればいいだけだ。どうして国家統制を受ける必要がある?

 文部省は許認可の権限を手放したくないだろう。各大学に天下り用の教授席を持っていて、他の省庁にもその席を都合し、よろしくやって来た。

2017年6月15日木曜日

耽溺

 テレビでオシャレなお店の紹介を見るたびに、こういう店のある街に住んでなくて良かったと思う。道を歩いていると、頭の上から、フィリピン人のおばちゃんが大きな声で携帯電話をしているタガログ語が聞こえて来る方が、よく理解できないけど、オシャレなのだけはわかる店があるよりはいい。フィリピン人女は、マンションの二階の通路に出て話している。何か力に満ち満ちているな、とてもかなわない。こういうのげんなりするし、本当は静かな方がいいが、贅沢は言わない。

 贅沢と無縁なのはそれだけじゃない。よく考えると、どうやったら贅沢が出来るのか、やり方を知らない。ユニクロの何倍もする服があるのを知って、そりゃ過払いだといきどおりを感じたが、相手にされなかった。アディーレ法律事務所に無料電話相談してもだめみたいだ。残念。

都市の静けさ

 吉野家も割りと静かだが、これまで一番静かだったのはやよい軒だ。
 人形町で入ったのだが、客は男ばかりで誰もしゃべってなどいない。ただ黙々と食べるだけだ。これで女がいたら、食う口と喋る口が別にあるから、うるさくなる。
 店内は無音で、静かに、ゆったりと食事が出来た。

2017年6月14日水曜日

ヨガや太極拳はエアロビ・ダンスではない

 太極拳やヨガなどは音楽をかけて稽古するものではない。本来、それぞれの人が自分のその時のリズムで動作するもので、音楽に合わせてみんなでイチ、ニィ、サンというものではないからだ。

夜の向こうにたくさんのものが消えて行く

 埼玉県の浦和に住んでいた事がある。駅の東側だった。
ある夜、駅からの帰り道を歩いていると、声をかけて来た人がいる。
「東口は、元は色街で赤線だったんだよ」
そんな風に話は始まった。


「戦後、進駐軍は朝霞にいて、車で女を買いに来るんだ。凄いスピードでジープを飛ばしやがって、人がいてもブレーキなんかかけやしない。威張りくさってやがった」

「それでも、米軍だって言うから、さぞや立派な連中かと思って見てたら、何か食ってる。それが生の玉ねぎだ。ただの田舎者だ」

「その頃、何だか嫌になって、街で喧嘩ばかりしていた。それで目をつけられたんだろうな、ある時、ヤクザ者たちに囲まれ、赤線宿に連れ込まれた。これで終わりかな、ええい、構わねえやと思ってふてくされていたら、ヤキを入れられる寸前に、赤線の女が飛び込んで来た。その女が、この人は違う、堪忍してくれと、頼んでくれた。小学校の同級生だったらしい。俺の事を覚えていて、この人は上の学校に行ってるんだから、そこらの半端者と違うから助けてくれと、必死にかばってくれた。小学校の同級生だったというだけで、体を張ってくれた」

「助けられたけど、あそこには二度と近寄れない。礼ひとつ言えずにそのまんまだ」

この人のように終戦後、虚無感に陥って馬鹿の真似をした子供や若者は日本中にいた。阿久悠が「リンゴの唄」は終戦直後に流行ったのではなくて、少し後に出て来たのだと書き残した文章の中で言っている。
本物の愚連隊の方は、闇市を取り合って、元気に三国人と戦っていたし、盛り場で米兵と喧嘩していた。博徒は客商売の賭場が大事で専念し、喧嘩出入りは愚連隊に頼んでいた。愚連隊だった人が、ヤクザは弱かったと教えてくれた事があった。

この人は、悲しかったのだ。玉ねぎをかじりながらジープを飛ばし、日本人など跳ねても構わないと心得ているアメリカの田舎者に蹂躙される日本が悲しかった。そんな奴らに買われる同級生の女も悲しかったし、その女に助けられた自分が情けなかった・・・

あの人はその後、情けなく生きて行くのが一番誠実な生き方だったろうし、そうするしかなかった。本当の馬鹿だったら、くだらない意地を張って、喧嘩三昧を続け、早死しただろう。同級生が「この人は違う」と指摘したのは正しかった。しっかりと情けない生き方に耐えた。
たいていの男は、そういう風に女に見透かされるのに手も足も出ない感覚を持ち、嫌がるのだが、あの人は命がけでそのありがたさを体験した。死ぬまでそれを粗末にしない以外に生き方はなかっただろう。至上の幸福を手放さないだけの素直さはあった。

