2020年10月4日日曜日

言葉の毒と怖さ

包丁は調理器具だが、人を刺せば凶器になる。

日本刀は美術品だが、武器と認識されている。

言葉は優しく人を慰める事もあるが、残酷に傷つける事もある。言葉で愛情を詩にうたういもするが、その愛情が憎悪に転化する事もある。言葉は包丁や刀などよりはるかにやっかいなもので、凶器である事が本質なのかもしれない。

刀は自分も人も傷つけたり、死なせたりする恐れがあるので、取り扱い方法も含めて作法が必要とされた。剣法にそって扱う事で、最低限、自傷事故は防ぐ事が期待された。また、礼儀は、争いを避ける事、礼儀に叶う事で分を保持できた。その場の分が自らにあると信じられれば、争いになっても精神的に動揺せずに戦える。今風に言えば、メンタルを強くして、勝つ確率が高くできた。作法と礼儀はそうした中身を持っている。

小林秀雄だったか、酔っぱらって暴漢だかに殴られ、家で寝ている所に中原中也がやって来て、酷い顔になったとか、散々にこき下ろした。小林秀雄は、そのこき下ろしの多様性に「さすがに詩人だ」と感じ入ったという。

言葉というのは、かくも残酷で容赦ないものなのだ。洗練されればされるほど、鋭利で毒々しくなる。

言葉であっても、刃物と同じく、人を傷つけないというのは当然だろう。そのためには、言葉は刃物以上に人の精神を深く、時として修復不可能なまでに傷つけるものだという認識が必要になる。その認識なくして、人を傷つけない言葉などありえないからだ。

そんな事もわきまえずに杉田水脈を攻撃する者の愚かさが、言葉が凶器である事を野放しにする。