『「熊取」からの提言』(小林圭二 編者 世界書院)という退屈そうな本に長崎浩氏のエッセイを見つけたので読んだ。
脱原発派本みたいだから全部は読んでない。バカバカしいからだ。それなので退屈そうというのは感じだけだと断っておく。
長崎氏のエッセイは「戦後科学技術の変貌」というタイトルだけれど、戦後の科学技術史というのではない。
これを読んでわかったのは、戦後、科学者の主流は日共系だった事だ。それがずっと根強く続いてるんだろうと思う。ああ、いやだ。
エッセイの主題は科学批判のようだ。トーマス・クーンのパラダイム論を引いて、科学者の共同体を論じている。科学者共同体はひとつのパラダイムに則ったものだという。最初に、そりゃそうだろうと思ったが、先端科学の分野などは昔とまったく違うと言っているのかもしれない。戦後と違って、平和を言わなくなったという事かも。
ひとつのパラダイムに則った科学者共同体も、一方に怠惰な惰性を抱え込む。「科学者共同体もまた、大衆社会なのである。要するに村である」と、長崎氏は書いている。
ああ、このあたりの感覚から「原子力村」という言い方が出てくるのかと思った。
でも、これだったら、脱原発派も村だし、野党も村だ。何でもかんでも村になってしまう。
原子力発電の話が、奇妙キテレツになるのは、違う村同士で前提も共有できないからなんだね。脱原発村には、新興宗教まで入り込んでるし、話になんかなるわけがない。まあ、脱原発村の村人たちは、話なんかするつもりないみたいだけどね。それに、自分たちも村だという自覚もない。
そうか、民主党系野党のあのわからんちんさは、村ではあれでいいからなんだね。村の常識だね。いや、風習とか習俗とか言うのかな・・・
17世紀ぐらいから20世紀にかけて魔術と縁を切って成立した科学を、日本の戦前と戦後で分ける発想が理解できなかった。敗戦という政治の都合で別物になった科学の掲げる平和というのは、無難の言い換えみたいに見える。つまり、信用できない。
毒にも薬にもなるものを扱って、薬にしようという力技の努力を放棄したら、科学をひっくりかえせば自動的に安心健康とのんきにかまえているエコロと同じニヒリズムになるだけではないのかな?
このエッセイに共感するところはないけれど、長崎浩氏の静かな正直さは村人のものではないかもしれない。