帰り道はずっと同じだったけれど、プラスチック工場をやっているというその人と、二度と会う事はなかった。









2017年6月11日日曜日

ああ、上野駅

 昔々、通勤途中、上野駅でトイレに入った。大勢並んでいた。あまり考えずにいい加減に後ろに並んだ。
 失敗だった。先頭にいるのは、何と爺ィだった。

アッサム問題

 安いアッサム・ティーの茶葉を買った。臭いが悪い。
 そこで、臭いを飛ばすため、温め直しを飲んでみた。
 臭いがなくなると、味は良い事に気がついた。

進歩派って、停滞や反動を生み出すだけだし、自分たち自身一度も進歩した事がない

 今時、共産党をはじめ、左翼というか進歩派というか、そういう連中の言う事を真に受ける方がおかしいんだけど、年寄りは自分の知ってる(と思ってる)事で朦朧と感想を持ち、テレビから仕入れた「意見」を持ったりする。
 新聞を読むのは年寄りだけなので、年寄りの知らない(あまりにも多くの事)はない事にして、新聞は年寄りが知ってると思ってる事を、知ってると思っている通りに「報道」する。
 左翼には、まったく内容がないが、その形骸は年寄りが知っていると思っている事に適応する。ここから何か役に立つ内容を引き出すには、病理の症例として見る以外にないかもしれない。
 今のメディアのザマは、高齢化社会の社会的脳軟化の症状みたいなもんだ(これ、比喩だからね)。

2017年6月10日土曜日

未成年かぁ、ピート・タウンゼントもなぁ・・・

 小出恵介、「調査」だったと言って、安倍の悪口でも言えば、朝日新聞が英雄にしてくれるのに・・・
 今からでも間に合うかもよ。

2017年6月9日金曜日

問題までが遠すぎて、解決には至らない

 女性はよく「男は問題から逃げる」と言う。確かに逃げ腰だけれども、そこはアプローチが違うと考えられないだろうか?
 女性が正面から正眼に構え、えいやと突撃する所で、男はスキをうかがったり、理解しようとしたり、一回りしてみたり・・・女性は、そこでじれったがるけれども、何でもかんでも正面突破すればいいというものでもない・・・と思う・・・ちがうかもしれないけれど・・・確かめてみないとわからないし・・・だから、逃げてるんじゃなくて、確かめて・・・言い訳じゃなくて・・・確かめ・・・て・・・怒ることないと・・・あるね。ある・・・えーと、うんと、あー、えー、まぁその・・・

支那政府は支那人を統治していればいい

 中共は支那人を統治しているという点だけは唯一無二だ。国民党も、もう近代化されて支那人統治には耐えられないだろう。本当は清王朝が一番良かったかもしれないけど、それはないものねだりになる。
 言い方を変えると、支那人が野放しになるよりは中共に我慢した方がマシとなる。

 清王朝は大帝国で、当時の列強に植民地を貸している感覚だったと思う。だから、列強がいなくなった後は、支那の下になるのが当然だというのが、今の支那の感覚かもしれない。あの平気さ、図々しさの理由はそこじゃないかね。
 ただ、誰も中共の下に置かれたくないし、鼻の穴を膨らませた支那人に威張られたくもない。





英国って、北朝鮮に外交官駐在させてるんだよね

 EU見てると、ヨーロッパって、結局、ロシアかドイツに支配される運命だったのかもしれないと思えて来る。

 ルーズベルトは、これが嫌でソビエトと手を組んでドイツを叩いた。ヒトラーだけじゃなく、スターリンも十分以上に悪魔だったけど、それでも、ドイツを打倒した。
 あの時点ではそれで正解だったし、ドイツとソビエトがつながっていて、第二次大戦前のドイツ軍が、ソビエト内で秘密軍事演習している状態は見逃せなかっただろう。ドイツとソビエトの間に楔を打ち込めば、対日政策も、対支政策も決まって来る。

 日本は東アジアで最大の軍事力を持っていたが、目的は半ば達しつつ、大東亜戦争に負け、無力化した。それ以後、他の手段をもってする戦争の継続である政治力によってEU統合に突き進んだドイツと違って、日本は何もしなかった。ドイツの構想力には舌を巻くが、日本人の国民性にそんなものはない。ドイツ人はスペイン人やイタリア人なんか嫌いだろうし、嫌われてもいるだろうに、無理に無理を重ねて統合する意味が・・・うーん、もしかしたら、ヴェストファーレン条約から、一歩前に進むみたいな意味かな、だったら価値がある。

 対戦前、英国は対独政策に沿って、大陸に諜報網を構築していた。これは対独戦から、対露冷戦まで稼働した。
 元々、イタリア北部のアナーキスト(リバタリアン)組合活動家だったムッソリーニのファッショ運動を切り捨てたカトリックは、それ以来、冷戦時代を通して英米の戦略に乗った。最大と言える作戦はポーランド連帯で、情報機関、教会、右翼、暗黒街、フリーメーソン、オプスデイまで参加し、資金を含めてあらゆる支援を展開した。
 その結果が、ドイツって・・・・

 カトリックは、リベリア半島やイタリアやポーランド、オーストリアやハンガリー、どうするつもりかな・・・

 英国のEU離脱で、地政学は復活した。

2017年6月8日木曜日

ここに未来が訪れるには、長い年月を必要とする

 人工知能に脅かされるって、平気だよ。お前、最初から知能なんてないんだから。人工知能がお前にとって代わるのは不可能だよ。



幸せの法則の法則

 丼ばちゃ浮いた浮いた、すててこシャンシャン

 と歌うと、少し愉快な気持ちになる。

 幸せ業界の人たちは、こんな事言わないけど・・・


2017年6月7日水曜日

ガス人間第一号って、あったな

 ウンコでしゃがむ直前に屁をこいたら、拡散前のクラウドに頭を突っ込む格好になった。希釈されていないガス状のガスにさらされて、死ぬかと思った。



銃弾が汚れてると、銃身が詰まって暴発するよ

 週刊新潮のカンニングしてた週刊文春、さっさと謝って、またやればいいじゃん。
 今度は、週刊新潮のトップ記事丸写しはどうかな?

