2020年10月23日金曜日

まず言葉を殺し、それから人を殺すようになるのか?

PC(political correctness、政治的に正しい表現)派は、彼らが(政治的に)正しくないと認定した者を否定し、批難する。これによって、その人はお詫びをしてPC派の末端に入れていただくか、あるいは、敵となって生きて行くかしかなくなる。

こうして社会に分断・分裂が生まれ、亀裂が生じる。

社会に亀裂、対立が生まれるのは正しいのだろうか?

これを取り仕切っているのはPC派だから、亀裂は極めて党派的なものと言わざるを得ない。この党派は組織があるわけではないが、おおまかに見てひとつの傾向としてあり、内紛や異端粛清を含めて、党派性の特徴を兼ね備えている。

「悪しき」と形容するのも可能だろう。

例えば差別がなくなるのは好ましく、望ましい。だが、「差別よなくなれ」と呪文を唱えればなくなるものではない。政治だったら立法で変わる。だが、社会は政治ではない。社会は、何となく、いつの間にか変わったり、いつまでも変わらなかったりするものだ。これを政治の力で急速(強引)に変えようとすると、全体主義に陥ってしまうのは、歴史を見ればすぐにわかる。

無理、あるいは、先走りはいい結果を生まないようだ。

社会の変化は政治の手に余ると思う。ただ、なんらかの影響を与える事ぐらいが関の山だ。

重度の身障者を身内に持つ友人が、昔は弟を連れていると、突然、見ず知らずのおばちゃんに罵られたものだけれど、今は道を譲ってもらえる。人の気持ちが良くなったと喜んでいた。

少しずつかもしれないけれど、現在でも、世の中、良くなっているようだ。

この、見えないほどの、微かな変化で、社会は良くなって行く。とてもデリケートで壊れやすいようだ。ちょっとした事で、すぐに反対側に行ってしまう。だから、余計な手を出さず、のびのびと変化して行けるように見守っていけばいいのではないだろうか。焦りは禁物だ。自然に任せよう。

それに、自分は正しい側にいると思った人は、どうも感情的になりやすいようだ。すぐに思った通りの結果が出ないと苛立ち、感情的になる。

たいてい、これで物事は台無しになる。正しいはずの人たちが最悪の結果を生み出す。

正しいはずの人たちが、正しさに溺れ、正しさを見失ってしまったのかもしれない。あるいは、本当は最初から正しくなかったのか?


 J. K. (ジョアン)ローリングとケリー・ケネディの対立は、「女」という言葉を使わないようにしようというケリーたちの主張に、J. K. が異を唱えた所から始まると言われている。そうなんだという事にしておく。とっかかりが違っていたとしても、この話の内容には影響がない。

ジョアンに対しての、PC(political correctness、政治的に正しい表現)を代表するケリーの非難はおかしい。


セレブなんかと関わり合いたくないのだが、どうせ、これがあの人たちに届くはずはないんで、関わり合った事にならないだろう。