ところで:
「文春砲、汚れた銃弾」というタイトル、大砲だったら銃弾じゃなくて砲弾だと思うんだけど、大砲なのに銃弾というのは、大げさなわりに、ネタは小さいという皮肉なのかな?
 だったら、「文春砲、汚れた爪楊枝」とか、「汚れた糸くず」とかどうだろ。直接的なんだったら、「文春砲の短小包茎ソチン先細早漏」なんてかなり刺激的だ。



科学的実験と言語の研究

 盛り上がってる時に、
「どんだけ~!」
 って言ったらしらけた。

 テレビの「お姐マンズ」、絶妙の時間帯で始めた番組だったのに、一般的ないい時間帯に持っていって失敗した。放っておきゃ良いものを必ずいじってダメにする。テレビ局って、学ぶ事を知らない馬鹿だね。

 ここで、握った餌を放さなくて捕まる猿の話を持ち出すと嫌われる事は、すでに実験で検証してある。


2017年6月4日日曜日

ウルトラマンはカップ麺が食べられない

 袋麺もカップ麺も生姜を足すと美味しくなる。
 おろし生姜のチューブを握りしめながら、3分間待ってる自分自身がくだらなく感じられるのに耐えるだけの価値は・・・どうかね?

2017年6月3日土曜日

ああ、コリャコリャ

 どんぶりばちゃ、浮いた浮いた ステテコシャンシャン

 とかやって楽しかったなんて、昔の日本人て、やっけぱちになってたのかな・・・?


2017年6月2日金曜日

医療ドラマの次の日

 テレビの医療ドラマを観て、
「凄いなぁ。どうやってあんな診断や手術出来るんだろう?」
 なんて楽しみながら思ってる医者がいたら、嫌だ。
 俺が間違って医者になってるパラレルワールドの住民は可哀想だ。そういう医者になるに決まってるから。とうてい医者になんかなれないこの世界で、みんな良かったと思ってくれ。

 Dr.House の放送日の翌日に無謀な診断が増えたとか、そういう統計ってないのかな?
 Dr.X だったら、無理な手術の失敗とかね。

ほどほどとか、そこそことか・・・

 森羅万象を政治に取り込もうとするのを全体主義という。

 全体主義の問題で、抑圧だとか、人権の侵害とか、そういう倫理的な部分は副次的だ。一番の問題は、何から何まで政治が関与するなんて不可能だという事だ。
 不可能を可能だと思い込み、推進すると、破綻する。
 そこで諦めればまだ救いはあるが、破綻を隠し、成功しているかのように嘘をつく。理想のためには隠蔽も嘘もやむなしとする。でも、無理な事は無理だから、最終的な破局は大きくなる。

 ソ連・東欧や支那、北朝鮮などの社会主義全体主義、ドイツのナチス国家社会主義など、失敗例しかない。
 政治ではなく、信仰で世界を包み込んだ中世欧州も、カトリックからプロテスタント諸派が分岐派生し、国家が世界から分離した事で終わった。

 政治などよりも、はるかに強力で深みのある宗教で出来なかった事を、どうして政治で出来ると思い込んだのか不思議だし、ここでまた宗教を持ち出しても無意味だ。

 でも、人間には、どうも全体主義に向かう傾向があるようだ。また、その傾向は理想と関係がありそうだ。そういう事で、しばらくすれば、誰かが何か持ち出して来るはずだ。

 まったく理想もないようなのも嫌だけれど、理想だけで押し切られても迷惑だ。
 理想は劇薬で、その劇薬を何によって、どれくらい希釈すればいいのか・・・桃屋のめんつゆなら瓶のラベルに書いてあるが、学問とかは濃くする事しか考えていない。勉強するとおかしくなるというのは一面の真理だ。カウンセラーだと薄すぎる・・・

 これは答えの出ていない問題なのか、こちらの無知か・・・さて?

乳がん検診の偽陽性リスクなんて、すぐに調べられるのにね

 乳ガン検診は、ガンの人なら物凄く高い確率で陽性を検出できるようだが、同時に、ガンではない人を陽性だとしてしまう偽陽性の確率も非常に高い。
 偽陽性の場合、何でもない人が苦しい治療を強いられる事を考えると、リスクとしては偽陽性の方が高くつく。
 実際、アメリカの統計で人数ベースで言うと、陽性の人よりも偽陽性の人の方がはるかに多い。

 人気のある芸能人が乳ガンになったからと言って、そのリスクを取る事は賢明ではない。ワイドショーの影響を受けた思いつきで、どうもかなり痛いらしい乳ガン検診を受診した上で偽陽性になったらどこにも救いはない。
 それでも、今のところ、乳ガン検診は、どこも満員で、何ヶ月も待たなければ受診できないらしい。
 
 で、これを嗅ぎつけ、得票につなげようと、政策に掲げる政治家が出て来る。偽陽性のリスクについてまったく触れないので、ちゃんと勉強して政策にすべく真剣に取り組んだのではない事がすぐにわかる。

 女の政治家だったりする。いい加減な女だな。

 森羅万象を政治にたくしこもうとするのを、難しく言うと全体主義政治と言うんだよ。


まあ、こういう事もね

「みんなに知って欲しい」
「知りたくないよ」


2017年6月1日木曜日

悪い音源こそ、いいオーディオがいいんだけど・・・

 年齢のせいか、音楽の好みが古い方に広がった。戦前のブルースの録音なんかだと、音源そのものの音質が悪い。聞き苦しくて困る事もある。
 それで、いいオーディオを使う意味がわかった。新しい、質のいい音源を聞くなら、そこらの安物で十分だ。でも、古い音源は、いいオーディオでないと楽しめない。
 昔のジャズ喫茶がオーディオに凝ったのには、こういう理由があったんだね。好きになったジャズを、いいオーディオで聞くと、さらに好きになる。

 でも、CDドライブに猫の毛が詰まる環境で、オーディオに凝るなんて不可能だし、音楽に溺れたら、イ号潜水艦になって、浮上しないと思う。いいオーディオは、遠く夢見る世界だ。

 アナログのターンテーブルに猫がどういう興味を持つか想像すると、可愛くはなるが、想像の世界から現実に取り出す気持ちにはならなくなる。

 ま、金もない奴が、いいオーディオなんて、考えるものじゃない。


 

これ違くね?

 加計学園問題に興味はないが、報道で「腹心の友」という言葉が出て来るのに違和感がある。腹心と来たら、続くのは「部下」だろう。後で「友」が来るなら、頭は「刎頚」だ。
 こういう決まり文句は意味がつながるからと、勝手に変更して使うものではない。「友」と言いながら、実は上下関係なのを、わざと言っているとか、誰かが知ったかぶりで言ったのを、そのままさらし刑にするとか、そういう遊びはありえるが、そういう悪意の冗談でないのなら、馬鹿だ。
 こんな言い方を平気で使っているメディアは、悪意か馬鹿か、はっきりしてくれると助かるが、そういう誠実さがあるとは思えないので、言いっ放しで終わるとは思う。

 加計学園なんて、どうでもいい話よりも、こうした言葉の乱れが横行する事の方が大きな問題だ。残念ながら「言論機関」は、こうした大きな問題を対象にしないで、瑣末な事に右往左往するのに血道を上げる。

 やっぱり、微妙な悪意を表現するような芸当は、彼らには無理だな。馬鹿なんだな。
 事実を見るのに、馬鹿の視野を通さなければならないのは、ひとつの不幸だ。


幸せの紅茶

 いつもの日東の紅茶がなくなったので、別の茶葉を探し出して飲んだ。
 オレンジかな、皮が入っていて、とてもいい味だし、幸せになった。
 聞いたら、プレゼントで、ディズニーランドで買った物だという。
 こんなに美味しいなら、英国人が紅茶に入れあげたのも理解できる。

 チャも、チャイも、テも、ティーも語源は同じで、支那だ。支那は古代で終わっていて、今も古代のままだ。三国志が優れているのと同時に、支那に進歩がない。支那の今は今ではなく古代のままだ。それを、こっちの今と同列に考えるのは誤解だ。
 期待に基づく誤解を拡大し、犯罪者・毛沢東を崇拝し、残虐な蛮行だった文化大革命を英雄的な国民運動ともてはやした薄ら馬鹿どもが、かつて存在した。

 高級紅茶にも色々なブランドがあるらしいが、ブランドはまとめてカルダンと呼ぶぐらい、そういうのが苦手で、結局、ニットやリプトあたりを飲む事になる。

 日東は、あの昔ながらの紫色のパッケージの紅茶をやめてしまい、味を捨ててしまった。あれが好きだったのに残念だ。
 復活させてくれないかしら。

 紅茶には、幸せになる紅茶がある。





2017年5月30日火曜日

ホント?

え、山口、鳥越したの?

昭和のSF

 前に本屋さんで、外国人が「サイエンス・フィクションはどこでしょうか?」と店員さんに聞いた。
 店員さんが「???」に陥ってしまったので、おせっかいを焼いて、
「SFの事だよ」
 と口を出した。
 店員さんの表情が明るくなり、外人を棚に案内していた。
 おせっかいのせいで、私はその場に取り残されてしまった・・・

 SFというのが「サイエンス・フィクション」のアルファベット・スープで、日本語では「空想科学小説」と訳していた。その頃、小説は空想ではなかったようだ。
 昭和の昔、未来と言えばみんな体にピッタリのピカピカ光る服を着ていた。
 それに、人工知能と言えば、大きなコンピュータが人類を支配していた。

 でも、今、人工知能はスマホに2,3個は入ってる感じで、どこかで大きなマシンが人類を監視・支配しているというのとはかなり違っている。
 藤子不二雄の作品の中で一番好きな「海の王子」は、海中にある巨大人工知能をやっつけるため、海の王子が身を捨てて特攻を敢行して終わった。小学生の時の悲しい思い出だ。
 マイクロソフトが海の中にサーバーを沈めるなんてのより数十年前に藤子不二雄はそんな作品を描いていた。

 手塚治虫が「ゼロマン」で描いた監視社会も、共産主義の生み出すものだった。手塚は日共支持者だったから、そういう意識もなく、ただ才能だけで漫画にしたんだろうけど、手塚漫画の無意識は、共産主義の崩壊を何度も描いていた。

 中央集権的なこの支配のイメージの元は、ジョージ・オーウェルだと思う。「1984」という作品だ。
 スペイン戦争に従軍し、ソビエト・ロシアに指導された共産主義者の裏切りにあったオーウェルは、共産主義の社会を、そういう未来の形で描いた。かなり本質的で正確な作品だった。「動物農場」は、同じテーマの寓話版で、レーニンもトロツキーもスターリンも同じ穴のムジナだと、ちゃんと書いていた。
 オーウェルから何十年も経って、まだ、わかっていない連中は、頭が空っぽなんじゃないかと思う。両耳にレンズをつければ望遠鏡になるかもしれない。
「1984」を、一般的な監視社会批判だと、勝手な嘘の解釈をした進歩派のデマゴーグも沢山いた。作品を読みもしない連中は、それを真に受けた。馬鹿だ。あれは、ソビエト・ロシアの全体主義を批判した作品であって、それ以外のものではない。

 幸い、ソ連は崩壊した。そして、日本は平成になった。
 昭和のSFの舞台となった時代が過ぎている。空飛ぶ円盤(UFOの事です。フライング・ソーサーの訳語です)も現れてれていないし(公式にはね。おそらく、非公式にも)、体にピッタリの服は着ていない(特殊な趣味の人もいるけどね。ああ、汚れてしまった俺!)。
 人工知能による人類の支配なんて、そういう楽しい事はきっとこれからも起きない。そこらを歩いているオッサンを支配して、どこが面白い? 何になる?

 いまだに古いイメージで、つまり、想像力が欠けているため、どこかから借りてきている代用イメージで「監視社会」だとか、「治安維持法」だとか言っている人たちの脳みそは、昭和のSFの中で安楽な惰眠を貪っているだけだ。



スタップの呪い

 小池都政って、何だか小保方を思い出す。
 ちょっと目には気が利いてて面白そうで、とっつきはいいんだけど、中身が出てこないという感じかな。

 小保方騒動の頃、狩野英孝はどうして割烹着来て「スタップ〰!」とやらなかったのか、今でも残念だ。そういうお笑いのセンスがまったくない人なんだね。

 何の話かとうと、小池都政は、このままスタップ都政になるしかなさそうだという事だ。
 おやおや・・・困ったね・・・

2017年5月28日日曜日

共謀罪反対の嘘

 中核派や革マル派、社青同、共産主義者同盟をはじめとするテロ集団、あるいは過激派、そして、その元活動家、シンパ、様々な関係者たちは、「テロ等準備罪」に反対をしている。
 かつて、それら新左翼と敵対し、ゲバ民(ゲバルト民青の略。一番強かったのが彼ららしい)を使って暴力沙汰を仕掛けていた共産党も反対している。
 今や薄ら馬鹿の代名詞となった左翼はことごとく反対しているらしい。ン? 民進党は左翼に見えるけど、そうは言わないのかな?
  テロ集団が反対するのは当たり前だが、それ以外の政党はどうして反対するのかよくわからない。もう自分たちがテロをやるような事はないとわかっているだろうし、そういう連中が出てきたら粛清するに決まってるのに、反対のための反対以外に理由はない反対をしている。
 まあ、この反対は「テロ等準備罪」、左翼の言い方をするなら「共謀罪」が、左翼にとって、自分たちの左翼性を証明する、踏み絵イシューになっているというだけの事で、中身はない。

 左翼は「テロ等準備罪」によって、日本が監視社会とやらになると主張している。元々、監視社会は旧ソ連の事で、国家権力が社会を監視する事で統制を維持強化しているのを指していた。監視社会は共産主義・社会主義と同義だったので、人はここで彼らをせせら笑う事ができる。
 でも、その前に、ここでエピソードをひとつ紹介する。

 随分前に、先輩が、その先輩の革マルの人間に突然頼まれて、引っ越しを手伝った時の話をしてくれた。
 車に荷物を積み、引越し先に向かう途中、信号で止まると、先輩の先輩さんは、身をかがめて隠れたという。革マルだったから、襲って来るのは中核派か社青同だ。そういう危険な行動に、後輩というだけで、無関係な人を巻き込む神経が左翼だ。
 先輩の先輩さんは、先輩に、
「いつもは公安警察が身辺を監視している。それが警護になって安心なんだが、革命組織の者として引っ越しの予定や引越し先を伝えるわけにいかない。引越し先もすぐにつきとめられるから、監視されて安心なんだが、それまでが怖いんだ」
 と話したという。

 これを革マル派の軟弱さの話だと誤解してはならない。中核派も社青同も同じだ。

 今、反対しているテロ集団は、すでに監視されていて、それによって守られている。何が反対だ。彼らは監視されていないと困るのだ。彼らの反対など嘘だ。八百長だ。
 彼らは、反対をしているのではなく、反対を装っているだけだ。反対している事になっていれば、格好がつくと、足りない頭で思い込んでいるのだろう。

「テロ等準備罪」の問題は、アルカイダやイスラム国集団に対応できるのかという点だ。また、かつての欧州のテロの背後には、旧ソ連の情報部が関与していたが、今の日本ならば背後で北朝鮮や支那が糸を引いているテロへの対応も大丈夫なのか。

 本来、国会ではこうした点が議論されていなければならない。
 それを、テロ集団と一緒になった左翼政党の反対運動のおかげで、無意味な法律となってしまったら、喜ぶのはイスラム・テロリストと外国の破壊工作者だけだ。

「暴対法」には反対だったし、今でも反対だが、「テロ等準備罪」には反対しない。
「個人情報保護法」も、廃止して、ビッグデータの活用を推進した方がいいと考えているが、「テロ等準備罪」には反対しない。
 いや、反対しないでは弱い。賛成しよう。
 左翼が「共謀罪」に反対しているのは、格好だけの嘘だが、こちらの賛成は本当だ。


いない方がいいけど、いるなら遠くにいてくれよ

 民進党っていいなと思うのは、ああいう人たちが色々な所に散って、隠れていられると面倒な気がするからだ。固まっていてくれると、無視するのが簡単になる。
 反原発(今は、脱原発というのかな?)派も固まっていてくれた方が楽だ。やはりまとめて無視できるからだ。
 反原発とか、沖縄とか、テロ当準備罪反対とか・・・何だかみんな同じ人たちがやっている感じだけれど、突っ込みを入れるのも馬鹿馬鹿しいから無視する事にしている。時々、あの人たちの発信を目にすると、デマ、風評、歪曲、思い込みといった、あまりにも水準の低い言説を振りまいているので暗澹たる気持ちになる。
 本来重要で、議論を深めていい事であっても、彼らの水準が低すぎて話が出来そうもないからだ。
 それに苛立つ人は、突っ込みを入れる事になるのかもしれないが、あまりにも無駄なのでやる気にならない。
 あの人たちとは無関係に、重要と感じたり、必要と思った事は、一人で考えを深めるしかないようだ。彼らは、本質的な部分には興味がないようだし、興味を持つだけの知力もなさそうだ。
 彼らは何でも「反対」するが、その反対運動は反対ではなくて運動が主目的のようだ。つまり、勢力拡大が目的なのであって、「反対」の対象はそのための道具、チラシ広告で言えば、安売りの目玉商品だ。反原発でも、沖縄でも、あの人たちは感情を煽ろうとする。
 彼らは、危機感を煽って人々を刺激し、感情的になって錯乱したマスヒステリー状態の大衆を政治的な意図をもって、ひとつの方向に動員しようとしている。
 でも、実際は、彼らの煽りは通用しなくなっていて、運動も日々小さくなっている。惨めだ。
 あの人たちは、その進歩のなさと、進歩を邪魔しようとする行動から、「反動」そのものであり、民主主義は自分たちの事だから、人々は自分たちの命令を聞いていればいいという誇大妄想から、民主主義のみの字も理解できていない事があきらかな薄ら馬鹿どもだ。

 そういう迷惑な人たちは、遠くにいてくれた方がいいから。一箇所に固まっていてくれた方が助かる。
 それなのに、民進党は消滅しかかってたりして・・・嫌だ・・・次はファーストにとり憑くのかね・・・何てもいいから固まってておくれ。

 もう神仏に祈願しちゃってもいい。

 ウー、進歩派退散、進歩派退散・・・オンバサラ、民進固まれ、社民も固まれ、ソワカ・・・カシコミカシコミ、原発沖縄共謀忖度・・・


2017年5月27日土曜日

博士と詩人

 映画「カリガリ博士」は精神病医が患者を使って悪事を働くという物語だが、その話をするのが患者であるため、妄想か現実かわからない恐怖がある。(しかも、保存状態のせいで映像の状態が悪いのも怖い)
 チェスタトンの小説「詩人と狂人たち」も同じ着想で、詩人たる主人公は狂人たちを操る者と戦う。

 これは「洗脳」に結びついて行った。ただ狂人を利用するのではなく、意図的に狂わせてしまおうと言うわけだ。しかも、目的を定め、そこに向かって狂わせようというのである。
「洗脳」は、ソビエト・ロシアでレーニンがパブロフ博士に研究を命じて始まった。パブロフというのは、犬を使った実験で「条件反射」を研究した、あのパブロフだ。
 第一次大戦後から第二次大戦までの期間、精神医学はレーニンとは別個に、洗脳に結びつく領域に脚を踏み込んでいたようだ。後々、戦争でアメリカに亡命した研究者が、アメリカ軍に協力してアメリカの洗脳研究に関与して行く。
 アメリカで洗脳研究が始まるのは、朝鮮戦争で中国軍の捕虜になった国連軍兵士たちが虐待され、洗脳されたのがきっかけだった。捕虜となった兵士たちの「洗脳解除」が必要になったのである。「洗脳解除」というのは、治療に他ならない。これがPTSD治療につながって行く。
 朝鮮戦争の前には、ソビエト・ロシアが日本兵捕虜を虐待し、洗脳した上で帰国させた。それが戦後日本の武装共産党騒動になった。トラック部隊や山村工作隊は、洗脳の産物だったと考えられる。

 アメリカが治療から踏み込んで行くのは情報機関や軍隊が研究を始めたためだ。大学や研究機関が予算を得て、人体実験をやった。
 英国もこの研究に参加するが、情報が出なかったため、ほとんどの事がわからないままになっている。ソビエトや中国共産党の洗脳研究も、ほぼ何もわからない。

「洗脳」という言葉は、中ソの共産主義者がやった事を指す言葉で、英米は「行動コントロール」という名称で研究を行った。
 アメリカでは、この研究から出たノウハウが新興宗教や自己啓発セミナーに流れた。日本の地獄の特訓などの自己啓発セミナーも同じだ。日本の自己啓発セミナーは朝鮮戦争の頃に米軍で働いていた日本人などが、米軍のセミナーに触れたところから始まったらしい。

 カリガリ博士は多くの子を持った。彼の子孫は、おびただしい失敗を重ね、死屍累々の道を歩んだ。でも、もしかしたら、どこかで成果が出ているの可能性もある。研究が続いている可能性を示しているかもしれない小さな出来事が、時々ある。 

 医師や研究者とは別に、宗教家も洗脳と近い所にいる。オウム真理教は洗脳研究に血道を上げていたが、あいつらだけではない。洗脳の意識すらなく、若者を洗脳し、悪事に駆り立てている者がいる。
 そう、イスラム国集団(ISIL)は、若者の不満や不安を煽り、思考力を破壊し、自爆テロという犯罪に駆り立てている。あのグループの中枢は凶悪で悪辣な犯罪者であり、死刑のある場所で裁かれるべき者たちだが、末端は医療が対応すべき患者かもしれない。

 この話の始めに戻るとすれば、カリガリ博士やカリガリ教祖はもういるのだから、次に必要なのは詩人だ。現在の詩人は、爆弾を落とし、ドローンを飛ばす。馬鹿げた言い回しをひねるよりも、その方が詩である場合がある。
 


2017年5月26日金曜日

原始人とゾンビ

 ゾンビでロッキー・エリクソンを思い出した。
「昨夜ゾンビと歩いたんだ」という曲をやっている。歌詞はそれだけで、ほぼ馬鹿丸出しなのだが、見た目はとても馬鹿丸出しで、大好きだ。
 ロックの歴史に残る歌手で、13階のエレベータというバンドをやっていた。そのバンドは、耳障りの悪い、妙な音のする「楽器」(あんなものを楽器と呼べるならばという、かなり難しい前提を必要とするが)を必ず入れる事で、おそらくコマーシャリズムに反抗を表現していたのだろう(でなければ、まったくの馬鹿か、時流におもねた気取り屋だったか)と思うが、そういう音楽をやっていた。サイケデリックの始祖鳥のひとつという評価が出来るかもしれない。
 エリクソンは見た目の悪いサエない爺さんで、格好も良くないが、妙に元気なロックをやる。聞いていて、こんなんでもいいな、楽しいなと感じさせてくれる。
 始祖鳥というより、原点と言うべきかもしれない、そして、原点から動いた事がない。原点そのままだったら、原始人とも言えるだろう。サイケデリック・ロックの原始人だ。素晴らしい。
 おそらく麻薬漬けの人生だと思うが、生きているようだから丈夫なはずだ。末永く馬鹿ロックをやってもらいたい。手放しで応援している。

2017年5月25日木曜日

歩く美魔女

 美魔女と言う言葉がある。美容・ファッションのお得意様の婆さんたちを指す言葉だ。

 美容関係で、あの婆さんたちに使われるのは、豚の胎盤とか、カタツムリの粘液とか、そういうシロモノだ。初めて知った時にはおどろおどろしいものだと感じた。

 でも、魔女だったら、婆さんがヒキガエルだ蛇だの、おどろおどろしいものを鍋で煮るのはあたりまえだ。
 美魔女も婆さんなのだし、おどろおどろしいものとの違和感もない。そうすると・・・そうか、顔が鍋なのか!

 美魔女は、鍋の代わりに顔で凄いものを似る婆さんたちなんだ・・・

 ブードゥー教には、人をゾンビにしてしまうゾンビ・パウダーという粉があるけど、美魔女なら化粧で使う粉で対抗できる。
 ゾンビ対婆ァ・・・うーん、ゾンビごときに勝てるだろうか? ウォーキング・婆ァ・・・土日になると、丈夫そうなのが、その辺を集団で歩いている。

 やっぱ婆ァって、怖ええよな。

 

コミュニケーション・スキル・ブレイクダウン

 知っている事でも知らないと言った方がコミュニケーションは上手く行くそうだ。
 ふうん、そうやって嘘言って、相手をいい気持ちにさせたりして、スキを突くんだね。で、相手を操作しようというわけだ。
 コミュニケーション力とか、コミュニケーション術と言われるものって、相手から情報を引き出したり、こっちの売りたい物を買わせるにはどうすればいいかってだけの話だよね。

 で、そのコミュニケーション・スキルとやらを身に着けた人同士が話すと、
「知らない」
「そうですか、私の方が知らない」
「はい、私の方がもっと知らない」
「私の方がもっともっと知らない」
「私の方がもっともっともっと知らない」
という会話になる。人数が増えても同じだが、ちゃんと数えておかないと、自分の時に何回「もっと」を言わなければならないかわからなくなる。

 腹黒いのを隠しながらおためごかしの嘘を言い合って、中身のない関係の作る・・・アレ? いままでと変わらないような気もするぞ・・・違うのは、下の者が上の人間にゴマすってやってた事を、上も下もなくみんなしてやるって所なのかな?

 ここで面倒くさがって、
「あ、それはわかってる」
とか言ってしまうヤツがいると、「もっと」の回数がリセットされてしまうので混乱する。
 でも、気を取り直して、
「そうなんですか、凄いですね」
と、コミュニケーション・スキルを発揮するのだが、
「いや。凄くない。知ってても意味ない」
 取り付く島もない態度をとり、興味を失った顔で離れて行く。

 こうして、コミュニケーション・スキルのない人は去り、その場は、再びコミュニケーション・スキルに満ちた人たちだけの楽園になる。安心して「もっと」を数えられる。こうなったら「もっと」を通貨として採用してもいいかもしれない。ブロックチェーンを使えば「ビット・もっと」なんて弁当屋みたいな名前だが、デジタル化もできる。

 ぶっきらぼうで、面倒くさがりで、正直な人がいかに迷惑な存在か、これでわかる。
 偉そうにしたいだけの爺ィなんてのはまったくのカモだという事もよくわかる。

 つまり、コミュニケーション・スキルというのは、粗製乱造で内容のないベビーブーマー世代を転がしてカモにするための接客ノウハウなのかもしれない。

 本当に人と気持ちを通わせてつきあいたいなら、無駄で無意味な時間を沢山使うしかない。そこでは効率といった市場で求められる価値がまったく機能しない。私的領域という事だ。私的領域と社会的領域の区別がつかない混乱は失敗に結びつく。

 コミュニケーション・スキルのない人は、ある人とは付き合わない方がいい中身がないからだ。
 コミュニケーション・スキルのある人も、ある人と付き合わない方がいい。「もっと」の数を数える以外にやる事がないからだ。

 コミュニケーション・スキルのない人は、孤独になり、寂しく老いさらばえ死んで行く。
 コミュニケーション・スキルのある人も、孤独になり、寂しく老いさらばえ死んでゆく。

 老いというのは、孤独で寂しく、しかも、もうすぐ死ぬものだからだ。

チャーリー・ブラウン、俺を許してくれ!

 故チャールズ・シュルツの漫画シリーズ「ピーナツ・ブックス」(シュルツはこのタイトルを嫌っていたという。よくある話)は、少年時代に女の子にうんざりさせられた事があれば、つまり、男の子だったらほとんど誰でも理解し、共感できる作品だ。
 登場するどの女の子も凄い。
 でも、現実の男の子は、そんな話には飽きるし、戦って悪いヤツをやっつける話の方が好きなので、あまりピーナッツを読まないかもしれない。
 だから、この漫画の読者像としてあるべきなのは、少数の男が、苦い思いを噛み殺しながら読む姿のはずだ。
 しかし、世の中には、そんなひ弱で繊細な男ばかりで出来ているのではない。恐るべきことに女がいる。

「スヌーピー、可愛い〰い〰」

とか吠えながら突進し、シュルツの作った世界を踏み潰し、破壊しつくしてやまない存在だ。
 あの、影のある屈折した世界など、まったく理解できないのだ。動物の絵を見れば、条件反射で「可愛い」と感じる。あるいは、本当は感じていなくても、そう言う。
 それを別の言い方で表現すると鈍感という言葉になるのだが、鈍感で、理解力に乏しいのは多数派だ。
 だから、可哀想に、スヌーピーは可愛いくされてしまう。そんな事をするなんて、無神経の見本として表彰してもいいぐらいだ。

 ピーナツの登場キャラクターの商品化は、ひとつの表現世界の蹂躙と破壊に他ならない。

 でも、子供がそれを欲しいと言えば、黙って負け、ぬいぐるみを売っている店に行く。
 そして、買う前に正式ライセンスかを確かめたりもする。

 チャーリー、このどうしようもない大衆を許してくれ!
 
 

 
 
 

2017年5月24日水曜日

ワイマールの教訓

 第一次大戦後、ドイツでワイーマール憲法が成立した。当時としては開明的で進歩的な内容の憲法とされているが、結果としてはナチス・ドイツの第三帝国を生み出した。

 良くしようと思い、良くしようとした結果、悪くなってしまった。
 ワイマールから引き出せる教訓はこれだ。
 実際、これは良くある話だ。悪くなるとまでは行かなくても、結果が思わしくないという程度なら、ほとんどの行為の帰結にあてはまる。人の意図は現実に移されると、ほぼこういう末路をたどる。 

 良くしようとしたのだから、良くなるとなどと期待してはいけない。
 良い意図と良い結果、悪い意図と悪い結果が対にはなっていない。どのように結びつくかまったくわからないものだ。
 ただ、時として、何かの間違いなのか、いい結果が出る事があるかもしれない。
 ローリング・ストーンズなら 'You can't always get what you want' と歌うところだ。

 人の行為は、理想と較べて何割ぐらい達成できたかを考えるものだ。半分ぐらいだったら大成功という時もあるだろうし、6割で良しとするという場合もあるだろう。本当は、もっと低いところで妥協しているかもしれない。
 でも、それでいいんだ。そう見れば、良くしようとして、良くなったと言える。それは大事な事だ。
 どんぱん節でも「なかなか思うようにゃ、いかねもんだ〰」と歌っている。
 教訓には従った方がいい時がある。